第八十五話 南征軍初戦

 1592年十二月、祖母である大政所の死を知ったとしても自分にできることは何もなかった。

 南征軍は既に動き出しており、先日義兄である真田信繁が出陣し、来月には自ら呂宋へ渡り総指揮をとることが決まっているからだった。

 だが後悔がないわけではなかった。

 いつも優しくしてくれた豪快な祖母、自分は彼女の死が近いことを知っていたはずだ。

 南征の準備に忙しく、そのことを忘れていただけだった。


 祖母が死んだのは七月の下旬だった。

 薩摩で兵の集結を待つ時間もあったのだ、そして播磨から出陣したのは七月の中頃、兵の移動を官兵衛に任せ最後の瞬間だけでも立ち会ってから、薩摩に向かうこともできた。

 当然祖母の状況を知っていただあろう母は、祖母のことを秘めつつ子の出陣を見送った時、どのような気持ちだったのであろうか。

 落ち込みたいところではあるが、それは自分自身が許せることではなかった。

 祖母は孫の負担にならないように、自らの病状を隠すように願い、父や母もその願いを聞き届けた。

 そして五万を超える兵の命と、今後の日本の運命を背負っている。

 やらなくてはいけないことも無数に存在しており、せめてこの戦が終わるまで、気落ちしている暇などなかった。

 そしてそれはあの優しい祖母の願いでもあるだろう。


「すまぬ虎、急に呼び出して。大政所様のことはそちも聞いているな」

 高砂でこの地を預かる加藤清正は静かに頷く。

「これより戦で菩提を弔うことも自分にはできん。虎よそちも大政所様とは縁があろう。すまぬがこの地に寺を建て、代わりに弔ってくれぬか」

 そう頼むと虎は涙を流し「お任せ下され」と言ってくれた。

 その後笑円を呼び、師匠に高砂の地にて大政所様の菩提を弔うために良き者を送って欲しいと文を書いてもらう。

 これが今の自分に出来る精一杯だった。

 そして、出陣の日は刻一刻と迫っていた。



 十二月の出陣に先駆けて十一月の末、島津の軍勢がミンドロ島へと出陣して行った。

 といっても、ミンドロ島で戦闘が行われることはあまり想定していなかった。

 途中海戦が行われる可能性は考えていたが、陸戦はスペインの影響力が少ない地であることから、地元住民との小競り合い程度がせいぜいだろうと考えている。

 ではなぜ叔父上と血縁関係を持ち、信頼している島津にその高い戦闘能力を無駄にしてまで占領を任せたかというと単純にミンドロ島を重視しているからであった。


 呂宋の主要な都市に食料を供給する島として、絶対に抑えておきたい島であり、今後の日本からの移民も多く移住させる予定にしていたことから、万が一にも勝手な行動を起こされて統治を遅らせるわけにいかなかった。

 そのため上陸後まずは城を築き、住民たちの慰撫に努めるように指示を出している。


 そして本隊の第二陣として十二月一日、森長可ら肥後兵を先陣として、自分に率いられた播磨兵は遂にマニラに向けて出航した。

 途中幸運にも軍船と遭遇することなくマニラに到着した軍勢を待っていたのは、大砲による攻撃であった。

 だが、大砲という言葉で想像されるほど、この時代の大砲に大きな威力があるわけではなく、一度撃ってしまえば次に撃つために多くの時間がかかり、命中精度も悪かった。

 そして攻め込む兵は、長崎の戦でポルトガルの船から多くの大砲を手に入れその性能を知る播磨の兵と、森長可という戦国時代でも有数の狂人に率いられた兵士たちだった。


 当然こちらも手に入れた大砲で応射している。

 狙いなど定めていないような、ただ建物を無意味に壊すだけの応射であっても、敵だけが大砲を持っているのではないと兵を勇気づけ、敵兵に混乱をもたらすには十分で組織的な抵抗は長く続かなかった。

 スペインの兵は、アジアの未開人たちが自分たちと同じ武器を用いて攻撃してくることに驚き、恐れることなく突撃してくる敵兵に恐怖した。

 守備隊の多くを占めていたヌエバ・エスパーニャからの援軍にとって、鉄砲や大砲を放てば恐れおののき逃げ惑うというのが植民地での戦いのほとんどであったのだろう。

 そして何より、スペイン兵は圧倒的に寡兵だった。


 北部に敵兵が上陸したとの知らせを受け、一部の兵が北部に派遣されているはずで、兵は少なくなっているのもその要因の一つに違いない。

 さらにマニラ以外の要地にも兵は置かないわけにはいかず、分散して配置を行う必要があることから兵力は薄くなっていた。

 その結果マニラが最重要拠点であることは間違いなく、最も多くの兵が防衛に割かれているはずだが、兵力は千ほどしか配置する事ができず、同等程度の装備を持つ十倍以上の兵に抵抗するには練度も士気も不十分な陣容が展開されているに過ぎなかった。


