第四十三話 九州征伐
1587年正月の祝いで、大名たちが居並ぶ中、父豊臣秀吉は九州への自らの出陣を宣言した。
この時期には、仙石秀久の敗北は周知のこととなっており、命令違反の上逃亡したことも父上の耳に入っていた。
無謀な戦いを挑み、あろうことか長宗我部の世継ぎまで失わせる大敗北を犯したことは、この戦を豊臣の名を知らしめる戦として認識していた父上にとって許せるものではなく、すでに領地没収の上高野山への追放という処分が発表されており、抗弁の機会もなく実行に移されることとなった。
今回は自分も出陣することが決まっていて、播磨では山中鹿之介と宮部継潤の指揮で軍が編成されており、初めてともいえる全軍での出陣となりそうだ。
ただし、父上の話では九州上陸後は軍を父上の軍と小一郎叔父の軍に分ける方針のようで、自分の軍も二つに分けようかと思っている。
父上の軍には自分(鹿之介)が率いる播磨勢を、叔父上の軍にはその娘婿の尼子を大将に中国攻めで叔父上と共に山陰で戦った宮部継潤ら因幡衆を付ける方針を、鹿之介と継潤には伝えてあるし、父上からも「尼子は初陣であったのう義父の小一郎の方が気安かろう」と許可をもらっている。
とはいえ尼子を支えている立原久綱は歴戦の勇士であり彼の言葉をよく聞けば心配の必要もなさそうではあった。
それでも働きやすいところがいいだろうと考えての配置で、叔父上と立原殿がいれば初陣とはいえ大きな失敗はないだろう。
このような方針のもと、軍の編成はいつも通り配下に任せて自分は最後の準備に取り掛かった。
*
急な来客に京の人々から南蛮寺と呼ばれている教会は騒然となっている。
来客として来たのが関白太政大臣豊臣秀吉の嫡子であったからだ。
彼は僅かな供を連れ、教会に入ると私を見つけ「フロイス殿お久しゅうございます」と声をかけてきた。
私は急なことに驚きながらも「お久しゅうございます。どの様なことで参られたのでしょうか?」と返事することが出来た。
彼は姫路で会った時と同じく気安そうな態度で語りかけてきた。
「ああ、フロイス殿にも頼みたい。関白殿下が九州ヘ下向されるのはご存知でありましょう。九州にはキリシタンのものも多いと聞いております、そちらが居れば心強いとオルガンティノ殿に同行を頼みに参ったのです」
「なるほど、しかし私の一存では決められません。すぐにオルガンティノ殿を呼んで参ります」
そういいながらも断れぬなとフロイスは考えていた。
オルガンティノに簡単に説明したが彼の判断も似たようなものだった。
「大納言殿、九州への同行分かりました。されど京にて仕事もございます。フロイスとロレンソ了斉を同行させてください」
大納言殿は少し考えていたが「ならぬ」と言ってオルガンティノの提案を拒否した。
「九州のコエリョ殿は、日の本におけるそなたたちの大将であると聞いております。お二方だけでは、何かの時に地位が足りません」
「何かあるとおっしゃるのですか?」
オルガンティノの言葉を聞いて、彼は態度を一変させた。
それを聞いた大納言殿の眼は余りに冷たく、かつての姫路での姿からは想像もできないものだった。
「オルガンティノ殿の方がお詳しいでしょう。私は噂を聞いたまでで事実であった時に抗弁は聞こうと思ったまでです」
「噂にございます。私は信じておりまする」
その言葉を聞くと冷たい眼のまま彼は言い放った。
「なれば噂であることをここで神に祈っていればよかろう。そなたの抗弁はもういりません。お二人のみ連れて行くことにいたします。フロイス殿ロレンソ殿を連れて来て下され」
それだけ言うと数人の供を残し教会より出ていった。
「オルガンティノ殿」
かなり参っている様子だ。
「大丈夫にございます。機嫌を損ねてはなりませぬ。早う大納言殿のもとへ」
噂に聞いている以上のことが九州で行われているのであろうかと不安に思いながら、ロレンソ殿を連れだって大納言殿のもとへ向かった。
彼と合流した時には彼の右筆が何やら文を書いていた。
後に知ることになるが京都所司代の前田玄以殿ヘ、九州征伐が終わり新たな下知があるまで、我らを京より出さぬように依頼する文であった。
*
豊臣の軍勢は三月の末に九州に上陸した。
二十万を超える大軍の進行を止めるすべは島津にはなく、いくつかの苦戦はあったが順調に進軍を続けて五月には島津は降伏することとなった。
