第九十五話 柊と藤吉郎

 柊が送った文が聚楽第に届いた頃、柊の元には秀吉から送られてきた、小一郎に宛てた息子の誕生を喜ぶ文が届いていた。

 夫の看病に疲れた頭で目を通し、何とか返事をと思ったが筆を取る気にもなれず、右筆を呼んで酷く味気ない誕生を喜ぶ文を書かせた後、夫の看病に戻る。

 看病と言っても医師や侍女たちが全てをしてくれるおかげで、いつ目が覚めるか分からない夫にただついているだけのものではあったが、目が覚めたときには必ず言葉を交わせるようにと眠る時間は最低限度にしていることが柊の体を痛めつけていた。


 息子も忙しい政務の間を縫って日に一度は必ず顔を見せ、摩阿も身重にも関わらず、少しは眠ってくださいと代わりに夫についてくれている。

「おお柊、今何刻じゃ」ここ最近日付は聞かずいつ目覚めたかを気にする様になった夫に「夜半過ぎにございます。殿下からおのこが産まれたと喜びの文が送られてまいりました。はよう元気になってともに上洛いたしましょう」と声を掛ける。

「それは目出度いの、柊よ疲れている様子じゃ。わしもしばし眠るゆえそちも休むがよいわ」

「はい、そういたしまする」

 そう言って夫はまた眠りにつき、気がつけば夫により掛かるように柊も眠っていた。


 数日後、殿下から先日の文が嘘のような、病状を問いただす文が届いた。

 夫の現状を書き記し、典医にも見立てを書き加えてもらったものを送った後も、何度も『小一郎の様子はどうじゃ』と文が届き、そのたびに病状を伝える日々が続く。

 夫が倒れ一月もすると、日のうち数刻は起きて言葉を交わすことができるようになり、調子の良い日は柊の体を支えに、座って共に庭を眺めることができるようになるなど、このまま快方に向かうのではとすら思えるようにまで夫は回復している。

 ただ典医にはこれは一時的なもので、期待せぬようにと釘を刺されはしたが、それでも淡い期待を抱かずにはいられなかった。

 殿下が見舞いに来たのはちょうど、この様な状態の頃であった。



 秀吉は、柊から届く文を読んでは弟小一郎の病状について何度も問い直し、自ら信頼する医師を筑前に手配してその報告も目にしていた。

 小一郎が倒れたとの知らせを受けても、畿内にとどまり九州へ向かわなかったのは、茶々の子が生まれるまでの間政務を疎かにしたことで、せねばならぬことが溜まっており、九州へ向かう時間が作れないせいだと秀吉は周りの者に話していたが、その全てが事実というわけではなかった。

 確かに仕事が溜まっていた事は事実ではあったが、実際のところは床に伏せるばかりの弟を見ることから、目を背けたいという部分が大きく、病に苦しむ小一郎を見て小一郎を失う事を実感することを恐れたゆえに避けているというのが正しいところであった。

 ただ、柊から近頃は言葉を交わせる時間も増えているとの文が届くと、柊と同じくこのまま快方に向かうのではとの期待を秀吉も抱いて、それならばと九州に向かうことにしたのだった。


 博多の港から、日が沈む頃に小一郎が居城としている名島城に入った秀吉は、小一郎が今は眠っている最中であることから、柊から病状を聞かされることとなった。

「久しいのう柊殿、よくしてくれとると聞いとるわ、体など壊しとりゃせんか」

 疲れの見える柊にそう声をかけた秀吉ではあったが「無理をしてはならぬと思ってもどうしても………」と言ってとても無理を辞めそうになかった。


「気持ちは分かるが、小一郎がそちを大切にしとったことは知っていよう。小一郎のためにも少しは休んでくれや、ここに来る前に上洛しとる柚に筑前に参るよう命じたわ、少しは頼りにしてやれや。それにねねやあこ殿にも見舞うよう言うとる。のう頼むわ」

 柊は嗚咽を漏らしつい「藤吉郎殿ありがとうございます」と言ってしまったが「おお柊殿とは、藤吉郎と柊の頃から変わっとらん。木下の屋敷の頃のように何でも言いにきてくれや。ただわしもおなごに手を組まれると怖いでな、昔のようにねねとあことで三人組んで叱りに来るのは勘弁してくれると有り難い」と気にもせず答える。


 その言葉に柊は久しぶりに笑って「他所で子を作ったそうですね藤吉郎殿」と言うと、秀吉も「おめでとうございますと文をよこしたでないか卑怯じゃ」と言って笑い「ねねの姉様次第でございます」との柊の言葉に二人して笑い合った。

