第三十四話 立枯れ
1584年八月徳川家康は決断を迫られていた。
正面に見えるのは羽柴の大軍で、四万を数える程の兵が幾重にも重ねられた砦と柵の中で、徳川の動きを見ている。
そしてそれは徳川も同じで、同じく幾重にも重ねられた砦と柵の中で、二万を数える兵が羽柴の動きを見ていた。
正面を切っての戦いであれば例え倍する兵であろうと勝つ自信はあるが、今の状態は長篠の武田と同じで、例えいかなる強兵を持っていようと攻めれば負ける、そういう戦だ。
倍する兵を持つ羽柴も同じで、圧倒的な兵を持っていながら動くことができない。
この睨み合いは既に四ヶ月も続いていた。
ただ追い込まれているのは、徳川の方であった。
共に兵を挙げた織田信雄は伊勢の領土を次々と奪われているし、徳川の家はさらに追い込まれている。
信濃に侵入した羽柴の別働隊は、昨年あれ程苦労して手に入れた南信濃を瞬く間に攻略し、一万を超える軍勢で甲斐へと雪崩込んでいた。
さらに、南信濃の国境にある城は改修され容易に攻めることができずにいる。
不思議なことに三河や遠江、駿河には攻め込んで来ないが、その代わりに信濃への流民が多発している。
駿河などでは、信濃に行けば食べ物にありつけるという噂が流れ、酷いところでは村ごと人がいなくなったところもあるらしい。
駿河や遠江の者どもからは悲鳴のような声が聞かれ、一部からは武力によって止めるべきとの意見も出てきている。
民への攻撃は控えさせているが、このままであればいつ誰が暴発しても不思議ではなく、その先は泥沼の一揆との戦いとなるであろう。
一刻も早く領内へ戻り、安定させねばならぬ状況であった。
「弥八郎、平八郎いかがすべきじゃ?」
家康は本多弥八郎正信と本多平八郎忠勝に問うた。
正信は智において、忠勝は武において徳川随一の者であり、その見解を判断材料にしたいと家康は考えた。
先に口を開いたのは正信だった。
「無念ではございますが、すぐにでも領内へ戻らねば徳川の家が滅びまする。三介殿への義理立てはもう十分にて一刻も早くお戻りくださいませ」
続く忠勝も意見は同じであった。
「殿、この戦はもう勝てぬ。口惜しいことではありますが今は耐える時と存じます」
それを聞いた家康は目閉じ大きく息を吐いてから、自らの意見を口にした。
「やはりそれしかないようじゃな、まだ忍従の日が続くが家臣たちには耐えて貰わねばならぬな」
そう言うと、家康は本陣に向かい信雄の罵詈雑言に耐えたあと兵を三河に戻したのであった。
*
三河に戻った家康を待っていたのは、目を覆わんばかりの惨状だった。
少なくとも駿河を中心に四万の流民が発生し、その中には駿河の水軍を支えた船大工や、経済を支えるべき技術者たちも含まれていた。
現在もさらに流民は増えており、放棄された田畑も多く、今年の収穫ではとても戦を続けることができそうになかった。
今できることは、流民を止めるために慰撫に専念することだけであった。
さらに、悪い事は続くもので織田と羽柴が伊勢の安堵を条件に講和。
織田勢も加えた総勢七万の兵が尾張に集結しつつあるとの情報を伝えてきた。
こうなれば和平を結ぶ他なく、すぐさま重臣の石川数正に人質として家康次男の於義伊を預けて、尾張にいる秀吉と面会させた。
「弥八郎よ此度の戦は一体なんであったのか?戦なぞ池田を討った程度で、後は精々高遠城での戦くらいのもの、甲斐でも無理攻めはなくただ悠々と囲んでいるだけと聞いている。であるのになぜ徳川はここまで負けたのであろうか?」
その言葉に対しての弥八郎の答えは三河の者らしい答えであった。
「あまりに急ぎすぎました。信濃も駿河も治めて日が浅く、徳川への忠が薄うございました。証拠に三河では流民がほとんどおりませぬ」
「なるほどの」
その答えは三河の者にとって納得できる答えだった。
*
石川数正が人質を連れ和平を求めてきた後、諸将たちが夜を迎えて立ち去った本陣で、秀吉はいつものように伊勢を攻めていた小一郎に話しかけていた。
「わしは今、後百年ばかり生きてみとうなったわ。此度の戦の事、後世の軍学者や学僧どもがどう言っているのか知りたくてしょうがないわ」
確かにどう言われるのであろうかと思ったが、そんなことを言えばいつまで話が続くか、わかったものでない。
「わしや姉上や餅がおらんようになったら誰が兄さを止めるんじゃ、羽柴の家がなくなってしまうわ」
「餅が一人前になったらどこぞに出家して静かに暮らすわ、それならよいじゃろう」
「すぐに寺を飛び出したのはどこの誰であったかのう」
「そんなんは知らぬわ、しかしこのような戦、唐や天竺にはあったのかのう」
「そんなことわしに聞かれても分からんぞ」
秀吉にとぼけられた小一郎の仕返しだ。それに秀吉は少しムッとした。
「分からん時の小一郎が頼りないわ、半兵衛や官兵衛なら知っておるのかのう」
「兄さよ、あの頃とはちごうて今のわしには真田があるんじゃ、きっと静かに暮らせるわ」
「大丈夫じゃ小一郎、あの半兵衛も認めたんじゃ、そうなればきっと真田の嫡子から更級のような娘が生まれて世話することになるわ」
「本当にそうなりそうで怖いわ」
秀吉は小一郎に勝ったと思ったのか雑談に満足したようで、表情と声色を変えて小一郎に話しかけた。
「そいでどうすればよいかの」
「いつまでも万丸を播磨に置いても仕方ないわ、徳川への嫌がらせはこのまま徳川との和平が決まるまで続ければ良いとは思うが、別に餅でなくてもよかろう、何ならわしが入ってもよいわ」
苦労が少なそうな仕事で、何かの間違いで入れと言わぬかなと淡い期待を込める。
「まあ徳川本隊が三河に戻って慰撫に努めとる、流民も少なくなるじゃろうし久太郎に任せるか」
「まあそんなところじゃろう」
期待はしていなかったので気落ちはしていない。
「甲斐はもうええわ、そいで兵が戻ったらわしは紀伊を攻める準備だわ。小一郎は和平が決まるまで尾張で取次と徳川への備えじゃな」
「おおよ、条件は聞いた通りでええか?」
「欲張らんでよかろう、臣従させるのが先じゃわ」
「分かったわ」
家康に勝利はしたが、滅ぼすとなると時間がかかるし、北条がどう動くかもわからない。
それよりも、紀州や四国の羽柴に抵抗した者どもを叩き潰すのがよいと秀吉は考えていた。
「しかし、餅がいてよかったわ。おらねば徳川と尾張で千日手を演じて、官兵衛は大阪、小一郎は伊勢じゃわ。徳川を叩く手が足りんところであった」
羽柴の家は急拡大したこともあって、兵はいても方面を任せられる人材が不足していた。
「紀伊と和平が終われば国替えじゃ、小一郎には紀伊をやるわ」
「兄さはわしにどれだけ苦労させる気じゃ」
「困った時の小一郎じゃからな」
「そう言われると兄さの困り事ばかりを、これからも何とかせねばならぬのかと思うて気が重うなる。やめてくれ」
秀吉はその姿を見て大きく笑い、小一郎は困った顔をした。
そこにはいつもの兄弟の姿があった。
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