第九十二話 諸侯の思い
1593年の七月が終わりに差し迫ると、諸大名たちは聚楽第に集まっていた。
その理由は、秀吉の側室茶々の出産が近づきつつあるからで、出陣中の西国大名は妻や重臣を代理に送り、その動向を見守っていた。
聚楽第の主人たる関白秀吉は何日も前から、淀城に滞在しており、北政所も同じく淀城にいることから、聚楽第では一時的に前田又左衛門と徳川家康を仮の主人として協議の上で政務が行われている。
とはいえ出産が控えていることは、当然誰しもが分かっていたことなので、重要な決定をするわけでなく、あらかじめ準備していたものに署名を行うといった程度のことで、大名同士のいざこざの仲裁や大名の歓待が主な仕事となっていた。
だが、そうであっても徳川家康にとっては、今の豊臣家の中での自分の立場というものを理解させられる場となっている。
大名たちが、何かあれば相談しにいくのは前田であり、自分を頼る者は少ない。
東国の取次ということもあり、中央に縁のない者のうち東国のものは家康を頼る者もいるが、その数は僅かであり、例外は宇都宮や細川、黒田といった近隣の者たちに限られていた。
「今のわしでは、この程度であろうな」
今は豊臣の世であり、家康がこの立場にあるのも癪なことに秀吉の引き立てあってのものだ。
今の家康の評判は以前と変わらぬ律儀者であり、秀吉の忠実な家臣であると見られていた。
東北の乱では多少の悪評も受けたが、重臣の平岩親吉を始めとして幾多の家臣を失いつつも、最後まで不平を見せず戦い抜いたことで秀吉の信頼も深くしていた。
それが、今回の聚楽第での扱いに繋がっている。
家康は前田との声望の差を見せつけられ、屈辱に耐えていたが、一方で前田と共に留守を任される程の信頼を得たとも言える。
前田に権力を集中させないための、秀吉の家中統制策の一環ではあったが、それでも立場が上昇したことに変わりはなかった。
秀吉の引き立てがなければすぐに失う権力であったが、徳川の家が生き残る為にはこの立場を利用していく以外にない。
「おのこが産まれればよいがの」
家康の呟きは、豊臣への忠誠から生まれたものではなかった。
*
前田利家は豊臣の家中から律儀者であると思われており、豊家に対して忠実な家臣だと見られていた。
律儀者であるという評判は全くもって正しいもので、義理堅くそして人を陥れようという考えなど全くもっていない人物だった。
妻であるまつから見れば、優柔不断で野心がなく人を疑うことのない夫は、頼りなく感じることもあるが、そうであるがゆえに殿下から頼りにされており、自分自身も含めて多くのものに好かれているのだろうと考えている。
「子が亡くなった時の藤吉郎の姿は心が痛んだわ。元気なややこが産まれるとよいのう」
足軽長屋に毛が生えたような住まいに住んでいた頃と変わらぬ様子で殿下の子について語る夫に、ため息が出そうになるがいつものことかと切り替える。
「おのこが産まれればどうなりましょうか?」
そんな問いにも「それは目出度いのう。藤吉郎も喜ぶであろうな」と殿下が喜ぶ事を無邪気に喜ぶ、そんな夫の姿に今度はため息が出る。
おまつは、かつての主君であった総見院様と違い、殿下に対して夫が忠誠心をもっていない事を知っていた。
ただ古くから親しく付き合ってきたし、前田の家を大きくしてくれた恩もあるから、藤吉郎を支えねばならんとは考えている。
夫は殿下を決して裏切らないであろうから忠義深いとも言えるだろうが、その元になっているのは忠誠とは別の種類のものだった。
おまつが恐れているのは、その様な気分が息子たちの何処かにあるのではないかということだった。
前田の父母と懐いてくれている公方様は、決して夫や自分を悪いようにはしないだろう。
夫にしても「わしゃあ自分の子より、公方様の世話をした気がするわ」と言う通り、公方様を産んで体調を崩された北政所様の代わりに夫婦で世話をしたこともある。
自分の子のことは私に任せきりだったから、本当に公方様の世話をした方が多いかもしれない。
そのせいか夫は何処か自分の子の様に思っている節さえあるが、そのことは咎められるどころか、殿下も公方様も親愛の現れとさえ認識している。
ならば公方様に代が変わっても前田の立ち位置は変わらないだろう、夫がいる限り。
前田の家は、殿下と夫の関係によってこの特別な立場が許されていて、公方様と夫の関係によって許されていることを息子たちは理解しているのであろうか?
