第九十話 吉継の憂鬱

 1593年五月、姫路に南方よりもたらされたマニラ占領の報せは、多くの日本人たちを熱狂させる報せとなっていた。

 ここ数年国内では、豊臣の天下統一によって戦は大きく減っており、世の中は好景気にわいていた。

 高砂を占領した後、豊臣政権が行った移民政策が大きく経済を刺激したのがその大きな要因だった。

 国内の統一によって、牢人と呼ばれる俸禄を失った武士であった者たちが大量に発生したが、高砂占領の際に臨時の兵として雇用された後、高砂開拓に駆り出される事となり数を減らした。

 さらには、高砂に転封された加藤清正などは、家臣の不足を牢人で補おうとしたし、そうでなくとも領土が増えたということは、当然そこを守る必要ができたということであり、俸禄を失った武士たちの受け皿として機能している。

 特に小田原の役で俸禄を失った後北条家の家臣たちは、領地経営の心得のあるものが多く、高砂開発に重宝がられ次々と海を渡っていった。


 何よりも、高砂の開発はなにもない島の開発であり、全てが必要だった。

 国内では物は作れば売れるという状況であり、大量に必要とされる物資を賄うために田畑を広げ、森は開かれ、職人は弟子を増やしており、人はいくらでも必要な状況になっている。

 小さな土地で厳しい生活をしていたものは、新天地を求めて海を渡り、残ったものがその分耕作地を広げていき、勿論すべての人がという事は出来ないが、多くのものが生活が楽になったと感じているはずだ。


 その様な状況で牢人などというものは、存在を許されるはずもなく、急速に姿を消していきそれでもなお人が必要とされていた。

 豊臣政権は、大量に物資を買い付けては南方に送り続け、市場に金銀を供給し続けていたから、好景気になるのもの致し方ないといったところだった。

 そして、マニラの陥落は高砂の開発が一段落して、ある程度自給できるようになってきた時期と重なり、これから鈍化するはずであった特需がさらに長引くだろうと予想して、商人たちは歓喜した。

 そのようなことを考えつかない者たちも、何も分からないまま単純に南蛮人を討ち果たしたことを喜んでいる。

 さらには、朝鮮を討って済州を占領したという話も、南蛮人の次は朝鮮へと攻め込んで屈伏させ、明をも飲み込むつもりであるという無責任な噂を生み出しながら広がりを見せていた。


 この様に浮かれる世をよそに、姫路では一人の男が苦悩にまみれていることなどは誰もが預かり知らぬことであった。



 主の留守の間姫路を任されている三家老の一人、播磨を中心とする百万石の奉行筆頭である大谷吉継は、主が南征を行なっている間の己の不明を悔やんでいた。

 奉行としての仕事、南方への必要な物資の輸送は幼馴染でもある佐吉の手を借りながら、大きな問題も起きず順調と言っていいものであり、また領内の経営に関しても大きな成果こそないが、他の家老の力も借りながら無難にこなしていた。

 ただ、主と約束した東国の監視では、全く成果を得ることが出来ずに、徐々にその精度も落ちているように感じている。


 主が出陣して、まず直面したのは、昨年九月に宇都宮家に養子として入っていた秀勝様が亡くなった事だった。

 秀勝様には嫡子がなく、妻の江様との間に娘がいただけであったので、代わりに秀勝様の弟である秀保様が宇都宮家を継ぐことになったが、問題は正室であった。

 秀保様には正室がおらず、殿下の鶴の一声で徳川様の縁者を正室として迎える事となった。

 東国のこととはいえ、この事に全く関与出来なかった事は自身の力の無さを感じさせたし、出来たことといえばただ眺めることだけであった。

 結局江戸の大納言様の姉の娘を大納言様の養女として嫁がせる事になったが、御台様と親しい淀の方の妹が正室であった頃よりも、関東の情報は入りにくくなってしまっている。


 そして今年の一月には、あこ様の御子息が、最上家より駒様を迎え婚儀が行われ、木下辰之助改め木下秀俊として元服された。

 さらには同月に鹿之介殿の御息女が南部家に輿入れされて、播磨と東北のものとの縁が強化される事となった。

 この結果、自然と播磨の中で東北のことは山中家という風潮となり、公方様から蝦夷の地に港を作り、農学校に寒さに強い作物を探す様にとの文が届き、港の建築と船の用意を丹後と丹波の者に任せると伝えられるとその流れは決定的となった。

