第七十話 農業改革
1590年十二月姫路に一隻の船が帰還した。
この船は明国に送った学僧たちを載せたもので、明の農業技術を取得するために送った者たちを載せた第一弾といったところだった。
まだ学びたいという者たちも多く、その者たちには時間を与えて何度かに分けて日の本に戻ってくる予定となっているが、特に厳命した砂糖の製造を学んだものもこの第一弾の帰還に混じっている。
一年程度の留学期間ということもあって、日の本では栽培されていない物をとりあえず持ってきたというものや、見たことのない農具を片っ端から集めてきたという者も多かったが、それはそれで有用だった。
まず注目したのはやはりサトウキビだった。
「ほうこれが砂糖の元か、どのようなところで栽培すればよい?」
暑いところがよいことは知っていたが、あくまで初めて見たものだという形は崩さない。
一人の学僧が「はっ、あまり詳しいことは聞けませなんだが、暑いところがよいとは言っておりました」と発言する。
「なればまずは、高砂と琉球で始めるか。共に砂糖が取れるようになれば人も集まろうし、何より交易も活発になろう。そちにまかせる育て方など調べ上げ報告せよ」
そう命令を出したが、ふと思いついたふりをして「いやしばし待て、よく考えれば育て方など聞いたとて、何も育てたことのない自分には判断できん。そちたちの代表は確か妙田であったな」と知ってはいるが確認する。
彼もまた師匠虎哉宗乙の門人の一人であるが、関係はそれほど深くない。
元々但馬の農民出身で、二十半ばを過ぎてから仏門に入り但馬の寺で十年程修行をしてから、師匠が播磨で開山した事を聞きつけ弟子となった。
寺の中でも畑を耕し野菜を作り、農民たちと交流を積極的に行っている僧であったので今回の代表とした。
自分とは師匠のところに行った時に、彼が作った野菜の入った汁を馳走になった事が数度あるという関係だ。
「報告は妙田に上げるがよい」そう言ってから妙田以外を下がらせた。
残された妙田は純朴な顔のまま「殿様はわしに何をさせる気じゃ」と聞いてきた。
「まずはそちの話を聞きたい。よきと思う作物はあったか?」
そう問うと目を輝かせて「この芋はすごうございます。痩せた土地程よく育ち、多く収穫できまする。これが日の本に広まれば多くの飢餓がなくなりましょう」と言ってサツマイモを見せた。
「どのようなところで育つのか」と聞くと「これも暑いところがよいとの事でございます」と答えたので「ではまずは薩摩で試すとしようか」とサツマイモが手に入ればこうしようと、あらかじめ考えていたことを口にする。
妙田も「良き考えかと思いまする」と賛成のようだった。
そして周りの者が驚くことを口にする。
「そちに一万石を与える。戦に出る必要はない。それで良き作物の作り方、新しい農具や作物の育て方など試し報告せよ。成功も失敗も等しく書物にまとめ、各地に農法を学んだものを送り、新しい農法を日の本中に広めよ」
妙田は唖然として何を命じられたのか分かっていないようだった。
「今、船を作るために船大工を集め、どのようにすればよい船ができるか試しているのは知っているであろう。それと同じことを田畑でも行いたい。農法に詳しいものを集め、良き作物の作り方を考え、良い方法が見つかれば農民に伝えて日の本で取れる物を増やす役目を任せたい。そして良い農具を考えれば、十日の仕事が九日になるやもしれん。そうすれば田畑を広げることも、人夫の仕事をすることもできよう」
そういうと妙田は役目を理解したのか「ぜひに私にさせてくだされ、私は農民の子でございますから飢えに苦しむ姿を何度も見て参りました。御仏の加護で少しでも救えぬかと仏門に入りましたが、農民を多く救う術を生み出す役目は御仏の御心にも叶いましょう」と前のめりとなっている。
「そちは仏門のものであるが、父上も自分も民に教えを強要しておらん。たとえ伴天連の教えや、いかなる神仏も信じておらぬものも等しく日の本の民よ。新たな農法を知るために南蛮や唐天竺の者を招くこともあろう。また学びにくる者も日の本の民であれば等しく農法を教える役目であると心得て欲しい」そういうと大声で「心得ております」と妙田は答えた。
