第九十七話 呂宋の衝撃

 スペインのアジア方面を任されたパルマ公アレッサンドロ・ファルネーゼは、フィリピンより送られてくる戦況報告に頭を悩ませていた。

 マニラ放棄の決断をしたマニラ総督が率いる軍勢は、まずバタンガスへ向かいそこでも敗走して、今度はナガへ向かうべく行軍を行おうとしていると報告が以前に送られてきており、それを救い出すべく兵の編成を急がせていた。

 しかしながら船も食料も無い中で、密林と原住民が支配する地をかき分けての行軍に賛成するものは少なく、彼らが築いた野営地では病も広がりつつあって降伏を選ぶとの手紙が届いていたのだった。


 その中にはマニラには少なくとも三万以上の軍で攻め込まれ、敵兵は多くの大砲と鉄砲を装備していたと書かれていて、特に鶴の旗を持った軍勢は全く死を恐れることなく血肉を求める狂人の集まりであったと恐怖とともに綴られていた。

 バタンガスでは何とか抵抗をしていたが、黒い十字架の軍勢が戦場に現れると、神の軍勢がやってきたと一時は士気が上がったが、彼らは鶴の軍勢と同じく血を邪教の神に捧げることを喜びとする狂人たちの集団で、支えきれずに敗戦したと記されていた。


 報告を読んだパルマ公は、三万という軍勢はにわかに信じられるものでは無いが、少なくとも考えていた軍勢より遥かに多い軍勢を率いてきたこと、そしてマニラだけでなく周辺の島々にも同時に兵が現れたことから、マニラに攻め込んだ兵に加えて別働隊が存在し、それもかなりの兵力規模である可能性が高いと考えている。

 何よりもフィリピンに配置した軍勢が事実上消滅して、手持ちの兵力がさらに減少したことはあまりに痛い失態だった。

「配置転換をしなくてはならないか」

 誰にいった言葉でもないが、側近たちはその言葉に緊張を新たにして、彼がいかに決断するのか耳を澄ませた。


 今、パルマ公の中には二つの方策が浮かんでいる。

 名をつけるのであれば積極防衛と消極防衛と言えるもので、前者はフィリピンに援軍を送りそこで食い止めることを意図したもので、後者は援軍を送らずに半ば放棄して、フィリピンが落とされている間に防衛網を再構築するというものだった。

 後者は東南アジアのイスラム勢力との争いによって疲弊することも期待している。

「セブ島の防衛はどうなっている。確か要塞があったと記憶しているが大きいものか?」

 恐らく近いうちにゼブへの攻撃が行われる事を予想し聞いてみたが、結果は芳しいものではなかった。

「確かに要塞はございますが、原住民対策に作られた簡素で小規模なもので、万を超える軍勢にとってはたいした障害にはなりません」

 ファリピンにも行ったことのある軍人の言葉に、とても支えきれないことを悟りついに決断を口にした。


「フィリピンにいる兵や住民はマカッサルに向かわせる」

 マニラ総督軍の救援のために編成した部隊を、兵と住民の輸送に当たらせることも、併せて指示している。

 その言葉に「フィリピンを放棄するおつもりですか」と文官が噛みついたが、ある軍人の「ゼブにいる兵の数は知っておりますな。数百の兵で万を超える軍を防げるのでしたら、どうぞ指揮をとってください」との言葉に色を失い、フィリピンからの撤退はそれ以上の反対もなく進められることとなった。

 大きな反対がなかったのは、予想以上の大軍を擁しマニラでさえ障害とならずに短期間で占領した日本に対する恐怖が場を支配していたからだった。

 このまま、各個撃破され続けてはアジアの全てを失うという予想も影響している。


「さらにマカオの防衛に力を注ぐ必要があるな」

 アレッサンドロは苦々しい顔をして言葉を紡ぐ。

 スペインの領地でないマカオでは何事をするにも役人への献金が必要で、防衛を目的としてもそれは変わらなかった。

 そのことは苦々しく思っていたが、その代わり防衛を口実にマカオ内の自治可能な地区の拡大、そして各種要塞や砲台も含めた軍事拠点の確保が出来ており一方的に悪い取引ではなく、少なくとも納得はできている。

「ここであれば何年でも耐えてみせる」

 初戦の失敗でフィリピンを失ったが、劣勢に陥る可能性は当初から考えてもいた。

 逆に守るべき地に迷う必要が無くなり、アレッサンドロは戦意を滾らせている。


 それと同時に彼はスペインの宮廷を生き延びた政治家でもあったから、和平についても思考している。

 少なくとも、かなりの期間我が帝国がフィリピンを再び手にする機会は訪れないだろう。

 そして、その南にある島々も維持することは出来ない。

 日本の地で見たあの若者の手には少なくとも四万、恐らく五万以上の十分に訓練された陸兵と、それを運ぶ艦隊を持っていて、香辛料の実る島々を見逃すことなどしないだろうと彼は評価していた。

 まだその価値を知らない可能性はあるが、降伏したものやマニラの人々が自らの安全のために、その価値の高さを耳にいれるだろう。

 香辛料を絶たれれば、商人たちからの突き上げは避けられない。

 それに耐えながら戦争を続ける事はできるだろうか?

 完全にしてやられ、戦を失ったことがアレッサンドロには自覚できていたが、そうであるがゆえにマカオまで失うことは出来ないと思考を切り替えた。


 かつて日本の地で会った老人の顔と、若者の顔を思い出す。

 彼の耳には、今回の総司令官があの若者であるとの情報が入っていていた。

 恐らく意図的なものだろうなと思う、和平を結ぶのであれば自分を窓口とするようにという雰囲気をどこか感じている。

 アレッサンドロからしても一筋縄ではいかないであろうが、彼であれば信頼できるという思いを持っていた。

 まだ和平を結ぶ段階ではないが、いつかは使者を送る必要があるだろう。

 交易の再開は求める必要があるな、そう思いながらもそれを表に出すことなく、軍人たちの言葉に耳を傾けて続けている。


 彼が方針を示したフィリピンからの撤退は、部下たちの意見を取り入れながら形となり、マカッサルの要塞を整備して増援を送り、そこで食い止めることがスペインアジア方面軍の方針として決定された。

 自らが信頼する、共にネーデルランドの反乱で戦った家臣にパルマからの兵の一部を預けて、マカッサルに送り込むことも決断した。

 フィリピンでの大敗を受け迅速に戦線は整備され、スペインと日本の戦いは次の衝突までの準備期間に入ろうとしていた。

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