第八十八話 立花誾千代
1593年も正月を終えて今更級が考えていることはすることが無くなってしまっただった。
少し前までは出産と夫の出陣が控え、子を産んだ後も殿下や北政所が姫路にいてそれなりに忙しく過ごしていた。
ただ正月を前に北政所様が帰り、姫路での正月の行事が終わると、正直にいってやることがなくなってしまった。
子どもたちの養育の大半は侍女たちの仕事であり、その子どもたちもなんとなくではあるが担当が決まっていてほとんどすることがない。
例えば瑞雲丸は道場に足繁く通っている縁から奈古殿に懐いていて、奥に来た時期と産まれた時期が近いことから、正寿丸は赤子の頃からカタリナが世話を焼いている。
そして新たに生まれた日寿丸は、やはり時期の近いえい殿が世話を主にしていて、唯一世話をしているのは明石だけ、それもあこ様や侍女たちが面倒を見るのでやることがなかった。
そんなことをあこ様に話すと「せっかくですし、上洛してみてはどうですか?殿下に名付けのお礼に参っていませんし、茶々殿のところへ行くのも楽しそうです。それに出陣した西国大名の妻の多くが夫の代理で上洛しているはずですから、縁を結ぶのもいい思いますよ」と良い案を出してくれた。
そういえば柚殿が「更級様と気が合いそうな方がおりまして」と言って紹介してくれていたのも思い出し、上洛することにしたのだった。
とはいっても長く城を空けるのも良くないだろうと、一月ほどの予定で奈古殿をともなって上洛することにした。
まずは殿下に挨拶し、北政所様にも会ってから、茶々殿の元に向かう。
文は何度も交わしていたが、実際に会うのは茶々殿が子を失った時以来で、会うことには少し勇気が必要で不安も覚えたが、迎えてくれたのは変わらない天真爛漫な茶々殿だった。
「あの後もたまには習っているのですが中々上手くならなくて」と言った後、馬術の訓練をねだられて結局十日程も滞在することになった。
帰る際には「また来てくれますよね」と不安そうに聞いてきたので「もちろんです」と答えるとぱぁっと表情を変えて「待ってます」と明るく見送ってくれた。
その後は、今回の上洛の目的であった西国の大名たちの妻たちを訪問して回る。
茶々殿のところで予定以上に滞在してしまったせいで忙しく駆け回ることになったが、それなりの成果もあった。
森の家に訪れた際は、おまつ様の長女幸様が迎えてくれた。
幼い頃の殿下や北政所様との思い出、そして小牧や岐阜での幼い頃の夫の話しは興味深く、何より嫁いでからの勝蔵様との話は面白くてすぐに仲良くなれそうだった。
そして幸様が改まったかと思うと「御台様、厚かましいお願いなのですが、今年十四となる嫡男の妻がなかなか見つからず良き娘がいれば何卒」と頼まれることになってしまった。
この嫡男については記憶にある。
名は持可と言って「そうじゃわしの嫡男の名に持の字をもろうたから偏諱を与えたことにせよ」と勝蔵様が以前姫路に乗り込んできた時に、強引に認めさせられたと聞いている。
その話を幸殿にすると表情が消え「そうですか」と呟く。
それを見て、せめて良き妻を見つけることぐらいはせねばと心に決めた。
幸殿に今後文を送ることと、嫡男の妻を探すことを約束して館を出るとやはり笑顔で見送ってくれた。
次に訪れたのは島津豊久の室である柚殿で、姫路にも先日訪ねてきたりと気易かったことから、幸殿からの話を相談してみたが色よい返事はもらえなかった。
「夫は一門とはいえ島津の臣、家臣の身で森の家と縁を結べば島津の家が乱れまする」と言われてしまえばそれ以上頼むこともできない。
更級は知らないことであったが、島津の後継者として久保が定められているにも関わらず、豊臣の力を借りて豊久を後継者にしようという動きが家中の一部で起こっていた。
豊久自身は島津の一門として久保を支える心積もりであったので、その様な家中の争いは避けたいと思っていたし、留守を預かる柚も夫と同じ考えだった。
「その様なことより、誾千代様とはお会いになられましたか?」
柚殿にきっと気が合うと紹介されていたこともあり、事前に姫路でも噂など集めてみたが、どれも更級の興味を引くものばかりで、会うことを上洛の目的の一つにしていた程だった。
「いえまだでございますが、明日伺おうと思っておりました。どのような方なのですか?」
柚殿はそれに「御台様はきっと気にいると思いますよ」とだけ答えてくれた。
「そういえば先程のお話、穂井田様の御息女はいかがでしょう」
確かに穂井田様の娘なら、お子に私の妹が殿下の養女として嫁いでいるし、穂井田様の奥方は来島殿の兄妹でもあり播磨とは縁が深いと言える。
それに、毛利との縁は森家にとっても心強いであろうし、南方でともに戦う小早川殿とも誼を通じることができるだろう。
