第八十九話 懐妊の報せ
1593年三月、上洛を終えて姫路に帰ってきた更級はまた忙しい日を送っていた。
先日の上洛を終えて、突然の来訪を詫びる文を諸大名の奥方に送り、返ってきた文にまた返事を送ってと、今までしてこなかった交流が一気に増えた形となっている。
幸殿から、息子の婚姻が決まったことへの感謝の文が送られて来たことは更級も嬉しく思ったが、交流による楽しみと引き換えに、今までの退屈と思えた日々が懐かしく思える程に仕事が増えてしまった。
さらに追い打ちをかけるように『公方様からも居を同じくして侍従殿を支えるようにと言って頂けるように文を送りました』と誾千代の反応を楽しもうと文を送ったところ。
『公方様と御台様お二人の命とあれば致し方ありません。一度国許に戻り渡海の準備をしてから、姫路に参り公方様の文が届き次第南方へ向かい夫を支えまする』と踊るような字の文が届けられてきた。
これは大事になってしまったと、殿下に事の次第を文にして送ったが『流石は道雪入道の忘れ形見。噂以上の女傑と見える。関白が許すと伝えるが良い』と事の次第を完全に楽しんでいる私にとって予想外の文が届くことになり、観念した私はその夜南方に謝罪の文を書く事になってしまった。
そしてそれから数日経ったある日、茶々殿から文が届く。
先日の上洛の事で互いに文を交わしていたので、何気なく読んだ文には、自身の懐妊を喜ぶ言葉が書き連なっていて、つい大声で「上洛の準備を」と叫ぶと、一刻もたたないうちに姫路を出立する。
殿下への挨拶も忘れて淀で見た茶々殿は幸せそうだった。
棄様の事もあり、それを見てつい「よかった」と言って涙を流してしまい、茶々殿と涙を流して抱き合った。
翌日には殿下も訪れ「なぜ御台所がおるんじゃ」の言葉に挨拶も忘れ駆けてきたことを思い出したが、殿下は怒ることもなく「豊臣は安泰じゃ」と笑って許された。
その後も半月程淀城に滞在して、茶々殿と喜びを分かち合い、出産の時期には上洛することを約束して姫路に戻った。
後の豊臣秀頼の懐妊の報せは、更級に幸せを伝える報せであった。
*
秀吉にとってここ一年の事は忘れ得ないものとなるだろうと思っている。
息子が出陣する間際に得た新たな将軍の立場は、豊臣の権威をさらに強くするものであったし、母の死という大きな悲しみも孫たちによって癒やすことができた。
昨年御台所が産んだ男子は豊臣の未来をより強固にしてくれることだろう。
さらには年が明けると、前田玄以より朝廷より降嫁が認められたとの知らせを受けることとなる。
瑞雲丸の婚約者として選ばれたのは、女御として入内した近衛前久の娘の第一子であり、母は秀吉の猶子となって入内したことから豊臣とも縁が深かった。
経済的な理由から、幼くして尼門跡である竹御所への出家が計画されていたが、それを中止させて強引に降嫁を認めさせたことになる。
前田玄以は「降嫁に際しては、加増を約束させられましたわ。そして一刻も早い降嫁を望んでおります」と秀吉に報告してきた。
秀吉は「三千石を加増することにせい」と玄以に伝えるが「その程度の加増では朝廷の不満となり、今後降嫁を認められなくなりませぬか」と玄以は反論する。
「そのかわりに十分な献金を行うゆえ問題ねえわ。その金もアブク銭じゃてすぐ尽きる。その方が今後も頼み事しやすかろう」
それに納得した玄以は「確かに」と頷く。
「すぐに公方から戦勝の知らせが送られてこよう。その功に朝廷が報いたとあれば、朝廷の聞こえもよかろう」
玄以は「それを伝えれば公家衆も、豊臣の心遣いに感じ入りましょう」と述べてから「では降嫁は夏頃として準備いたしまする」と秀吉に伝えた。
「おおよ、任せるわ。その代わり豊臣の力を天下に見せつけよ」
その言葉に玄以はすぐさま策をもって応えた。
「ははっ、そういえば御台様の侍女の奈古殿が、角倉了以の子と婚姻しておりまする。であれば呂宋でも姫路でも顔が利きましょう。了以に呂宋の珍品を集めさせ帝に献上するのはいかがでございましょうか?」
「おお奈古殿は御台の覚えも良く、公方もよく知っておる。奈古の義父であれば適任じゃな。その様にいたせ」
秀吉を満足させるに十分な策であったことからすぐに認めると「南蛮を成敗してその地よりの珍品を帝に献上し、恩賞として姫を賜るなど。誰もが子々孫々まで語り継ぐことになるわ」とその効果を思い描き上機嫌となる。
そして降嫁を受けて豊臣のさらなる隆盛を確信したのも束の間、次は茶々の懐妊の知らせが舞い込んできた。
「なんと茶々がまことか?」
茶々より大蔵卿局が送られて懐妊を知らせたが、何度も確認しては近侍している者たちに「なんと聞こえた」と確認を繰り返した。
棄丸が死んで遠に諦めたつもりが、いざ懐妊と聞くとそんな事も忘れて、喜びが体中を駆け巡り、それが体を動かしているようだった。
「ねね、ねねはどこじゃ」と言って北政所を探し見つけると「何事ですかお前様」という言葉も終わらぬうちに「茶々がやりおった。ややこじゃ」と言って手を取り何度も振り回す。
「まことですか」という北政所を引っ張って大蔵卿局のもとに戻ると、先程と同じことを繰り返した。
「おめでとうございますお前様」
「ねねよ。またそちは忙しくなるが頼んだぞ」
「はい。おまかせくださいませ」
こうしてねねも喜んでくれることを嬉しく思いながら、翌日居ても立っても居られなくなった秀吉は淀に向かい、そこで御台の喜びようを見て豊臣の未来が明るいことを確信した。
これほどの日々が自分の身に訪れるなどと、かつて泥にまみれて過ごした頃には想像もできなかった。
ねねと結ばれ、息子が生まれ、そしてその息子が笑い話の様なことをして連れてきた嫁は、疎ましく思うことなくこうして素直に子の誕生を喜んでくれる。
なんとも恵まれたものよと改めて思う。
秀吉は子が産まれることの喜びに、勝るとも劣らない喜びを感じていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます