第八十四話 大政所の死
1592年七月、夫の出陣を見送った更級はその後すぐに義母である北政所に呼び出された。
あこ様や徳殿それに小屋殿も同様に呼び出されており、彼女の侍女であるカタリナも同じく呼び出されたと話していた。
部屋に面々が集まると悲痛な顔をして北政所様は「上洛いたします。身重の徳を除き皆すぐに準備をしなさい」とひどく冷たい声色で皆に厳命する。
あこ様が普段見せない顔で「上方で何か?」と聞くと絞り出すような声で「大政所様が、医師の見立てではいつ亡くなってもおかしくないと」と言ったきり俯き涙を流す。
あこ様が何かを聞こうとすると、これ以上北政所様に話させまいと、侍女の一人が遮る様に「天下の大事の前に公方様には知らせるなと大政所様のたっての願いでございました。殿下も大政所様の願いをお受けになり今まで知らせること控えておりました」と説明する。
よくあれだけ気丈に誰にも悟られることなく、息子を見送れたものだと感心し、それを終えて一気に糸が切れたのだろうとも思った。
あこ様はただ「そうでしたか」と言って俯く、あこ様にとっても岐阜の頃より播磨に来るまで多くの思い出のある方であったのだろう「上洛の準備に参ります」と言ってふらつくような足取りで部屋を後にした。
私にとっても、いつも味方をしてくれる方といった印象で、播磨に来てからは会うことも少なくなっていたが、それでも上洛して顔を見せるたび「藤吉郎や餅丸がたわけたことしたら、わしにいえや。引っ叩きにいってやるからな」と言ってくれる優しい祖母であった。
茶々殿の子が危篤と聞いた時を思い出すような、重い体を何とか動かして上洛の準備を行い、聚楽第についたのは七月十八日のことだった。
*
聚楽第で私達を迎い入れたのは、殿下と小一郎様だった。
二人ともひどく疲れた表情で、何日か眠ってないのでは思われた。
「皆よう来てくれた。ねねよ辛い役目すまぬ」
「お前様そのようなことより義母上様は」
「今は姉さがついてくれておる。じゃがあかんわ持って数日じゃと」
殿下は力なく言ってから「小一郎お前は安めや、病を押して来とるんじゃ。ねねも更級もじゃ長旅で疲れておろう。姉さに任せてわしも休むわ」と続けた後おぼつかない足取りで寝所に向かう。
「兄者の言った通りにしてくれんか?数日とはいえ今すぐということもなかろう。何かあれば知らせるわ、じゃから今日のところは休んでくれや」
その言葉に北政所様が「しかし」というが「姉さが行けば皆休めんわ。頼むわ」と言われて力無く「はい」と答える。
それぞれがおぼつかない足取りで寝所に向かい、横になるだけの時間を過ごしたあと、翌日大政所様を見舞う。
大政所様は昏睡状態で、やりとりすることなどは当然できず死にゆく様を眺めることしかできなかった。
殿下を始め北政所様、小一郎様、とも様が代わる代わる大政所様についているようで、殿下が大政所様の手を握りながら「おっかあ藤吉郎じゃ、おっかあにはいうとらんかったがまた側室を増やしたんじゃ、総見院様の娘でな……おっかあよ、ねねさに苦労ばかりかけてこのクソたわけがと叱ってくれや、のうおっかあ」と語りかける姿を見て涙したことを覚えている。
それから間もなくして大政所様は亡くなった。
知らせを聞いた殿下は半狂乱で「おっかあ、おっかあ」と泣き叫びしばらくして倒れた。
葬儀が行われた後も、殿下はしばらく消沈しており殿下にとっていかに大政所様の存在が大きかったのかを痛感させられた。
そんな折、下女の一人が大政所様の文を渡したいと言って殿下に面会を求めてきた。
えいと名乗った若い下女は殿下の「なぜうぬのような下女がおっかあの文を持っとるんじゃ」との問に恐れおののきながら「おっかあが中村から大政所様と一緒に長浜にきたもんで」とたどたどしく答える。
えいの話によれば、えいの母が戦で夫を亡くし、まだ母の中にいた自分と幼い兄をどう育てたらと悩んでいた時に大政所様から長浜で働かぬかと誘われて、母は下女として長浜で働いていたらしい。
母はえいが十の頃亡くなったが、大政所様が幼い子を路頭に迷わすわけにはと、兄を兵として殿下の軍に入れ、えいは母と同じく下女として働くことになり、大政所様の身の回りの世話をしていたという。
