第五十二話 琉球の後
関白豊臣秀吉は琉球征伐の経過を聞いて大いに喜んでいた。
僅か一月で琉球が手に入ったこともそうであったが、何より懸念されていた明の横槍がなかったことに満足していた。
琉球の対応を調べたところ、豊臣からの書状を受けて明に報告したが何も指示はなく、最後通牒を受けて援軍を要請もしたが、返答までにかなりの時間がかかり、そして返ってきたのが援軍は送れないとの返答であったという。
長年の倭寇への対策で水軍の整備が近海防衛を主としており渡海作戦を行う可能性が低いことは、明に向かわせた西笑承兌らの報告で知ってはいたが、予想通りの対応となったことは喜ばしいことであった。
なにより息子が作り上げた艦隊が成果を出したことが、秀吉にとってはこれ以上ない喜びだった。
本能寺後の長浜での戦から、無能を示すことなく常に軍功をあげ続けている。
豊臣の次代を任せるに足ると示し続けていることは、何よりの喜びだった。
そして新たに手に入れた琉球の価値を考えて悦に入る。
例え石高としては十万石程のものであっても、交易地としての価値を考えれば計り知れない富を豊臣にもたらしそうであった。
琉球を任せた亀井茲矩からの報告では、かつて大越やシャムとの交易が行われていたとも聞いている。
早う関東と東北をまとめ上げて、売り物を増やさにゃあならん。
そう考えた秀吉の頭には、柔和な太った男の顔が浮かんでいた。
*
万暦帝は政治に興味を失ったとはいえ、たまに朝議に顔を出せば話は自然と耳に入ってくるし、後宮の噂としても耳に入ってくる。
昨年、豊臣を名乗るものがポルトガルとイスパニアを非難する書状と倭寇の対策に力を入れるという書状を持ってきた。
蛮族同士争えばよいと思い、倭寇の対策で成果を出せば、冊封国として認めても良いかと思っていた。
そう思いながら倭寇の被害も減り始めたと聞いていたところに、琉球よりの援軍要請がきている事が耳に入った。
朝議に出たところ、今から援軍を出してもとても間に合わないという結論が出されていた。
なぜこの様に期限が少ないのかというある臣の言葉に、誰かが琉球からの知らせは来ていたが黙っておったのはそっちの管轄の役人ではないかと言って、責任の擦り付け合いとなった。
またかと思った。
そのうちこの中の誰かが死んで、そして何も変わらないのだろう。
琉球が滅んでからでもよい、倭人どもに知らしめることはできないのかと聞いてみた。
あるものは、目を輝かせてそのためには水軍の整備が必要ですと言ってきた。
そうだろうな、三隻作る予算が抜き取られ一隻の船が作られるよき仕事よ。
奴らの懐に入る金であれば朕の懐に入れてもよいだろうそう思わずにはいられぬ。
あるものが、そのためには鄭和の航海に倍する予算が必要になりますと言ってきた。
宮中を見渡す。
そのような大任を任せることのできるものなど居そうになかった。
難しそうであるな、そう言った。
朕があれ程の仕打ちを受けてまで手に入れた皇帝の座が、このような者どもを率いるためのものであったのだと思うとここに居る気力を無くした。
後は任すと言って後宮へと戻る。
このような国などどうにでもなればよい。
万暦帝には父より継いだ国を守る気力は残っていなかった。
*
彼が播磨の地で琉球の報告を聞いた時にあらわれた感情は安堵であった。
特に海を渡っての侵攻に大きな問題が出なかったのが、彼を一番安堵させた。
とはいえ全く問題がなかったわけではなく、運良く大きな問題とならなかっただけで、それに繋がりかねないことは存在したし、改善点は無数に存在していた。
来島通総からは、とても読み切れない程の意見書や改善案が送られて来ていたし、琉球に残っている加藤嘉明からも同じだった。
琉球から戻ってきたものを迎えると、すぐに船大工たちを集めて来島通総や総大将であった真田信繁と改善のための会議が連日開かれている。
さらに自分を忙しくさせたのは商人たちで、堺のものたちなどは会合を行って大量の金を集めて、父上や自分に琉球との貿易を求めてきた。
それを成すには全く外洋に耐える船と船員が足りず、軍船だけでなく貿易船の設計と、大量の船員の育成に追われることとなった。
商人たちからの金など瞬く間になくなり、父上からも無心してなんとか進めている。
しばらくは今ある船でなんとか交易を回していくしかないが、とりあえず希望する(金を出した)商人たちに琉球を見てもらうことにしてお茶を濁し、琉球に軍事物資を運ぶついでに要望を聞きながら琉球の産物を持ち帰る他なさそうだ。
そんなさなか五隻のポルトガル船が神戸港に入った。
堺で入港を拒否された彼らは、ゴア総督の親書とゴアにいた日本人奴隷の返却、さらにはヨーロッパへ赴いた少年たちを日本へ帰国させるために日本へ来たと説明しており、大谷吉継の判断で入港が許可された。
このことはすぐさま父上に知らされ、船を留め置き代表者を連れて聚楽第へくるようにとの指示を受けることとなった。
播磨からカタリナと護衛の者たちを連れて、ゴア総督の名代と名乗る者、そしてヨーロッパへ赴いた少年四名を聚楽第へと赴いたのは、船が入港してから五日目の事だった。
聚楽第での父上は上機嫌に見えた。
「よくぞ参ったわ、こたびはゴア総督の名代で書状をもって来たと聞いた見せてみよ」
書状を見た父上は難しい顔をしており、何事かと思ったが「カタリナよ」と困った声で言った事でその疑問は氷解した。
カタリナが父上の近くに行き「読んでも?」と聞いた時、四人の少年たちは驚いた表情をしていた。
そういえば、ここに来る途中顔合わせなどしていなかった事を思い出した。
最近カタリナは更級に馬術を教えられていたが、まだ未熟であり女性の足ということもあって、輿で聚楽第まで来ていた。
聚楽第に着いてからも、父上との打ち合わせもあり、その間カタリナには母上のところに行ってもらっていたので顔合わせする機会がなかった。
長崎で面識があっても不思議ではないし、そのようなものに関白が親しげに接したのなら驚いても仕方ない。
カタリナが親書を訳し父上に伝えたようだ。
父上は、カタリナに「伝えよ」と言って総督の名代に話し始めた。
「総督からの日の本の民の返却ありがたく受け取ろう、されど謝罪の品は持って帰るがよい。そしてポルトガルの王以外の謝罪は今後一切不要である。貿易再開についても王以外と話すことはない。じゃが総督に免じて戦となってもゴアに攻め込まんと約束しよう」
何かを話そうとしたが「これ以上話すことはない帰れ」との父上の言葉をカタリナから伝えられ、うなだれて聚楽第を後にした。
残った少年たちには「追って沙汰を申し付ける」と言われると近習たちに何処かに連れられて行った。
彼らの中には処刑された有馬や大村の縁者もいて、これから取り調べが行われる事となる。
「父上、返還された民はいかがいたしましょう?」
「故郷に帰れるものは返してやりたいが、そうも行かぬものも多かろう。帰れぬものは播磨にて世話してやれや」
そうなるであろうと思っていたので「はい」と答えてカタリナを連れて聚楽第を後にする。
神戸で開放された元奴隷たちの表情とは対象的に、使者の表情は曇ったままであった。
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