そんな折、叔父上から珍しく文が来たので内容を確認すると、柊様から娘の相手を探すことを頼んでいたが島津豊久という若者をいたく気に入ったので、婿にしていいかというものであった。
個人的には何の不満もない相手だったので、すぐに父上の元に赴いて話をすることにした。
「殿下、先程大和中納言殿より文が届きまして相談したく思っております」
「なんじゃ改まってなにかおきたのか」
「悪い話ではございません、島津中書(家久)の嫡子、又七郎殿をいたく気に入り、婿に迎えたいゆえ取りなして貰えないかとの文でございました」
父上は少し悩みはしたがすぐに結論を出した。
「噂ではなかなかの豪傑と聞いておるわ、島津との縁ができるのは豊臣としても悪うない。小一郎には進めよと伝えよ」
すぐさま小一郎叔父には、私も殿下も賛成でございますと文を返した。
これに最も驚いたのが島津の当主の龍伯であった。
先日まで薩摩一国を安堵するとなっていたものが、一夜にして全く違うものになったからだ。
「治部少どん、上方は島津をからかっておるのでごわすか?」
普段はあまり出さない方言が無意識に出てしまうほどで、顔は怒りの表情となっている。
薩摩を義久に、大隅を義弘、日向のうち諸県郡と佐土原城、都於郡城を家久にと急に内容が変わればそうもなろうと佐吉は思った。
「龍伯殿、大和中納言様が娘柚姫様が又七郎殿に嫁がれる事となり申した。これより島津とは一族ゆえとの殿下の配慮にございまする」
「おいはその様な話聞いておらぬ」
「はい、大和中納言様が又七郎殿を気に入り。殿下に進めてよいかとの文が来たのが昨日の事でございます。中書殿とて知らぬ話でございまする」
「なればなぜ決まったと上方は申すのか」
「島津はお断りになるのですか?」
治部は断れることなど、全く考えていなかったといった様子で聞いてきたが、確かに島津に断ることなど出来ない。
豊臣の大将と副将の面子を潰して得られるものなど島津の滅亡だけで、了承すれば以前と比べれば破格の降伏内容に加えて豊臣との縁が結ばれる。
さらに豊臣には子が少ない上に、大和中納言の娘は関白ともその嫡子とも長く共に暮らしていたと聞く、島津は豊臣の中で重きをなすだろう。
「いえ、ありがたきご縁にて、大和中納言様には島津を救う縁組ありがたく、大恩受けしこと島津の家は末代まで忘れませぬとお伝え下され」
龍伯はこう言って、婚姻と降伏が正式に決定した。
*
六月七日筑前にて、九州の論功行賞が行われた。
日向は降伏の際の領土に加えて櫛間を島津に北部を髙橋元種に、残りの中部は伊東祐兵と秋月種実に与えられた。
豊後は大友が領有し、豊前のうち宇佐郡の半分の領有も認められた。
豊前には毛利勝信と黒田が入り、毛利勝信には田川郡と企救郡が、残りを黒田が領する形となった。
筑前には小早川隆景が入り、筑前に加えて筑後、肥前にそれぞれ二郡を与えられた。ただし伊予は豊臣に返還される。
筑後では小早川の養子秀包が三郡、大友から大名に取り立てた立花統虎に四郡が与えられ、残りの一郡は原田信種と筑紫広門に分け与えられた。
肥後には佐々成政が入り、相良頼房の人吉以外を領する事となる。
肥前は安堵が許され、龍造寺、松浦など以前と変わらぬ状態だ。
なお、毛利から豊臣に返還され、仙石領も没収された伊予は、仙石旧領の宇摩郡が三好秀次に加増され、その弟秀勝に新居郡が与えられて秀次与力とされた。
福島正則には仙石旧領残りの周布郡と桑村郡に加えて、越智、野間、風早、和気、温泉、久米の六郡を与えられ、浮穴、伊予の二郡を小出秀政に、喜多郡は赤松広秀、宇和郡は戸田勝隆に与えられた。
*
六月十六日ガスパール・コエリョは自らの行いにおおいに満足していた。
ヴァリニャーノの方針に背いて、大砲を積み込んだ船をこの国の王に見せたのは成功だった。
ジェスト(高山右近)などは恐れおののいて、献上するように言っていたが、恐れおののいたのはこの国の国王の方で、焼失した博多に新たに作られる教会にも便宜をはかると言っておった。
彼は全てが思い通りに進んでいる現状を、神の大いなる加護が与えられていると捉えて幸福感に包まれていた。
そして神が道を示してくれていることに感謝し、船に備え付けられた礼拝室に向かい祈りに没頭した。
神の道を阻む悪魔など彼の考える神の国には存在しないのだった。
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