兄が四国征伐で討ち死にし天涯孤独となったあとは、何かと目をかけてもらったらしい。
それを聞いて殿下も「中村のものであったか。おっかあが可愛がるのも分かるわ、して文は誰が書いたのじゃ」と問うと「わたしくが。大政所様が字が書ければ路頭に迷うこともなかろうと、下女たちにも学ぶようにといって」と俯きながら答えた。
そうして殿下に渡された文はかろうじて読めるもののひどいものだったらしい。
冒頭にはとうきち、こいちろ、もちと書いてあるとえいは説明したが、そう言われればそう読めなくもないといったもので、大政所様が書いたものだとえいは話した。
『とうきち こいちろ もち
そろそろおむかえとなり、いまのうちにとわしのゆいごんえいにかかせる。
いまはりっぱなものきているが、おもいだすのはぼろをきたころ、とうきちとねねさのしゅうげんのこと、もちがうまれたこと、こいちろとひいらぎのしゅうげんのことばかり
じはうもうないが、ぼろのころよりのものならしんじれるとおもいえいとかいた。
えろうなってつけてくれた、かしこいむすめよりたよりとするのはわらうやもしれんが、じゃがみなもぼろをきたものをたいせつにしてもらいたい。
そしてなかよく、ねねさもひいらぎもさらしなも、よきおなごじゃたいせつに
あさひをまたせているゆえわしはいくが、ふたりのながばなしのじゃまをせぬように』
そう書いてあった文を見て殿下は大泣きに泣いてからえいに「そちはどうするつもりじゃ」と問うた。
「器量もよくなく、かといってなにかができるわけでも……だもんで、殿下にお許しいただけるなら大政所様の菩提を弔って余生を過ごせたらと」
殿下は「ほうか」と言ったが、私はまだ若いえい殿を仏門に入れるのはとつい口を挟んでしまった。
「えい殿がよければ姫路に来ませんか?」
えい殿は驚いて「行っても何もできませんが」と言ったが「大政所様が信じた方なら信じられます。姫路の奥は人が少ないのでそれで十分です」と言うと「そんなものなのですか?」と自信なさげに答えた。
すると殿下が「わしと小一郎はもう見たが、餅丸はまだみとらん。そちが書いたおっかあの文そちが餅丸にみせよ。それまでは御台所に仕えよ」と命じてくれた。
えい殿が意を決して「わかりました」と答えると、善は急げだとえい殿に伝える。
「ではえい殿、侍女としてまずは剣術と馬術あとは文字の練習ですね」
「え、ええっと。私は天涯孤独でとても侍女などなれる身分では」
「大丈夫です。もし問題となったら誰かの養女にしてもらいます」
小一郎はそんな簡単なもんでないわと言おうとしたが、よく考えれば更級は今まで簡単に話を進めてきたことを思い出して言葉を飲み込んだ。
「そうだ。えい殿の婚姻も考えなければいけません。殿下部屋をお借りします。あこ様カタリナ行きますよ」
そう言って身重なのも忘れて足早に駆けていく。
「これ御台。腹にややこがおるんじゃぞ」
秀吉の言葉も虚しく、瞬く間に更級は姿を消した。
「なんと騒がしい。大政所様も笑っておりましょう。あこ様、御台所は侍女は剣術と馬術と文字と申しておりましたが姫路では作法はどうなっているのですか?」
北政所の言葉にあこは「岐阜の頃のようで気楽ですよ」ととぼけると、北政所は大きな溜め息の後「孝蔵主を姫路に」と呟く。
それを聞いくやいなや「母上とも相談して、作法も学ばせねばと思っておりました」とあこは誰もが嘘と分かる弁明をして、逃げるように更級のもとに向かっていった。
「えい殿、見ての通り姫路は面白きところじゃ」
そういう秀吉の言葉に、えい殿は「精一杯仕えます」と答えるのだった。
その言葉通り、えい殿はこの後どのようなことがあっても不満を漏らすことなく、ただ黙々とどの様な仕事も忠実に精一杯こなし、奥の皆からの信頼を積み重ねていくことになる。
そして、更級からこの日のことが南方に伝わる頃、ついに南方での戦が始まろうとしていた。
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