第五十一話 琉球征伐

 1588年二月叔父上の隠居を受けて、播磨での日常に戻るつもりであったが、日常どころでなくなっていた。

 叔父上は「西のことはかなり任せると思う」と言っていたが、叔父上との面会が叶わぬようになり挨拶と評して大量の面会予定が入っていた。

 大名の使者だけでなく、商人や寺社の者そして公家までよくこれを回せていたなという程の仕事量であった。


 全く自慢ではないが、これまで内政は小西行長に軍のことは山中鹿之介にほとんど任せており、忙しいと言いつつもある程度の余裕はあったが、今回はそれが全て吹き飛んでいる。

 そんな日が三日四日と続きなんとか更級に愚痴をいうことで保っていた精神も、七日続けばすり減って、十日目遂に爆発した。

 緊急の家族会議を召集して今後の対策を練ることにしたのだった。


 集められたのは、妻更級とその侍女カタリナ、真田信繁夫妻に朝日様とあこ様だ。

「皆も知っていようこの惨状を、どうにかするために皆の知恵を借りたい」

 更級とカタリナは真剣な表情だが、それ以外のものはあまり真剣さがなかった。

 最初に口を開いたのは朝日様だった。

「以前から言おうと思うておりましたが、餅丸は軟弱すぎます。この程度は忙しいうちに入りません」

 周りを見て見ると頷いているものが多かった。


 そして次に口を開いたのはあこ様だった。

「まあお母様の忙しいうちに入らないは言いすぎですが、餅丸殿にも悪いところがございます。あまりに時間をかけ過ぎです。以前から恵瓊坊などくれば半日話すこともしばしばではありませんか。まあ毛利の恵瓊坊は豊臣にとっても大事な方ゆえ仕方ないやもしれませんが、その調子で話していては時間がいくらあっても足りません」

 これには、まだ来て日の浅いカタリナ以外が皆頷いている。


 そして、皆が敵となりそうな雰囲気の中、助け舟を出してくれたのもカタリナだった。

「とはいえ、このままではその様に時間を使えなくなるのも問題ではありませんか?時間をかけねばならない時に来客に追われていては何もできません。全て内府様が対応するのではなく、大事な時のみ対応するようにしてはどうでしょうか?」

 この意見には朝日様も「それはそうじゃが」と納得してくれた。


 そしてあることを思いつきあこ様をじっと見る。

「な、なんですか餅丸殿、私は何も悪いことしておりません」

「いえ、そういえばあこ様のご嫡子が元服を終えておったと思いましてな」

「そ、そうでございましたでしょうか」

 最近あこ様は自分の言葉に警戒するようになっている。

「豊臣の縁者であれば、代理とはいえ納得してくださりそうでございまする。決めました。対応役はあこ様のご嫡子とします。父上に官位の奏上も願っておきまする」

 朝日様はしかたがないのうと言いたそうな表情だ。


「幸村の兄上、申し訳ございませぬが、来月の琉球征伐の総大将お願いいたします。ある程度落ち着くまで離れることできそうにありません」

「しかたありませんな」

 これで丸く収まったと思ったところ更級が言葉を発した。

「これで、久方ぶりに遠乗りもできますね。子を産んでからというもの退屈で」

 今はまずいと思ったが遅かった「更級殿」と朝日様とあこ様の声が重なった。


 どうやらあこ様は母に役目を譲るようだ。

「いかに対応役がいるとはいえ、遊んでいる姿を見れば気分を害されましょう。しばらくはお控え下さい」

 朝日様にそう言われたが、更級は諦めなかった。

「しばらくとはいつまででしょうか?」

「しばらくとはしばらくです」

 朝日様の有無を言わせぬ言葉で緊急の家族会議は幕を閉じたのだった。



 三月一日姫路の港から軍船が出港した。

 大小併せて五百の軍船に一万の兵が乗り込んでいる。

 南蛮船を参考にというか、南蛮船そのままの日本製南蛮船も数隻であるが船団に加わっている。

 船員の中には、高待遇を約束されて船員となった南蛮人も混じっており実戦の中で技術を吸収するつもりだ。


 総大将は真田信繁で、水軍大将として来島通総、兵糧奉行は小西行長となっている。

 また、加藤清正や加藤嘉明もそれぞれ陸と海の将として参加していた。

 その他では父上に琉球守を求めた亀井茲矩なども乗船している。

 予定としては本当に茲矩に琉球を任すことにしており、戦後も港の整備に小西行長を残し、五千程の兵も守備に残す方針だ。


 島津とは奄美大島を中心に恩賞として与えることで合意しており、そのかわりに豊久殿が率いる三千の兵と坊津港を使うことができる。

 兵力としては琉球を落とすのには十分過ぎる兵力だった。


 当然琉球には使者を送っていた。

 昨年の伴天連追放から、琉球に対して倭寇対策のために港を提供せよと送っているが返答はなかった。

 二月を期限に最後通牒も行ったが、それでも返答なく攻撃となった。

 船団を見送った後は、城に戻らなくてはならない。

 未だに来客は途切れていなかった。



 坊津港に到着した船団はそこで、島津との合流を果たし三月十日出港した。

 島津とはすぐに別れて、島津は自領となる予定の奄美大島に、豊臣の船団は琉球本島へ向かうこととなった。

 途中琉球の船と遭遇したが、大船団を見て逃亡を選び戦闘とはならなかった。


 三月二十日には琉球本島に上陸し、一万の兵を見た琉球王国は降伏を選んだ。

 三月二十五日には首里城を占領し和議が成立、条件は日の本への帰属であった。

 国王尚寧は捕らえられ、日本に送られた後参内して、尚源朝臣為寧として琉球王に任じられた。

〈源朝臣と為の字は尚氏が源為朝の末裔を称していたことから〉


 その後、父上より琉球名護一万石が与えられ琉球へ戻されることとなった。

 五月に琉球へ戻った尚寧が見たのは港に浮かぶ幾多の軍船と整備されつつある港であった。

 日本の商人たちは早くも琉球に入って、各地の物品の取引を始めていたし、かつて自分の兵であったものは、日の本流の訓練に勤しんでいた。

 名護に向かった尚寧を待っていたのは、日本の役人と武士であり、これからの未来を予想させるのに十分なものであった。


 結局ほとんど戦闘らしいものもないまま、一月もかからず琉球は日の本のものとなった。

 これがどの様な影響を与えることになるかは、未だ誰も分かっていなかったが、日の本が国の外に目を向けたことは間違いなかった。

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