第九十六話 小一郎と兄

 秀吉が柊と話してから一夜明け、秀吉が小一郎を見舞う日がやって来た。

 秀吉は昨日涙を流したが、それを見せない陽気な態度を筑前豊臣家の家臣に見せている。

 家臣の中には当然、秀吉と戦場を共に戦った者も多くいて「おお、息災の様子じゃな」などと話しかけながら城を歩き、小一郎がまだ目覚めていないと聞いたので、現当主である持長との会談を行っている。


 主な話は明や朝鮮のことで、済州島の占領を行ったことから朝鮮の話が主となっている。

「与右衛門(藤堂高虎)が済州に入り、守りを固めていると聞いたが、どうなっとる」という秀吉の問いに「流石に済州を占領したことで、交易を断ち使者も拒否しております。万が一に備え、城を建て港を整備して攻撃に備えるように佐渡守には申し伝えており、近々完成する見込みであると文が届いております」と答えると「うむ。与右衛門ならうまくやろう」と満足気な表情を浮かべた。


「そちから見て朝鮮はどう思う?」との問いにも「民は貧しく、王は民を顧みず、臣下は腐敗しておりまする。戦をすれば勝てましょうが、土地は多くの収穫を望めず、北方に蛮族も有り守るに兵も要しまする。日の本のものとなっても益をもたらすとは思えません。交易を行うに留めた方が良かろうと考えまする」と堂々と答える。

 その態度に秀吉は、小一郎が後見を行いながら教育を施し、立派に当主を果たせるほどに育ててくれたのであろうと思った。

 まあそうでなくとも柊が、自分がかつて仕えた今川家の尼の様にして、過不足なく筑前の家を維持しそうではあったが、心強い事に変わりはなかった。


「朝鮮の事は任せるわ。好きにすればええ」

 戦を考えず、ほとぼりが冷めてから交易の交渉をするつもりの様子であったので、任せても大事にはなるまいと考える。

 これならば今腹の中にいる摩阿の子がおなごであれば、拾と結ばせてもよいやもしれんのうなどと考えていると、小一郎が目覚めたとの知らせが舞い込んだ。

「松よすまんが行ってくるわ。見舞いが終わったらまた話を聞かせてくれや」と言って秀吉は小一郎のもとに向かう。

 歩いていく秀吉の背中は、どこか不安を抱えているように持長には映っていた。



 昨日柊から兄が来ていると聞いて眠ったかが、目覚めてしばらくすると、懐かしくも感じるなんの遠慮もない大きな足音をさせて兄がやって来て、開口一番「小一郎久しいの」と話しかけてくる。

 その態度に、兄が無理をしていることが感じられて「兄さ騒がしいわ」とつい不機嫌に答えてしまった。

「なんじゃ、せっかく来たというに」と不機嫌になる兄であったが、すぐにいつものことと思い直したのか「わしに、憎まれ口を言えるとは意外と元気そうでないか」と笑う。

 そのような態度にも兄の無理が感じられてつい「兄さもうやめんか」と口に出してしまう。


「何をじゃ、小一郎にはまだまだ働いてもらわにゃあならん」という兄に「兄さ、床に伏せるようになってから、もう立つこともできんわ。大和の折五年と言うとったが、年を越せば六年じゃもうよかろう」と言うと、怒気を孕んだ口調で「官兵衛は脚が萎えとるが、餅について南方じゃ。唐や朝鮮がいつ攻めてくるかも分からん。そちには輿に乗ってでも指揮してもらわねば困るんじゃ」と口にしたが「無理な事はわかっていよう。それにわしはそこまで戦は好きじゃないわ。兄さの為にしただけじゃ」と言うと兄は肩を落とし下を向く。


 そして突然抱きついて来ると「そんな事はわかっとる。それでもじゃ、お主が居らんようになったら、餅と拾はどうなるんじゃ。わしが死んだら誰を頼ったらええんじゃ。何よりわしは誰を頼ったらええんじゃ」と喚くように兄は言った。

