第四十一話 嫡男誕生
1586年一月ついに我が子が生まれようとしている。
家康が上洛を見届けに大坂行った後、大坂に来ていたまつの母上とともに播磨に戻り、更に昨年の師走には東殿が娘の小屋殿を連れだって母上との連絡のために播磨へ入った。
同じ頃には、大殿から頂いた養子の秀勝が亡くなっただけに、その悲しみを払拭しようと、初孫に入れ込んでいるようにも思えた。
市松(福島正則)までもが播磨に入っている。
父上は市松に駿馬を与えて、子が生まれたらすぐさま大坂まで駆けて参れと厳命したらしい。
更には一刻も早く知らせが来るようにと佐吉(石田三成)に命じて大坂までの道を整えさせている。
市松の話では、前田の父を大坂に留め置いているらしく、知らせが入り次第、大坂を任せて播磨に来る姿が目に浮かぶ。
「殿下の三度目の大返しじゃ、中国と美濃は共に駆けたが、此度は大返しの先駆けじゃ」
と市松は気合を入れており、市松のことだから大坂に報告した後は、そのまま父上と共に駆けて姫路に舞い戻って来るだろうと思っている。
母上からは、更級が巴御前だけでなく神功皇后を深く敬愛しているという噂を聞いたが本当かとの確認の文が届いた。
フロイス殿に会った後に「お望みであれば神功皇后になってあげまする」と言われた話を自分がどこかでして、それに尾ひれが付いたのでしょうという事と、本人は「嫌いではありませぬ」と言っている事を返事として返しておいた。
すると時期を置かずに母上自ら、摂津国住吉郡の住吉神社に安産祈願に赴いた事を知らせて来た。
朝廷と関係が深くなっている羽柴家にとっては、お上の心象を少しでもよくできればという考えもあり、それに加えて安産祈願も出来ると判断したのだろう。
このことが伝わったのか、領内の住吉神社からも、我が社は和泉式部が小式部内侍の安産祈願に参ったこともある神社にて是非に祈祷をさせて欲しいと願われたりもした。
多分更級は両名とも露ほども知らぬと思うが、ありがたい話ではあるので宮部継潤を使者に立ててお願いしている。
父上などは各所に祈祷の命を出しているとも聞く、それに比べればかわいいものだろう。
このような事を考えているのは、更級が産気づいてからかなりの時間が経っているように思えるからだ。
何より更級の事が心配になっている。
無事であってくれ。無事であってくれ。そう願っていた自分の耳に叫ぶ様な女の声が届いた。
*
「お産まれになられました。おのこです羽柴の嫡子でございます」
その言葉を聞いた後のことはほとんど思い出せない。
その言葉を聞いて、走り出したこととなかなか進まなかったことは覚えている。
後は、更級、更級といい続けていた事と更級が自分の顔を見て満足気に微笑んだこと。
「やりました。今とても幸せでございます」
そう更級が言ったこと。
思い出せるのはそれだけだった。
*
次に気がついた頃には、父上が既に姫路にいた。
後で市松から聞いた話では、男子と伝えると父上は何度も「まことか、市松まことにおのこで間違いあるまいな」と聞いて来たので「この耳でしかと、おのこでございます」と答えたそうだ。
そして「すぐに参る。市松ともをせい」と言われて休む間もなく姫路に舞い戻ったらしい。
姫路までの馬上でも「餅丸と更級どちらに似ておるのじゃ?」やら「どれほどの大きさであった?変わったところなどなかったか?」など質問攻めで、その度に「申し訳ございませぬ。早く伝えねばと顔も見ずに飛び出して参りましたので分かりませぬ」と伝えるのが心苦しかったと言っていた。
そのせいか、父上が子を見て戻って来ると「殿下申し訳ありませぬ。お子も見ずにただ男子と伝えるのみで、その他のこと何も殿下にお伝えできませなんだ」と謝罪したようだ。
その謝罪に対して父上は市松の手を取って、労をねぎらいこう言ったらしい。
「よいわ市松、城の者どもも伝え聞くなりすぐ飛び出して行ったと言っておったわ、市松は不器用やもしれんが真っ直ぐな忠義者よ、市松に任せてよかったわ」
それを聞いて市松は滂沱の涙を流したと聞いている。ーー
やはり市松のことは嫌いになれない。
ただ道を示せばよいと思えるし、この様な話を聞けば自分を裏切るなど考えられない。
まつの母上からは、出産の様子を聞いた。
「初めてとは思えぬ程順調でございました。もっとかかるかと思うておりましたがすんなりとお産みになられて、あの様子であれば、またすぐに子を産めるようになりましょう」
喜ばしい話ではあったが、あれほど長いと感じて更級の身まで案じたのが、全くそうではなかったようで少し気恥ずかしい。
「母上はいかがしておる?」
答えてくれたのは東殿だった。
「北政所様は明日には姫路に参られるご予定となっております。これ以上は私からは」
そう言って何通かの文を渡された。
ざっと目を通す。
「父上、知らせを聞いて何も言わず全て放り出して姫路に来たようですな。母上も前田の父も酷く苦労した様子。後で叱られて下され」
「わしは悪うなかろう、そもそも又左にしてもねねにしても、わしが知らせを聞けば飛び出して行くのは分かっておるはずじゃ。餅丸よわしは悪くなかろう」
本当にこの父はあいかわらずだ。
前田の父も母上も本心ではいつもの事と思うて、腹など立てておるまい。
「私も父上がすぐに姫路に来て下さり嬉しゅうございました。前田の父にも母上にも共に頭を下げましょう」
父上はまあそういうのならといった感じで、渋々謝罪に同意した。
そして父上はすぐさま表情を変えると、子について話しかけてきた。
「そうじゃ、もう子の名は決めておるのか?」
父上からの言葉に、まだ更級に相談した訳ではございませんがと前置きした上で、考えていた名を披露した。
「今よいと思うておるのは瑞雲丸にございまする。瑞雲は吉兆を運んで来ると申しまする。生まれた子が羽柴にとって吉兆となって欲しいと思うてこの名を考え申した。さらに瑞雲はわが師虎哉宗乙と出会った院の名でもありまする。それゆえ私とも縁を感じましてこの名にしたいと思うておりまする」
それを聞いた父上たちの反応も悪くなかった。
「確かに、そちに嫡子が産まれたは羽柴の吉兆じゃわ、餅に続いてめでたき名なのもよい、わしはそれでいいわ」
他のものたちも良い名という言葉ばかりで、反対はなかった。
「では、明日にでも更級と話してみることにいたしまする」
次の日更級も「名はお前さまに決めてもらおうと思っておりました」と言ってくれてすぐ瑞雲丸と決まった。
そして更級の手を取り「子が産まれるというのは、これ程の幸せなのだな」と言った後は何も言わず更級の手を握り続けていた。
更級も何も言わず、ただ手を繋ぐだけで時が過ぎていったが、これ以上なく幸せだった。
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