夫には豊臣に忠誠を誓うようにと、子に説いてもらいたいが夫にその気があるのか不安になる。
「お前様お話がございます」
おまつは意を決して夫に話しかける。
殿下の子が産まれようとしている今が、前田の家について夫と話しておく良い機会だと感じていた。
*
毛利輝元は自身の才を全く信じておらず、たまたま跡継ぎに生まれただけの人物でしかないと、自分のことを認識していた。
偉大すぎる祖父が亡くなった後も、毛利の当主たる自分を偉大な叔父達が支えてくれているおかげで、自分が当主であっても毛利を大大名として維持することができていると考えており、多くのことを頼っている。
そのような人物であったから、豊臣が北九州に大納言殿を入れたことによって、小早川隆景が戻ってからというもの、毛利の舵取りを行ってくれている事に大きな安心を抱いて、彼に全てを任せてすらいた。
「叔父上、殿下の子が男子であれば毛利はいかがすればよいでしょうか?」
その様な問いであっても「殿下と公方様に従い、それ以外のことは考えないように」と冷静に言う叔父に輝元は、やはり全てを任せておけば毛利は安泰であると盲信すらしており、隆景はそれに答える働きで毛利を支え続けている。
豊臣と毛利の縁はさらに強固になっていて、森との縁談や南方で小早川が軍功をあげたこともあり、毛利の立場は更に安泰となっているように彼は感じていた。
そしてこれからは戦が減り、政治の時代となるだろう、そんな時に叔父上が側にいてくれることは何よりもありがたかった、彼はただ叔父に従っていれば良いのだから。
*
上杉景勝は幸運にも、柴田勝家との争いがあったことから早くに豊臣の家と誼を通じることができ、豊臣の中でも重きをなしていた。
武門の名門としての自負、そして叔父である上杉謙信公以来の強兵を率いているという事実は、上杉の立場を高める事に役立っていた。
偉大な先代の後を継いだ景勝は、決して誰もが侮ることなどできないように、多くの言葉を発する事をせず、諸大名と交わることも、家臣と交わることも避けて孤独の中に身を置くことが、上杉のためであると信じている。そのような人物だった。
その数少ない例外が、彼が家中のことを任せている直江山城守兼続であり、彼がいるからこそ景勝は上杉景勝を演じることに専念できていた。
「上方は?」演技であったはずのものが景勝自身となって言葉少なく問を発する。
「殿下は子の誕生に夢中で、誰しもがその事に注目しております」
京に与えられた屋敷の中で「そうか」と景勝は呟く。
主が聞きたいことを察した兼続は言葉を続けて「男子が産まれたとなれば、国替えとなりましょう。何年後かはわかりませぬが数年のうちに、動かすのは東国で、上杉も巻き込まれるやもしれません」と予想を口にした。
「治部少か?」兼続と親しい石田三成からの情報かとの意味であったが「子の所領を確保するのであれば、ついでに東国を動かして殿下の意のままとするのではと考えたまで、西国は公方様の意見も必要でしょうから戦に出ている今は動かしにくかろうと、治部はまだ何も言ってきておりません」と否定した。
景勝は考え込む、あくまで予想とはいえ有り得そうな話だった。
そして、万が一この越後からの転封となれば、謙信公ですら手を焼いた家臣たちの統制が取れるのだろうか?と不安を覚える。
しかし彼はその様な不安をおくびにも出さずに、静かに目を閉じて会話の終了を示すと、兼続は部屋を後にした。
一人残った景勝は、再び国替えについて思考すると、それが上杉にとっての不幸とならぬことを願った。
せめて多くの者が納得できるものであればいいがと、叶えられる望みの少ない願いを思い浮かべつつも、そうはならないだろうとの予測をたてて恐れを抱く。
越後を離れることを納得できるものは多くなさそうだった。
*
宇喜多秀家は、人質として秀吉に育てられ、秀吉の養女を娶っていることから豊臣の家中では特別な立場を築き上げている。
幼い頃より婚約を決められて、宇喜多の家を継ぎ、秀吉に定められた運命を辿る人生を送ってきたが、その事に全く不満を持ってもいない。
彼は若者らしく、義父である秀吉を慕い、次期後継者である秀持を兄と思って豊臣に仕えるのみであると純粋に考えている。
豊臣はそんな彼を裏切ることなく、豪との間に出来た嫡男に秀持の娘との婚約を決めて、彼の思いに応えてくれている。
父に仕えていた家臣は、御曹司らしく華美な生活をしていることは多少不満に思っていたが、姫路や神戸を通して領内の物が高値で取引され、それがもたらす収益で財政面に余裕があることから、大きな問題にはならず、どこかおおらかな部分のある彼を先代に緊張感を持って仕えていた者たちは好ましく思っていた。
何より宇喜多の家臣の立場を豊臣は尊重しているようで「宇喜多に嫁ぐ限りは宇喜多のものとなるように」と豪は兄に言い含められ、古くからの女衆以外は豊臣のものも、里の前田のものも連れて来なかった事実は、自分たちの立場が脅かされるのではと考えていた家臣たちを大いに満足させていた。
奥方も箱入り娘らしく、世間を知らない娘ではあったが、それだけに家臣のものにも警戒することなく話しかけ、それがどこか親しみを生んでいた。
家中に不和の影もなく、将来を約束されて全てが順調に進んでいる宇喜多家の姿は、今の豊臣家を表しているようだった。
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