第三十五話 和平案

 1585年となった一月、長らく交渉を続けていた毛利と羽柴の和平が結ばれた。

 小牧長久手の戦いでも勝利した羽柴に対して、結局三カ国割譲で和平をしたいと毛利が伝えてきたのが、昨年末であった。

 それに対して、予定されている紀州征伐への協力の見返りに伯耆の西部二郡(会見郡、日野郡)の譲歩を行い正式に和平が成立した。

 さらにこの和平案には毛利輝元の養女と三好秀次との婚姻と、立原久綱の返還も含まれていて羽柴の希望通りとなったと満足している。


 この毛利との和平に伴って、宇喜多家には備前、備中、美作の三カ国が全て与えられ、その代わりに播磨の宇喜多領は羽柴のものとして譲渡が行われた。

 そして自分は、播磨、但馬、因幡の三国と摂津の一部を任される事となり、正式に大名として羽柴の家を支える立場になって責任と権限が大きくなった。


 本来であれば伯耆も与えられる予定であったが、尼子の旧領であることから、そこで尼子を再興させてはどうかと父上に相談したところ、尼子は再興の運びとなり自分の与力として与えられた。

 毛利から返還された尼子旧臣の立原久綱は尼子の家老となり、尼子は六万石の大名として羽柴に仕えることになる。


 因幡では鳥取城を領する宮部継潤が五万石を領して、残りの地を亀井茲矩、垣屋光成ら継潤の与力であった者で分けられている。

 つまりは与力から、自分の直臣に変わっただけで何も変わっていない。


 但馬は小一郎叔父が領していたが、今は河内に領地を移しており、紀伊討伐の後は紀伊を任される予定だ。

 小一郎叔父と言えば、嫡子の松丸が元服して名を持長と変え、柊様の希望で前田から妻を迎えた。

 年の近さから摩阿姫が妻として選ばれ、父の側室となる歴史とは変化を見せている。

 ただそれ以外の側室は知る歴史通りで、現在父上の側室になっているのは、京極の娘竜子、蒲生氏郷の妹、山名豊国の娘、織田信包の娘の四名で、知る歴史と同じく茶々はまだ側室となっていない状態だ。


 松丸が持長という名となったのは、今後叔父上の家の世継ぎは、羽柴の世継ぎから一文字もらうことにしたかららしく長は通字として使うらしい。

 もし羽柴の世継ぎが秀吉なら叔父上の世継ぎは吉長といった具合だ。


 但馬では、尼子再興のために伯耆より移動してもらった南条元続に四万石、山中鹿之介を出石城に入れて五万石、残りの一万石余りを別所重宗が領している。


 鹿之介といえば、今回の和平で縁者を探させたところ、生き別れとなった妻は既に亡くなっていたが、娘は毛利の将である児玉就方の元で人質となってそこで地元商人と結婚もしていた。

 大きな商家でもなかったので、夫の吉和義兼共々呼び寄せて御用商人とその妻として姫路で暮らしている。


 鹿之介の喜びようは相当なもので、「若様感謝いたします」と鹿之助は涙を流して喜んでいた。

 ただ鹿之助の涙は、今年だけでも尼子が大名として再興された時と、立原久綱と再会した時も見たので少し見慣れた気はする。


 摂津国の領土は父上に願い出て任されることになった領土で、貰ったのは八部郡と菟原郡西部の一部だった。

 ここには小西行長を送って港の整備を命じている。

 つまり数百年早く神戸港を作ってしまおうという考えだ。


 毛利との正式な和平が結ばれた後、小牧長久手の戦いの和平も結ばれた。


 織田信雄との和平条件は、伊賀と尾張の割譲という厳しいものとなり、石高でいえば半減する事から、家臣の統制には多くの時間がかかるだろう。


 徳川との和平の内容は、徳川のもつ信濃と甲斐の巨摩郡の割譲、次男於義伊を羽柴に人質として提出、更に紀州征伐後の上洛を約束するという内容になった。

 領土で言えばもう少し得ることもできたと思うが、これから西に兵を進めるので、北条と隣接する領土は増やしたくなかったというのと、交渉に時間をかけたくなかったのだと想像している。


 石高は減った人口なども考えると、八十万石程まで勢力を削った事となる。

 周辺の情勢が邪魔をして倒すことはできなかったが、それでも十分な成果だと思っている。


 得られた領土の分配もすでに発表されていて、共に信濃へ向かった者は勢力を伸ばしている。

 真田の父は森から預かった土地を含めて戦前の領土を安堵された上に諏訪殿を家臣として与えられて、諏訪郡が加増された。

 森家には信濃の筑摩郡と安曇郡が与えられて、更に美濃でも武儀郡が与えられた。

 可児郡、恵那郡、土岐郡、加茂郡の全ても森家に任されたので、美濃五郡と信濃二郡の大名となり大きく加増された事となる。


 なお筑摩の木曽義昌殿は父上から本領安堵を言い渡されていたが、本能寺の変の後勝蔵様の暗殺を図った過去もあり、一月もせぬ間に息子ともども殺害された。

 なんというか当然である。

 そして当然のように、次に勝蔵様が柊様に会った際のお叱りの時間が増える以外のお咎めはなかった。


 伊那郡には毛利長秀殿が戻られ、残る佐久郡と、甲斐巨摩郡は、巨摩に金山があることから浅野の叔父上に与えられた。


 尾張には、森と池田を隣り合わせにするわけにはいかないという事で、美濃から三河の国境沿いの尾張東部に池田を転封させて、伊勢との国境沿いの尾張西部には生駒を入れて、中央に堀が入って徳川と織田の備えとしている。


 個人的に最も大きな戦果であると思っている流民の数は五万を超える事となり、農民たちは大坂城の人夫や各地の開墾などに従事することとなった。

 小牧長久手の戦いで得た民の中には、船大工もいたので更に姫路の造船所を拡大させる事とした。

 播磨の水軍も大きくすることができるだろう。

 様々な船を試作させ造船技術の向上に努めていたりと余裕も出てきたので、船の設計に力を入れても良いかもしれない。


 船大工の他にも技術を持つものは、殆どを自分が雇うことにして、売り物となる産物の製造に力を入れている。

 竹細工の職人たちは但馬に移り住ませて但馬に元々いた竹細工職人と競わせているし、駿河にて織物を作っていた者たちは、播磨に移り住ませて播磨で作った絹の織物に従事して着物の製造を行っている。

 養蚕は更に拡大させ続けているので、織物を作る経験のあるものが増えたのはありがたかった。


 武田の伝手を使って都市部にまで噂を広めてくれた真田の父上には感謝しかない。

 より羽柴は富み、徳川との経済格差は大きくなるだろう。

 なりより、幼い頃より変わることなく親愛の情を抱いているお祖母様が徳川へ行くことは無くなったはずだ。

 誰にも気付かれる事はないが、孝行ができたことに満足していた。

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