 きっとわしに涙を見せたくはないのであろう。

「すまん兄さ、じゃが分かるわ。ただこれだけ話すだけでも難儀しとる。もう長くはないわ」

 自分を抱く兄の体が震えているのが分かる。

 これほどまでに思うてくれることに、わしの一生は無駄でなかったと思えて涙が流れる。


 言葉を残すのは今日しかあるまいと思い「柊よ遺言じゃ、松を呼んでくれんか」と言うと、柊はなんとか絞り出すように「はい」と答えてから、よろよろと立ち上がった。

 松丸が来るまでの間、誰も口を聞かず、兄もふらつくように離れると倒れるように床に座り込んで下を向いている。

 持長が妻である摩阿を連れて部屋に来たのを確認して、再び口を開く。

「細々したことは、追々柊に言うて残そうと思うが、松は一庵、羽田長門守、藤堂佐渡守を頼りに豊臣の家を支えよ」

 涙ながらに「はい」と答える息子に「わしが兄さに仕えたように、そちは餅に仕えよ。餅を裏切るはわしを裏切ると思うように」との言葉をかける。


 そして柊に「そちを残してすまん」と言ってから「菩提の事は柊の好きにすればええ、ただ城に残って松と摩阿を支えてくれや」と言った後に「おなごのことなど分からんで兄さに任せたが、柊が来てくれたことがわしにとって一番の出来事じゃ。恥ずかしいが桐が生まれた時と何も変わっとらん」と口にした。

 普段は言えぬからこの時であればと思い、言うてはみたが思うた以上に恥ずかしく、少し後悔してから柊の顔を見て、まあよいかとも思った。


「兄さには」と口にしてから「すまんが皆出てくれんか」と頼み、部屋には兄と柊だけが残る。

「たわけが、先にいくでないわ小一郎」という兄の言葉に「わしとて兄さや餅をまだ見ていたいわ。でもな体がもうあかんわ勘弁してくれや兄さ」と言っても「許さぬわ。まだやってもらわねばならんことが山程あるんじゃ。のう小一郎頼むわ」と言って聞かず「わしとてそうしたいわ、だができんのじゃ」と先程と同じような事を繰り返す。

 先程までと違うのは、家族だけとなって誰に憚ることもなく、三人ともが涙していることぐらいであった。


「兄さ、わしの遺言聞いてくれや」

 頷くことも首を振ることもせずに、拳を握りしめる兄に遺言を伝える。

「南方でかなり無理しとると聞いとるわ。あまり足しにはならんじゃろうがわしが持っとる金子は兄さが使ってくれや」

 兄は何も言わず静かに聞くことにしたようだった。

「すまん。色々考えたがそれだけじゃ。後は好きにしてくれてええ、少しでも兄さに会えてよかったわ」

 そういうと堪えきれずに「そんな平気な顔をしよって。小一郎は怖くないんか?わしは小一郎がおらんくなるのがどうしようもなく怖いわ」という兄の言葉を聞いて「山程死ぬのを見て、数え切れんくらい殺したというに、自分がと思うと恐ろしくてたまらんわ。金ヶ崎の時は兄さも小六どんも半兵衛殿も一緒じゃと思うておったのか、全く怖くなかったのに一人じゃと怖い。わしゃあ兄さに必死に付いていってただけじゃった。だが後悔はしとらん。兄さの弟でよかったわ」と武士らしくない言葉が口から出てしまう。

 そして、兄に言うべきことは言えたと思うと、気が抜けたのか急激な疲労と眠気を自覚する。


「兄さに、会うて舞い上がっておったのか、話しすぎたようじゃわ。疲れてしもうた、兄さ少し寝かせてくれんか」

 そう言うと、泣きながら「分かった、ゆっくり休むがよい」と言って兄さは部屋を出ていく。

 柊と二人残されて「お休みくださいませ」の言葉に「ああ、じゃが兄さにも柊にも会えんようになるのは、やはり怖いのう。最後の時は柊、きっと側にいてくれ」と頼むと「必ず」と返ってきた。

「柊が来てくれたのが一番であったわ」と呟き目を瞑る。

 耳には「私も幸せでございました」と届いたが、何も返すことが出来ずに眠りに落ちた。

 かなり無理をしたのか、数日の間ほとんど目覚めることもなく、起きた時には兄さは聚楽第へと戻ったと聞かされる事になった。

 しかし、目覚めた時に変わらず居てくれた柊を見て、やはり良い人生であったと思った。

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