「柚殿ありがとうございます。早速恵瓊様に文をしたためます」
頼まれごとがこれで解決したと更級は喜び、その日は日が沈む頃まで柚殿と話しこんだ。
そして翌日、誾千代のもとを訪れたが、案内を行ったのは武装した侍女であった。
雰囲気からもよく鍛錬していることが察せられる。
更級の影響で女たちを護衛とすることが流行っていたが、館で仕える他の者を見ても同じくよく鍛錬されていて、それ以前から鍛えていたことがよく分かる。
そしてこの様に女たちを鍛え上げた館の主は、気の強そうな更級と同世代と思われる女性であった。
「御台様のお噂はよく聞いております。是非お会いしたいと思うておりました」と言った彼女は堂々としており美しかった。
「私も誾千代様の噂を聞いて、是非会いたいと思っておりましたが叶わず、此度上洛されていると聞いて是非ともと、お会いできて嬉しく思います」
それを聞いて不機嫌の色を隠しもせず「御台様にお会いできたことは怪我の功名でございますが、ありもせぬ事ばかり噂されるのは迷惑と思いませんか」と話し始めた。
「ありもせぬ噂でございますか?」
「そうでございます御台様。私の噂を聞いたのであれば、私と弥七郎殿が不仲であるとの噂をお聞きになられましたでしょう?それ以前の問題でございますのに本当に迷惑な」
「それ以前の問題?」
「はい、弥七郎はまだまだ武士として中の下で、頼りにならないゆえ居を別にしているだけにございます。それを不仲などとは」
あの名将と名高い柳川侍従様を中の下とはと、思わず吹き出しそうになったが「柳川侍従様は凡将なのですか?」と聞くと「そんな事はありません」と大きな声で言ったかと思うと、何かに気がついたのか顔を真っ赤にして「ただまだまだ鍛錬は必要でございます」と先程の堂々とした態度が嘘のように答える。
偉大な父に世継ぎとして教育された娘は、素直になることが中々出来ずにいつの間にか別居を行うことになってしまったのだろう。
更級は可笑しくなって「では誾千代様が支えてあげればよいではありませんか」というと「御台様の命であれば……」と顔を赤くしたまま呟いたかと思えば「御台様のご命令であれば、頼りなき夫を支えるのも致し方ございませんが」と困った顔を無理に作ってチラチラとこちらを伺う。
後でこのことを文で送って夫とともに『柳川侍従を支えるため、居をともにせよ』と伝えれば、口では公方様と御台様の命ゆえ仕方なくと言いながら喜々としてともに暮らす姿が想像できて、最初の印象が嘘のように可愛く感じてしまった。
もう少し苛めたい気がしてあえて今は命ずることをせず、その姿を楽しみにする事にして話題を変える。
「誾千代様、屋敷の皆様はよく鍛錬されている様子で驚きました」
その言葉に気落ちした態度を一瞬見せた後、堂々とした姿に切り替わり「はい御台様、このような世では女もいつ戦に巻き込まれるかわかりません。その時のために自分の身は守れる程度の嗜みは心得て欲しいと思っておりまする」と誾千代様は話したが、とても嗜みには思えない練度に見える。
「嗜みでございますか?」
思わずきいてしまったが「この程度嗜みのうちでございましょう」とあっけらかんと答えられてしまった。
これが誾千代様にとって本当に嗜みのつもりであれば、柳川侍従様を中の下と言った事も、案外本気だったのではと思ってしまった。
そんなことを考えていると誾千代様に声をかけられる。
「最近は鉄砲の鍛錬をよく行っておりまする。おなごの力でも関係ないのはよいですね。そうだ御台様、女たちにご指南願えませんか?私も御台様にお教え願いたいと思っておりました」
そう言われて鍛錬に参加したが、予想通り激しいもので、それを見て奈古は何やら何度も頷いているし、いつの間にか誾千代様と話し込んでいる姿も見られた。
これには姫路の鍛錬が厳しくなることを予感させ、奈古をここに連れてきたことを恨まれはしないかと密かに不安になったが、いつの間にかその事を考えることも忘れて楽しんでしまった。
誾千代様とも手合わせをしたが、幼い頃より武芸を学んでいたというのは本当のようで、奈古以外で女でありながら剣を楽しめる相手が見つかり、それだけでもここに来た甲斐があったと感じられた。
館を出る頃には汗だくとなって「また参ります」とつい口から出てしまい「是非」と微笑む誾千代様を柚殿の言う通り気に入ってしまっていた。
その夜、つい長くなってしまった文を南方に送り、数日後姫路へと向かう。
幸殿や誾千代様とは今後も仲良くできそうであったし、諸大名の奥方との顔つなぎもできた。
なりより、茶々殿の元気な姿を見ることができたことに満足した更級の、姫路への足取りは軽かった。
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