 佐吉も自領の発展に繋がると、東北への関心を強めており、そのせいで関東の警戒が疎かになっているように感じられる。


 そして、今直面している問題は大友家の改易に伴って誰を豊後に入れるかであった。

 南方から大友義統の失態を聞いた殿下の怒りは凄まじく、すぐさま改易が決定され、切腹を申し伝えよとの言葉も飛び出していた。

 九州の名家である大友を切腹をさせるのは、との多くの者の取り成しで蟄居という形に落ち着いたが、改易は覆らず誰に豊後を任せるかが大きな問題として残ることとなった。

 佐吉は同僚である奉行衆に豊後を任せたいと、播磨に文を送って来たが、功のないものに大領を与えれば、佐吉が殿下に取り入って豊家を思い通りにしていると言われかねず反対であると文を返したが、信頼出来るものに任せたいとの佐吉の意志は堅い様子で、上方では佐吉の動きが活発になっていると聞こえてもきていた。

 播磨に公方様から文が届いたのはそんな頃であった。


 そこには、大友家が改易とされた場合、豊後をいかにしたいかが書かれており、これによって様々な意見が出て統一できていなかった播磨の方針は決定した。

 これを携えて聚楽第に向かうのは、豊家の縁者であること、また南方への移民についての打ち合わせのため近々上洛を予定していた自分となった。


「おお、紀之介ようきた。久しく母とも会っとらんであろう。後で顔を見せるがよい。それはそうと公方からの文が来たと聞いたぞ」

 殿下はそう言うと、息子から送られてきた内容を聞こうと口を閉ざす。

「はい殿下。公方様より豊後のことで、文が届きました。改易となっても大友の兵と家臣を日の本に戻すことは難しく、南征に用いたいと」

「確かにの、兵を戻すは難儀じゃわ」

「また、功をたてたものあれば、呂宋の地に領土を与えることや直臣に取り立てることお許し願いたいとの事でございまする」

「そうであれば、懸命に働くことになるわな。それに豊後の反発も少なかろう。許すと伝えよ」

 そういうと吉継は申し訳無さそうに「勝手ながら志賀の楠公殿を既に直臣としたと書いておりまする」と話す。


 殿下は大笑いして「相変わらず勝手ばかりよ、許さぬと文を送ればどうなるかのう」と言うと隣りにいた北政所様は「南方ゆえ文が届かず、すでに家臣としたゆえお許しをと言ってのけましょう」と笑う。

「まあええわ、志賀は若いが采配は確かじゃ、真田とともに長く公方を支えてくれよう」と気にする様子もない。

「ほいで、豊後に誰を入れたいと言ってきよった?」

 そのことが書いてあるとは伝えていなかったが、殿下にとっては予想できたことのようだった。


「まずは、前野丹波守様であれば豊家の重鎮にて、前大納言様とも親しく十分に豊後を収めることできましょうと」

「悪くはないのう、一国を与えることは出来ぬが十万石ほどであれば与えてもよかろう」

「また、小出信濃守様への加増も願っておりまする。豊家の一門が領土を増やせば豊家の力となりましょうと書かれておりました」

「確かに一門としては少ないやもしれぬのう。豊後にて十万石を与え、隣の赤松も三万石に加増し豊後へ転封。空いた伊予の三郡は市松に与え、市松の持つ周敷郡と桑村郡は讃岐宰相への加増とする」

 公方様の手紙にはここまでしか書いておらず「後はわしに任せろや」と殿下一言で任せることとなった。


「そういえば、あこ殿は相変わらずか?」

 全く意図が分からないまま「姫路にて楽しそうに暮らしております」と答えた。

「ほうか。これほど時間を置いても孫兵衛の元に戻らぬとあればしかたないのう、大坂に出仕し、ねねの警護任すと伝えよ。わしの直参とするゆえ今の領土は不要じゃ」

 北政所様が「お前様」と何かを言おうとするが「仕方なかろう」と言って発言を止めた。

「豊後の残りには、生駒を転封させることとする」

 そう言って殿下は席を立った。

 尾張の地は長らく、西から順に生駒、堀、池田という三家が入っていたが、生駒を動かすことで棄様ご存命の頃噂されていた、棄様に東海道を任すのではないかという話が、茶々の懐妊を機に再び動き出したように感じられた。


 残された北政所様は気丈にも「東殿に顔を見せてやってください」と言ったが、自身の兄のことを気にしている事が隠せていなかった。

 時間を置けば、また昔のようになってくれるのではないかと、どこかで願っていたのだろう。

 だが、その道は絶たれ、殿下も兄もあこ様も恨む事ができずに己の無力さを感じているに違いない。

 そして、自分も目の前にいる北政所様に声すらかけられず、豊後の事は公方様に解決してもらい、自ら買って出た東国の監視は満足な成果を得られず、徐々に東北に目が向くのをそのままにして、関東の監視は緩くなる一方になっている。

 このまま公方様に与えられた役目が果たせるのであろうかという不安に苛まれながら、何も出来ない自分に失望し続ける日々を送り続ける事になるのだろうか。

 そんな風になりたくはないと思いながらも、何一つ現状を打破できるものは浮かんで来なかった。

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