第六十七話 関白仕置
父秀吉による関東と東北の征伐が終わり、各大名に大規模な国替えが発表された。
この国替えで大きな衝撃を与えたのが、叔父上の九州移封に伴う減封と、織田信雄の移封拒否に対しての改易処分、そして徳川家康の関東移封だった。
まず九州であるが、ここには大和から叔父上の家が移って来たことに伴う変化が大きい。
薩摩と大隅そして日向の一部を島津が領有し、残った日向の地を高橋元種、秋月種実、伊東祐兵が治め、肥後の地を森長可、中川秀政、相良頼房が治め、豊後を大友が収めるのは全く変わっておらず、南九州は無風と言ってよかった。
しかし北九州では、叔父上の嫡子豊臣持長が豊前と筑前の二カ国に加えて肥前唐津を与えられ六十万石を号する大名として配置された事で、豊前に領土を与えられていた毛利勝信は小早川秀包の筑後三郡を引き継ぐ形で久留米へ、小早川隆景が筑後に持っていたニ郡は朝日様の兄の子杉原長房に与えられた。
小早川隆景が肥前に持っていた地は龍造寺に与えられ、代わりに松浦郡伊万里の地は没収されて、松浦家が領有していた平戸の地と併せて脇坂安治が領有して明や朝鮮に備えている。
大村と有馬が持っていた高来郡と彼杵郡は豊臣家の直轄領として長崎奉行石田正澄が配置されている。
この九州勢が呂宋征伐が行われる場合の主力として予定されていて、明と朝鮮を警戒する豊前、筑前、肥前の三国以外が幕下に加わることになる。
九州の島津家、鬼武蔵、立花宗茂といった面々に四国から長宗我部、毛利から小早川秀包が加わった軍勢は容易く呂宋のスペイン守備隊を撃破するだろうと信じている。
当然総大将は自分がなる予定で、父上が叔父上や母上の説得もあってついに決断して、自分の相談役として加わった黒田官兵衛を側に従える予定で、負けることなど想像できない。
官兵衛はわずか二万石の隠居領を播磨に与えられたが、この領土は死後次男である馬之助に継がすと言っていた。
また所領が小さいにも関わらず、栗山善助、母里太兵衛、後藤又兵衛、黒田一成などといった名のある者たちが、官兵衛を慕い姫路に付き従った事で、長政は器量不足であるとの風評が流れ、面目を失ったと不満を漏らしているらしい。
その黒田長政は徳川家の西の押さえとして、駿河一国が与えられて、相模を与えられた細川忠興、伊豆を与えられた中村一氏と徳川警戒にあたっている。
四国は三好秀勝の持っていた伊予の一郡が、秀勝が宇都宮家の養子として入ったことで秀次に与えられた以外は変化がなかった。
ただし秀次は脇坂安治が収めていた淡路を加増されたので領土を増やしている。
豊臣本拠に近い淡路まで秀次に与えられたことは、父上の秀次に対する信頼が感じられる。
三好の名も統治に役立つに違いない。
秀勝が宇都宮の養子となったのは、実際の内情は分からないが佐竹の言葉を信じると、佐竹義宣の正室が実家の那須家が小田原で遅参した事を悔いて、豊臣に忠義を尽くす佐竹の正室では居られぬと自害したことが始まりだった。
これを受けて茶々殿の妹である初殿が正室として迎えられ、同じく茶々殿の妹である江殿を妻に持つ秀勝を嫡子のいない宇都宮家に入れる事で豊臣家の影響力を関東で高めようという策と聞いている。
これに奔走したのが関東に赴いていた京極殿らしく、ある程度母上の意思も働いているのかもしれなかった。
知識通り、結城家には秀康が養子として入っていることから、江が徳川秀忠と婚姻すれば徳川の影響力が増えるのではと警戒しているが、関東のことは父上の手の内にあって手を出せなかった。
ただ、仙石の帰参については父上に「仙石はいりません」と何度も言っていたせいか実現しておらず、結局徳川の配下として帰参許すとなったようだ。
そして肝心の徳川家は、武蔵、上総、下総の三国を領有したが、自分の知る歴史と違い上野は真田に与えられ、相模は細川、伊豆は中村、さらに歴史知識では下野の一部を与えられるはずであったが、下野に筒井定次が入り、宇都宮と分け合っていることから、下野にも領地を持っていない。
結城家への加増も行われておらず結城家は小大名のままであり、徳川の領土としては百五十万石程になりそうで大幅な加増とはなったが父上の当初の計画より大きく抑えられている。
これは自分の言葉だけでなく、佐吉も何かと動いてくれた結果であろうし、叔父上の言葉もあってのことで二人には改めて感謝している。
個人的には伊豆が徳川のものでなくなった事で金山収入が大きく減少することが、大きな影響を与えるだろうと考えている。
伊達は遅参を理由に所領の一部を取り上げられて、その抑えとして会津に蒲生氏郷が入った。
東北の配置は自分の知るものと変わらないようだ。
徳川の押さえとして、自分が最も期待しているのが真田の父上で、上野一国を与えられて小県以外の信濃領は他のものに分け与えられたが大幅な加増になった。
石高も倍増していて、四十五万石の大大名となっている。
真田の領土が手に入った信濃では、甲斐一国に加増の上転封となった浅野が持っていた佐久郡と真田の持っていた諏訪郡の二郡を堀尾吉晴に与え、北部の四郡に青木一矩が入ることが決まり青木であれば真田の父上を支えてくれるだろうと期待している。
旧徳川領の三河と遠江には大名が配置されず、後に茶々殿の子を入れる予定なのか、片桐且元に管理を任せて直轄地として扱う様だ。
もし家康が反旗を翻しても、茶々殿との関係は良好であり、且元が家老として差配するのであれば家康につくこともないであろうから東海道での足止めと、真田の父上による中山道足止めでかなりの時間封じ込めることができるはずだ。
ただ幼少を理由に直轄地のままであった場合は、東海道で旗印のないまま戦うこととなり、尾張が主戦場になる事も考えている。
そして美濃では、織田信雄が改易されたことに伴って、三法師様を元服させて岐阜城十五万石を与えて、織田家の頭領であると正式に認めた。
畿内に領土を持っていた奉行たちにも転封が行われて、石田三成は越前敦賀に二十万石(敦賀郡、南条郡、丹生郡、今立郡、足羽郡)長束正家は越前丸岡十万石(坂井郡、吉田郡)前田玄以に越前大野五万石(大野郡)が与えられた。
自分にも丹波及び丹後の加増が行われて、播磨、但馬、因幡、丹波、丹後と摂津の一部を領する百万石の大名となり、その結果南方への兵も増加した。
すぐさま大谷吉継に舞鶴港の整備を命じている。
そして何より大名を大きく動かした結果、父上は東は近江から伊勢、北は若狭、西は摂津、紀伊と近畿一円にまたがる膨大な直轄地を有すことになった。
畿内に所領を与えられている者もいるが、大勢力は存在せず畿内はまさに豊臣のもので、全国に点在する直轄領を合わせれば四百万石に迫るはずだ。
近畿周辺だけでも三百万石という領土に加え、畿内という先進地域が生み出す経済力は政権を盤石にするだろうと思われる。
歴史は大きく変えられて、豊臣の世はこれからも続くだろうと多くのものが予想していた。
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