第八十二話 薩摩の日々
1592年八月、播磨から嵐を警戒しつつ慎重に進んだ軍勢は無事薩摩へ到着していた。
続々と兵たちは集まって来ているが未だ全軍が揃った訳ではなく、また台風の時期であるのでしばらくは薩摩で軍勢は待機する予定となっている。
先に出陣した義兄上の軍勢も、同じ理由で呂宋に攻め入ることは出来ず、今は高砂で前線基地となる城の建設を行っているはずだ。
薩摩での待機の間、行なっていることと言えば、共に戦うことになる諸大名との面会が主なものとなっている。
当然国内外の動きには気を配っていて、官兵衛もそれを心得ており、各地に連絡網を作り上げて、様々なところから情報を集めていた。
宣戦を布告したスペインの反応だが、高砂や琉球に今のところ全く変化は無いようだった。
そして、朝鮮も全く返答のない状態らしく父上はこのまま何もなければ来年には済州島へ兵を向けると宣言しており、数カ月後には北九州の諸大名に兵を編成せよとの命が下るのではないかと噂されている。
真田の父上の見るところ東国には今のところ大きな動きはないが、あこ様からは最上から内々に縁組の話があったとの報告を受けており、官兵衛が流した蝦夷地開拓の噂が東北大名の動きに繋がったのだと思っている。
ただあこ様にということは、当然小早川秀秋になるはずであった辰之助との縁組となるはずで、年齢から駒姫との縁談となる可能性が高く、大きな歴史の変化を感じずにはいられない。
更には、官兵衛からの東北に手を伸ばしてみてはとの進言を受けて、鹿之介の娘を養女として南部利直に嫁がせる事を決めた。
加えて蝦夷地開拓の調査を名目に、松前慶広の領地の東、未来で言う函館の地に港を作って、妙田たち農学校の者たちに寒冷地での作物の研究を始める事とした。
この計画は、丹波と丹後の者たちを中心として動くことになっていて、総責任者は鹿之介に任せることになっている。
跡継ぎの正室の実父として南部の協力も得られやすいであろうし、鹿之介の娘婿である御用商人の吉和義兼に協力するように伝えているので経済的な助言も得られるだろう。
当然、ただ研究や調査だけが目的ではなく、舞鶴と佐吉の領地の敦賀という畿内と程近い港に、叔父上が持つ博多、佐吉の兄正澄が奉行を務める長崎を加えて函館と結び、日本海側の海運を支配することで、経済的に日本海側諸侯を支配しようという目論見も持っている。
また縁談といえば、奈古殿の相手を探しを行なった結果、武家ではなく同じく京の出身で豪商である角倉了以の子、素庵を夫とすることとなった。
父の角倉了以は海外交易にも積極的で、南征にも軍資金を提供しており、更級の側近中の側近とも言える奈古殿との縁は了以にとっても益の大きい婚姻と言えるだろう。
あこ様には奥で必要なものの内、姫路では買えぬものあれば角倉殿にと文で伝えていた。
了以殿からは息子にはしばらくは姫路に居を構えさせて、海外交易の指揮を任せる方針と聞いている。
豊臣にとっても京の実力者との縁は悪いものでなく、今後畿内における御用商人として付き合っていくことになるだろう。
そして最も驚いたことが、奈古殿の兄厳十郎直行殿が養子を取ることを願ってきた事だった。
奈古殿とは年が離れ、妻が三十を超えても子のないままで、この時代としては養子を取ることについては全く疑問のない状況ではあったが、その相手が予想外過ぎた。
直行殿からの書状には『妻も三十を超え嫡子は望めず、されど更級流を絶やすは不徳と致す所にて、よき者を養子として奥義を伝えたく考えております。黒田様の家臣の息で辨助なる小僧、足繁く道場に通い、幼少の身ながらいずれ名高き兵法家になると見ております。この者を養子として更級流を継がすことお許しいただきたい』と書いていた。
確かに播磨出身とも言われているし、父が黒田の家臣だったことも知っていた。
兵法道場があれば通うことも不思議ではないし、すぐに頭角を表しても不思議ではない。
そういえば更級が「道場に将来の楽しみな筋のいい子がいて、たまに手合わせしているんですよ。その子も若政所様手合わせお願いしますって熱心なのが可愛くて、でもあんまりにも身なりが汚いから、きれいにしないともう手合わせしませんって怒ったら、次にはきれいになっていて素直なのも可愛くて」とか言ってた気がする。
剣のことに興味がないから聞き流してたが、色々繋がってくる。
だからといって、辨助こと後の宮本武蔵とこう繋がって来るなんて全くの予想外でしかなかった。
最近結局更級と息子たちに押し切られて、二人の息子は師匠に学ぶ傍ら更級流を学ぶことになったので、同門の兄弟子になるのだろうか?
父は鬼武蔵、子は宮本武蔵を兄と思うとかすごい歴史だなと他人事のように思ってしまった。
笑円は「いかがなさいますか?」と聞いてきたが、断る理由など全く思いつかず「更級に任せる」というのが精一杯だった。
高砂への出航を控えての動きはこのようなものだったが喜ぶべき知らせも入っていた。
義兄である真田信繁と徳殿の間に嫡男が生まれたというものであった。
婚姻当初は徳殿がまだ幼く、その後も高砂への遠征など転戦続きであり、子どもがなかなか生まれずにいたが、南征を前に播磨へ戻った際に遂に授かったらしかった。
母上は、播磨で徳殿が身重であったことを知り、東殿を呼びよせて出産を見届けさせたと聞いている。
母上は急ぎ上洛して仕事を片付け、また更級の出産に備えて姫路に来る予定らしい。
母上はあこ様に「なぜ徳が身重なこと知らせてくれなかったのですか」と言ったが、あこ様は更級が、更級は徳殿が、徳殿はあこ様が知らせているものだと思っていたらしく、大きなため息の後あこ様が相当絞られたと聞いている。
あこ様は自分への文の中で、なぜ自分だけがと嘆いていたが、その三人ならあこ様だろうという感想しか浮かばない。
ともあれ高砂で義兄上と会った際には良い報告ができると思うとこれからの戦への不安も少し軽く感じることができた。
そして九月一日遂に薩摩から高砂への出航の日を迎える。
航路としてはまず琉球に寄港して、数日滞在したあと高砂に向かい、台北の尼子領に寄港し同じく数日滞在し、台南の一柳領に寄港して、最後に高雄の加藤領に入る予定となっている。
大船団となることから数度に分けての出航となるが、自分は総大将ということもあり、第一陣として最も早く高砂に入ることとなった。
船が出航し、しばらくすると日の本が視界から消えて周りは海だけとなる。
再びこの地に戻るのはいつになるのだろうかという感傷を打ち消して、戦に思いを馳せる。
日本による南征が遂に始まった。
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