「まずは姫路の地に居を構え明の農法の取りまとめから始めよ。それと砂糖の琉球と高砂での栽培。唐芋の薩摩での栽培もすぐに進めよ。必要なものがあれば奉行である大谷刑部に伝えよ。必要となれば高砂であろうと蝦夷であろうと用意する。それと足利学校より名を取ってこれより姫路農学校を名乗るがよい」
こうして世界初となるであろう農業の研究教育機関を発足させた。
必ずや日本の力を高める一因となるであろうし、ある程度方向性を操作できるだろう。
あくまで理想ではあるが、当分の間は砂糖とサツマイモで西国の力を高めて東国との差をつけ、次第に寒冷地に強い作物を研究させて早期の蝦夷地入植を実現したいと考えている。
そのような事を考えながら、謁見の間を後にして更級の所に戻ろうと歩いていると官兵衛から「狙いは何処に」と声をかけられた。
適当な部屋に入って官兵衛と話をする。
徳川に対する方針を打ち明けていることから、内容は本心と言っていいものとなった。
「狙いは大きく分けて三つあります。一つは妙田に言った通り日の本の収穫を増やし力をつけること。そして二つ目が官兵衛殿が考えている通り、西国の力を高めて徳川との差を開けること、無論将来的には東国にも広めて日の本全体の力を高めようと思っていますが時期を見てにしようと思っております」
ここまでは予想通りであったのだろう、官兵衛に驚きの色は見えない。
「そして三つ目が寺が独占している知識を寺から奪うことでございます」
多少は予想していたのであろうが、それでも驚きは隠せていない。
「仏門が増長し力を持ったのも結局のところ、知識を持つものが彼らだけで頼るしかなかったからだと思います。今水兵を学ばしているところはいずれ水兵学校として航海術や海戦の軍学を学ばせ、いずれ同じく陸兵学校を作り過去の戦や軍学を学べるようにいたします。算術や法を学ぶ奉行学校を作っても良いかもしれません。カタリナに協力してもらい他国の言葉を学ぶ学校を作るのも良いでしょう。医学も同じでございます」
それを聞いた官兵衛は「隠居後の楽しみをくれると申されたが、やはり内府殿は面白い」と大笑いした後「兵法指南は若政所様にお任せすればよろしゅうございますな」と言って官兵衛はまた笑った。
官兵衛殿は笑っているが個人的に頭の痛い問題だった。
姫路に吉岡憲法どのに依頼して兵法道場を作らせたまでは良かったのだが、やって来た憲法殿の弟の子である厳十郎直行殿と妹の奈古が更級の影響を受けてしまった。
城内に道場ができて更級は日参する勢いで通っていたのだが、手合わせすることが多かった厳十郎殿が更級の剣や考えを参考に吉岡の剣を組み合わせ体系化させて、更級流などという流派を誕生させた。
さらに幼き頃から吉岡の剣を学んでいることから、侍女として護衛に付けたはずの奈古殿が「おなごも自分の身を守り、非常の際は城を守る心得を持つべきにございます」という言葉に感銘を受けて、奥更級流なる流派を作り侍女たちに学ばせ始めたのだった。
しかも、嫡男である瑞雲丸が「母上の名の付いたのを学びたい」と言い出してこのままでは豊臣家の流派となってしまいそうな勢いであった。
普通ならおなごの剣術などと言われる所であるが、相手が豊臣の世継ぎの妻となれば表立って言うことも憚られ、他流試合を申し込み勝ったとしても自らの流派が上であるなどとはいうこともできず、独自の立ち位置で勢力を拡大している。
更級自身は侍女に稽古をつけたり楽しそうにしているので止めることもできず、せめて名をと言ったが「別に悪いものでもなし名前ぐらい私は気にしません」と言われてしまった。
名前を気にしているのは自分なのだが、その事には気がついてもらえていない。
「官兵衛殿、流派の名を変える知恵を貸していただけませんか?」そう言っても官兵衛殿は笑うだけだった。
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