第百話 呂宋の日々
呂宋島を制して約一年、後一月ほどで年も開けようとしているが、この間は内政と外交の期間であった。
初めは、万が一に備えて日本からの移民を控えていたが、日本に呂宋島を制したことが伝わると、多くの移民が送られて来ることになった。
特に商人たちの動きは早く、各地から商人がやってきては店を開き、呂宋の品を日本のへと運び込んでいる。
奈古殿の義父角倉了以殿が面会を求めて来て、呂宋の特産品を多数日本に持ち借りたいと聞いた時は驚いたが、それを帝の献上することになっており、南方の功を称えて豊臣家に降嫁を行うと聞いたときには、言葉が出ない程の驚きを覚えたものだった。
父上がどのような手で認めさせたのか想像もつかないが、相手は瑞雲丸であるらしく、全く頭が整理できずに小西行長に全てを任せる事にしたが、いつの間にか噂が広まり諸大名からも献上品が集まって、船一つではとても足りずに船を融通することになってしまった。
だがこの帝への進物はそれ以上の価値を豊臣にもたらしてくれるだろう。
次の驚きは、更級からもたらされた誾千代殿の事で、いつの間にか話が大きくなって、柳川侍従を支えるために呂宋までやってくるらしい。
とはいえ、夫婦のことなのでとやかくいうつもりもないし、別居していた夫婦がともに暮らすことになんの問題もない。
ただ、思っていた以上に行動的だなといったところだ。
軍制として大きく変わった点としては、やはり大友家が改易となり家臣団を束ねる存在がいなくなった事で、大友の諸将が小分けに兵を率いることとなり、各将に必要に応じて派遣する形を取って、一部は直臣として雇っている。
直臣の誘いを真っ先に行った志賀親次をはじめとして、佐伯惟定、惟寛率いる佐伯勢、大友水軍の将若林統昌などが直臣として採用した主な面々となる。
それ以外のものは、帰国を命じられた大友義統と一部の側近以外は引き続き南方作戦に参加をする事になっている。
改易処分を受けた義統は、領地に残されていた嫡子とともに、ひとまず筑前豊臣家に預けられることになっており、この後は謹慎という形になると思われる。
その義統を日の本に送るようにとの命令に前後して、本国からは秀頼が産まれ、そして叔父上が倒れたという報せも受ける事になった。
秀頼が産まれた事は予想できていたことであり、更級が自分のことのように喜んでいるのが、送られてきた文からも想像できて悪いことだとは考えなかった。
しかし、叔父上が倒れたとの報せは、本来既に亡くなっているはずが早期の療養で寿命が伸びていただけで、倒れること自体全く不思議でないことのはずが激しく動揺してしまった。
南方征伐を終えるまで数年はかかるであろうとの予想から、叔父上の寿命が尽きる可能性は高いと考えて、初め無いとは思うが万が一の粛清を考えて秀次を南方に連れて行く予定であった。
しかし、父上は淡路を与えるほど秀次を信頼していることから、直前に考えを変えて叔父上亡き後父上を支えて欲しいと日の本に残した経緯がある。
そう考えられるほどに、叔父上のことは冷静に考えていたはずだったが、いざ報せを受けると常に力を貸してくれた小一郎叔父と優しい柊様の顔が浮かび、官兵衛に「一時帰国して日の本の動揺を抑えたほうが良いのではないか?」とまで相談したものだった。
だが官兵衛は静かに首を振り「確かにそうすれば日の本は多少収まるやもしれませんが、南方どうにもなりません。誰に代わりを任せるおつもりですか?」と言われてしまった。
「少なくとも豊臣一門でなければ分裂するのは必至。備前中納言殿か讃岐宰相殿がいれば一時の帰国であればしのげたやもしれませんが、どちらも日の本にて」
そういう官兵衛に「そちや義兄上であれば」と言ってはみたが「真田は公方様の義兄とはいえ未だ人質であることに変わりなく、領地も与えられてはおりません。総大将として諸大名を従えるのは難しゅうございます。播磨麾下の一軍の将であれば納得もできましょうがそれ以上は納得されませぬ。それにわしに任せるとは天下をいただけるのですか?」
父上に対して官兵衛が反乱することなど想像できず、また心にも無い態度を取ってと思ったが「それに殿下はあまり良い顔をせぬでしょう」と寂しげに言われると、官兵衛を危険視している父上を思い出し、何事もなくとも自分に取り入ったと考えて、官兵衛を取り上げられる可能性に思い当たった。
今官兵衛を失うわけにもいかず、義兄でも駄目となれば動くことは出来そうもなかった。
「今後動くためにはどうすればよい?」
その問いに官兵衛は「まずは南蛮との戦を終わらせねばなりません。備前中納言様を呼べるのであれば南蛮の戦を任せてもようございますが、讃岐宰相様では戦の経験が少なく大事には対応できませぬ。和平がなれば、讃岐宰相様か辰之助殿にお任せして日の本に戻ることもできましょう」と意見を述べた。
「分かった。辰之助を呼び寄せどこか南方に領土を与える。辰之助は若年ゆえ筆頭家老として木下備中に支えてもらう」
木下重堅は宮部継潤の与力であったこともあり、自分が播磨に入ってから知っており忠義も疑いようがなく、若い辰之助を支えてくれるだろうと考えた。
その言葉を合図に官兵衛は「それが良いかもしれませぬな。ですがそろそろ、その地を与えるか考えねばなりませぬ」と話し始めた。
領地分配に関しては、セブを落としフィリピンからスペインの勢力を追い出してからの発表を考えていて、その用意も進められている。
多くは官兵衛と相談しながらの素案と言っていい状態ではあったが、秀次に田中吉政を南方で独立させたいと書状を送ったり、父上に小田氏治の南方での大名復帰を願ったりとそれなりの準備は行っていた。
東軍の主力となった田中吉政を秀次から引き離しておきたいとは常々考えており、彼が領地開発でも名高いことからフィリピンの開発に使えば将来の危険も減らせるとの考えからの行動でもあった。
小田家の大名復帰については、旧領から小田を慕う領民の移民が期待でき、また名家である小田家がなくなるのは忍びなく、更には秀保が入った宇都宮家の傍流であることから大名として取り立てたいと父上には説明しているが、個人的な思いが強い気がしている。
この様に領土分配は先であり多くが準備の段階だったが、例外としてマニラにほど近いミンドロ島は小早川秀包に与えられる事が決まっており、既に伝えられてもいた。
マニラへの食料供給地として早めに開発に取りかかかりたいとの判断からであったが、既に小早川の家臣団はこの地に入って領地の経営に取り掛かっている。
ミンドロ島では呼びにくいと小早川の本拠にちなんで三原島と名を変えていたりと領地経営は着々と進められているようだ。
この様に、日本人に呼びやすいように各地の呼び名も変えられていて、マニラも呂宋京やそれを縮めて呂京などと呼ばれ始めていたりする。
マニラではスペインの残していった施設の研究も進められていて、現地に残った住民や降伏した将兵から多くを学ぶため、本土からも技術者や学者を送り込んでもらっている。
特に農学校からは多くの者を呼び寄せていて、南方の作物の研究以外にも、水軍拡張のために品薄になっている木材や繊維の不足を補うため、フィリピン各地で良い原材料を探させてもいた。
遠からず扱いやすい南洋材を見つけ出してくれるだろうし、マニラ麻を見つけ出してくれればとも期待している。
第二次攻撃の準備も着々と進められていて、順調に南方作戦は進んでいたが、想像以上に距離と時間の壁は大きく、思った以上に日の本へ関われていないことが不安と問題になりつつあった。
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