 ひとしきり笑ったあと秀吉は「ほいで小一郎は?」と何を聞きたいのか分からない表現で柊に問うた。

 自分と同じく、万が一のことを口にするのを避けているのだろうと想像して柊は「私や典医からの文の通りでございますが、少しづつ調子の良い日が増えて良くなると信じております」と柊は答える。


「そうであったの。調子のよいときはどの様な様子じゃ」と秀吉が聞くと「数刻の間起きて、言葉を交わすこともできまする。言葉を交わすのは疲れる様子で、多くを語るわけではございませんが、たまに思い出話などしてくれまする。ですが大抵はその時気になることを聞かせてくれと言って、私が話すのを静かに聞いているといった様子でございまする」と柊は答えた。

 秀吉は「ほうか」と言ったきり何かを考え、部屋の中は沈黙に支配された。


 そしてそれに耐えられなくなった柊が「南方のことがやはり気になる様子で、後は領地のことや明や朝鮮の事もよく」と話題を口にすると「小一郎は餅も子と同じと思うておろう、子の事は心配するんが親じゃわ」と秀吉は言った後、静かに語り始める。

「なんもない家の跡取りでもない小一郎にの、おみゃあさんが来てくれた時、ねねにどんだけ気位高うても森の家のもんが来てくれるんじゃ、我慢してくれやと言うたこと覚えとる。でもな小一郎によく尽くしてくれて、ねねにも姉様と慕ってくれての、わしゃあ柊で良かったと何度も思うたし、よこしてくれた三左殿にも何度感謝したか分からん」

 秀吉の言葉を聞いて、柊は「殿下」と言って既に涙を堪えている。


「まあそのせいで、勝蔵にはわしも甘うなってしまっとるんじゃが」と秀吉は照れ隠しの様に言ってから言葉を続けた。

「ほいでの、いつの間にか朝日様がいて、そちがいて、あこがいてがわしの家じゃと思うようになっての、桐や松や柚はわしの子の様に思うとるし、小一郎とて餅を我が子のように思うてくれとる。長浜に行ってからはおっかぁと旭もわしの家のもんになってくれたが、二人とも死んでもうた。で次は小一郎じゃと言うてきよる。わしゃあもう嫌じゃ、柊よ小一郎は良くなっておろうの、小一郎は兄より先に行くたわけでのうて、わしが死んだら餅と拾を支えてくれようの」と吐き出す様に言って、さめざめと泣き始める。


 柊も堪えきれずに「私とて、私とて、ですが医師は皆もうわずかであると、ですから少しでも側にと、殿下申し訳ございません。ですが」と涙を流し「わかっとるわ、そちも小一郎も何も悪くないわ、でもの小一郎なんじゃ、小一郎なんじゃ」と秀吉もともに涙する。

 弱みを見せる事のできる家族を前に、二人してせきを切ったように溜め込んでいたものを吐き出して、部屋には嗚咽が響き渡った。


 それはしばらく続いたが、時間が経つと吐き出すことにも疲れ、糸の切れたように二人共静かになると、お互い声も出さずに呆けたような表情をしたまな時が過ぎていった。

 そこに侍女が現れ「お目覚めになられましたがいかがなされますか」と声を掛ける。

 柊はふらつく足取りで「参ります」と向かおうとしたが、それには待ったをかける形で「小一郎には柊はわしとまだ長話をしてると伝えい」と強引に言って柊を引き止めた。

 侍女が去ると柊は「殿下なぜあの様に」と抗弁したが「そんな顔では行かすことできんわ。湯浴みなどして少し休んでからにしろや、小一郎にはわしの長話は困ると言ってけばええ。わしは疲れたわ、小一郎には明日参ると伝えてくれや」と言って部屋を立った。


 柊は自分の顔が泣き喚いてひどいものになっていることを思い出して、素直に秀吉の言葉に従ってから小一郎の元に向かう。

 いつものように小一郎に寄り添って「殿下は明日参ると伝えよと、旅の後あれほど長話をすればそれは疲れましょう、今頃は眠っておるやもしれません」と話しかけると「兄さが参ったか」と小さな声で答え、柊を見て安心したかのように、すぐに眠りについた。

 眠る小一郎の姿を見ながら、この夫と居られ幸せではあるが恐怖に怯える苦しい日々はいつまで続いてくれるのだろうかと思う。


「下がります。少し眠りますが目覚めれば知らせるように」と言って小一郎のいない夫婦の部屋に戻ると、今まで目を逸らしてきた小一郎を失う時を思い涙に暮れた。

 秀吉もまた、目を逸らし続けていた小一郎を失うことを直視せねばならなくなり、涙を流している。

 そして二人が涙を流した筑前の夜は過ぎ、筑前の地で兄弟が会う日の朝がやってきた。

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