 スペイン兵は偉大な征服者にして初代総督であった男が作り上げようとした城壁を頼りに抵抗を試みたが、未完成であったそれは本来の力を発揮することなく、次々と兵を減らしていく以外のことは出来ずに急速に抵抗する力を失っていった。

 そして彼らがマニラの防衛を諦め撤退を決意するまで、多くの時間はかからなかった。

 このことを自分は多くの準備による結果だと思っていたが、多くの者たちにとって拍子抜けと言っていい結果だったようで、恐ろしい武器を持ってはいても使うものがこれではという感想を持つものが大半のようであった。

 当然追撃を求める声もあったが、それは許さずにマニラの慰撫を優先させて、豊臣の旗が翻るスペインの政庁に入る。

 特に追撃などせずとも、拠点から切り離されれば勝手に数を減らしていくだろうし、打つ手がなくなった頃に投降を呼びかければそれなりに降るものが出てくるだろうという思惑もあった。

 ヨーロッパの知識を持つものはまだまだ貴重であり、確保したいという気持ちも持っており、それも追撃を取りやめた理由だった。


「予想以上の損害を受けましたな。防衛に使えば大筒は脅威となりますな」

 官兵衛は新たな玩具を見つけたように楽しげに話しかけてくる。

「確かに、大坂や小田原の様な城に多く置けば難攻不落となるやもしれません」

 そう答えると、官兵衛は大砲への不満を漏らす。

「ですが、船や城以外で使うには今のままでは重くて不便ですな」

「船や城に使う大筒と、野戦で使う大筒は分けて作った方がよいと見ました。同じものを使えば、野戦では重く行軍の妨げになり、海戦では威力が弱く使い物にならないものとなりましょう。幸いまた多くの大筒が手に入りましたし、職人たちの知恵も借りてよい加減を見極めるのが良さそうです」

「そうですな、それがよいでしょうな」

 そう言って官兵衛は、側にあった椅子に腰を掛けて話を続ける。


「一目散に逃げてくれたおかげで、多くの文がそのままに残っておりますわ。マンショ殿たちに見てもらえば統治に役立ちましょう」

 特にスペインが調べていたであろう、原住民たちの情報を始めとするフィリピン周辺の情報は大きな価値を持つはずだ。

「父上や更級に戦勝を伝え、南蛮の言葉に明るい者を送ってもらいます。日の本の民も送ってもらわねばなりません」

 この後も、家臣たちから様々な報告が伝えられる。

 小西行長からはマニラの様子、渡辺勘兵衛からは兵の損害、来島通総からは船の損害などが伝えられた。


 街自体は戦が短期で終わったのもあって、大きな被害もなく港も問題なく使えるようだ。

 一部の住民は騒いでいるが、ほとんどが様子を伺っているようで混乱も少ないと聞かされた。

 兵の損害は五百ほどで、相手が寡兵であったことを考えると大きな被害であったが、上陸して敵の拠点に攻め込むという戦であったことを考えれば、少ない被害だったとも言える。

 沈めるしかなくなったものや長期の修理が必要なものを合わせて十隻が使用できなくなったが、港に停泊していたスペインの船を降伏させたので、作戦に大きな影響は出ないと聞けたことは、何よりも自分を安堵させる言葉だった。

 とはいえ、短期の修理が必要な船は多く、同規模の上陸作戦を行うには数ヶ月は必要と聞かされてもいる。


 そして森長可からは「餅よ、わしらに反抗的な者どもはどうするつもりじゃ、明の商人どもなど偉そうにたわけたことぬかしておる」といつもの調子で報告された。

 何を言ってきているのかは、ある程度想像することが出来たので詳細を聞くことなく「兄上。それでは官兵衛殿と対応に当たって下され。よく相談してやりすぎぬように」と答える。

 それを聞いて「おおよ」と言って飛び出して行った後、すぐに戻ってきて「いい加減兄上はやめよ」と言ってまた飛び出して行った。

 ふと官兵衛を見ると心底嫌そうな顔をしていたが、気が付かないふりをして仕事に戻る。

 この後は、各地に送った者たちからも報告が送られてくるはずだ。

 マニラの戦いは勝利に終わったが、予想外のことが起きていてもおかしくない。

 まだ戦は始まったばかりであり、南征を成功させるまで気を抜くことはできそうになかった。

 だがマニラを少ない被害で占領できたことは満足すべきだろう。

 少なくとも大きな勝利を得たことは確かだったのだから。

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