第三十三話 信濃国

 真田昌幸にとってのここ数年は、人の縁というものがこれほどまでに不思議なものであったのかと思わずにはいられない、そんな日々であった。


 本来であれば本能寺変の後、織田という後ろ盾を失って、小さな領土しか持たぬ真田は誰につくのかを悩みなんとか必死にもがいている、そうなるはずだった。

 しかし頭を悩ませ続けた娘の婚姻が全てを変えた。

 相手が、羽柴筑前の一粒種であったからだ。


 本能寺の変の後、森武蔵守は人質と旧領を託し美濃へと戻っていった。

 伝え聞くに、姉が羽柴の家に嫁いだ縁で、赤子の頃から婿殿を知っており弟の様に思うておるらしい。

 織田を嫌っていても、ともに武田に仕えた真田であればと言うものも多く、人質がいることもあって思いの外簡単に森の旧領を抑えることができた。


 さらに、本来であれば信濃に兵を送り込んでもおかしくない上杉も、柴田と争っている以上羽柴とは手を組みたいところで、争うどころか真田に支援すらする始末であった。

 信濃に攻め込んできた徳川も羽柴を刺激したくないのは同じで、この戦が始まるまで何も手を出して来なかった。

 そして今、森の旧領を合わせて二十万石に迫ろうかという大名となっている。


「わしは人より多少先が見えると思うておったが、何も見えておらなんだわ」

 昌幸の言葉に、重臣で叔父でもある矢沢頼綱が答える。

「このような事誰とて分かりませぬ」

 確かに分かる者などいないに違いない。

 信長とその息子が共に殺され、羽柴が天下を差配する立場になるなど知るものなど、この天下に一人としているはずもなかった。


「それにしてもこの文じゃ、婿殿はともに高遠を攻めて欲しいと言うてきたわ」

「もう木曽は転びましたぞ」

「それはそうじゃろう、一万五千の軍を前にしては何もできんし徳川に恩もない」

「これからも続きましょうな」

 その言葉を聞いて昌幸は文を出した。

「諏訪からじゃ、取り成し頼むと書いておる」

「なんとも」

 高遠へ行かぬ訳にはいかぬな。


「北条への備えもあるゆえ千程連れていけばよかろう、諏訪も連れて行く。叔父上留守はお任せします」

 そう言って昌幸は娘婿の待つ高遠城へ向かうことにした。



 昌幸が高遠城へ到着した時には、羽柴の軍勢は帰順した国人たちを吸収し二万に迫ろうかというまでに膨れ上がっていた。


「父上お久しゅうございまする」

 笑顔を浮かべて婿殿がやってきた。

 親しみやすい笑顔はそのままであったが、どこかかつての印象と違って見えた。

 だが二年振りの再会であり、その間に何度か戦も経験し姫路を任されたと聞く、変わるのも仕方のないことかと思い直した。


「おお、婿殿何度か文で近況など伺っておりましたが、久方ぶりに姿を見るとたくましゅうなって、見違えましたわ」

「そのような、二年経ってもあいかわらずのままで、恥ずかしながら父にも母にもまだ餅丸のままでございまする」

「親とはそのようなものでございます。わしとてあのお転婆はお転婆のままにて、いつ送り返されて来るのかとそればかり考えておりまする」

「すっかり尻にひかれて、私が真田に送られる日も近いのではと思っております」

「なんとお恥ずかしい」

 やはり変わったと思うたのは気のせいであったか。


「立ち話も良きものですが、少し落ち着いて話しとうございまする。真田の父上様に聞いて欲しい策もございます。案内いたしますゆえこちらへ」

 そう言って本陣へと入ったが、そこには見知った顔も多くいて信濃での羽柴の勢いを感じさせる光景が広がっていた。



 居並ぶ諸将たちの中でも、義父という事もあって婿殿に最も近い席を案内された。

 より近い位置にいるのは、いつか見た祐筆を任されている僧体の男と佐吉と呼ばれた小姓をしている男だけであった。

 隣には息子の信繁がおり「お久しゅうございまする父上、今から面白き策が聞けますぞ」と幼い頃にお転婆といたずらを相談していた頃の笑顔で耳打ちしてきた。


 そこに使番が入って来て、高遠城の降伏と、菅沼定利、保科正直両名の切腹と引換えに城兵の助命嘆願を求めていると伝えてきた。

 婿殿は少し考えてから使番へ条件を提示した。

「降伏許す。されど助命嘆願には保科の嫡子の首も添えよと伝えよ。期限は今日までとする明日までは待たん」

 それを聞いた使番はすぐさま走り去ってゆく。


「さて、高遠も落ちた様子。これからの事伝えるゆえ意見あれば申すがよい」

 そういって婿殿は話し始めた。

「まず勝蔵殿にはこれから未だ羽柴に従わぬ佐久郡へ進んでもらいたい。父上よりお借りしている長浜の兵うち二千と兄上をお預けいたします。真田の父上はそのまま領地に戻りて兵をまとめ、森殿に合流した後は総大将をお願い致します。長浜の兵どもは妻と共に戦こうたこともございます。その父の指揮も楽しみにしておりましょう」

 それを聞いて長浜にいた信繁などは笑いを堪えている。


「勝蔵殿は真田の父の言葉を私や父上の言葉と思うて聞いてくだされ、もし私の指揮でうしのうて叔母上に泣かれてはあわす顔がない」

 森長可は少し不満気だがしょうがないといった顔をして答えた。

「餅丸の頼みであればそうするわ」

「はい。鬼と言われておりますが、私には優しき兄ですので失いたくはありません」

「皆の前でそのようなことを言われるとは、来るでなかったわ」

 珍しい照れる鬼武蔵の姿を見て皆自然と笑みがこぼれている。


「諏訪殿と木曽殿は兄たちと共に佐久へ。安堵の取り成しは働きにて。堀殿はこのまま高遠に入って、佐久の後甲斐に入る真田の父上を支援してくだされ」

 森長可の「まだ言うか」という以外の不満は無さそうであった。


「さて、皆の考えを聞きたいと思うていることなのですが、初めはこのまま飯田城や松尾城に入って、徳川の地を荒そうかと考えておりました。それも良いとは今でも思うていますが、戦となり兵を失うのは面白くない、万が一にも負けることがあれば父上に面目が立たないとも思いました」

 いよいよ面白い策が聞けるのかと楽しみになっている。


「そこで考えた策ですが、まずは遠江と駿河に入り村々に兵糧を配ってこう伝えさせまする。羽柴筑前は織田に仕官する前に針の行商をしておった、その時野盗に襲われ仕入れたものも奪われて食うに困っていたところ、駿河の某という町人に助けられ食事を与えられて命を救われた。その後も今川の松下某という武士に仕えたこともある。結局去ることとなったが今川のあった駿河や遠江の事は憎からず思うておると」

 なんともまあこれが羽柴の戦かと思うた。


「そしてこうも伝えます。今は敵地にてこれしか持ってこれなんだが、信濃の陣ではたらふく用意されておる。何もできずとも羽柴の国は広いゆえいくらでも仕事があると。昨年の長雨で米が取れななかった上にこの戦。さらに信濃が取られて籠城の用意もせねばと、さらに農民は貧しくなっているでありましょう。米を食わせるだけで民は減り、焼くよりも楽に徳川の力を削げると私は思うが皆の存念を聞かせてもらいたい」

 なんともまあ、嫌らしい策だ。

 民は飯を食わせてくれる羽柴と取っていく徳川、一体どちらにつくのであろうか?


 それに三河は除いて旧今川領を狙っておる。

 信長から貰ったばかりの駿河などはどうなるか想像もつかぬ。

 対応を誤れば一揆となって戦どころでなくなるし、懐柔するには米しかないがそれも戦に差し障る。

 この策の結果が見たいという思いでつい口を開いてしまった。

「面白き策でございまする。駿河や遠江であれば武田の旧臣の伝手も使えましょう。そこからも噂を広めてみせまする」

 このわしの言葉に続いて何名かのものが意見を述べる。


「この場では反対はないよう見えるが、父上の名を使いまた大量の米と金を使う策ゆえ一人では決めることはできませぬ。父上に文を出し許しを得てからとなりましょう、それまでは従来の策を進めておこうと思います。まずは南下し松尾と飯田を中心に砦を築いて徳川が信濃に手を出せぬよう守りを固め、父上の文を待ってから改めて皆にお伝えいたします」

 確かに我が息子の言う通り面白き策であった。

 最後まで見られぬのは口惜しいが、まずは領地に戻って兵をまとめねば。


 息子からの文を見た秀吉はひとしきり大笑いしたあと、すぐに進めよと文を返した。

 ここに小一郎も小六も官兵衛もいない事が酷く残念に思えた。

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