第二十九話 賤ヶ岳 父
1582年11月秀吉は馬上の人となった。
柴田勝家は、信長の三男織田信孝と手を組み、反羽柴派といえる勢力を形成していた。
秀吉は、信孝と織田家の実質的な後継者を争う信長の次男信雄と織田の家督を認めることで手を組んで、対立を激化させている。
秀吉は決戦を少しでも有利に運ぶために、勝家の本拠地越前が雪に覆われ、兵を動かせないうちに、勝家の養子勝豊が持つ羽柴の旧領長浜を取り返し、安土城へ三法師を送る約を反故にして岐阜に留め置き続けている信孝から三法師を奪うのを目的として兵を動かしたのだった。
この戦はあっけなく終わる。
柴田勝豊は長浜城を攻撃されると、雪のため勝家の援軍が期待できないこと、長浜城に入って半年も経っておらず領民たちが羽柴の味方をするであろうこと、何より自身が病を得ており十分な指揮を取ることができないことから、降伏を選んだ。
勝豊はそのまま京に送られ療養生活を送ることとなり、北近江は秀吉の手に戻ってきた。
織田信孝も同じであった。
美濃を与えられたものの日が浅く、東美濃の森家、西美濃の稲葉家と羽柴派の存在もあり、柴田の援軍も期待できないとあっては三法師を差し出す以外の選択肢はなかった。
秀吉は三法師を安土に入れると、山崎へと戻っていった。
1582年はこうして終わりを迎えた。
*
1583年二月になるとまた、秀吉は馬上の人となった。
柴田勝家へ味方する滝川一益を攻撃するためである。
一益は本能寺の変の後、東国を失い大きく勢力を落としていたが、秀吉にとって一益は戦上手という印象が強く、勢力を回復させるわけにはいかなかった。
一益は勢力を盛り返すために伊勢で積極的に活動しており、それを阻止しようと秀吉が出陣して来たのであった。
これに対し、兵力差から籠城を選んだ一益は、勝家に出兵を要請、それに答える形で三月ついに勝家が兵三万を率いて南下を開始した。
これに対して秀吉は、織田信雄と蒲生氏郷を一益の抑えとして置き、自身は各地に出兵を要請して勝家との決戦を決意した。
賤ヶ岳の合戦が始まった。
*
秀吉は五万の兵を率いて勝家と睨み合っていた。
中国からは毛利への備えもあって多くの兵を引き抜けなかったが、五万の中には姫路から息子羽柴秀持に率いられた軍も混じっており、山中鹿之介を軍監に真田信繁を加えた三千の兵で出陣してきていた。
木之本に作られた本陣で床几に座っている秀吉の周りには、小一郎、官兵衛、小六がいていつも通りとりとめのない話をしていた。
彼の息子は、ここにはおらず賤ヶ岳にある砦に入って勝家軍の動きを警戒している。
「そうじゃ、そちたちからみて餅丸はどうじゃ?いまだ元服して日が浅いがどう思う?」
秀吉の問に小一郎は怒りを表に出して兄に噛み付いた。
「兄さそんな答えにくいことを官兵衛殿や小六殿に聞くでねえわ」
ただ黒田官兵衛も蜂須賀小六も、いつものことだと思い気にはしていない。
「わしはようやってると思うぞ藤吉郎、本能寺の後は文に助けられたわ」
いつもどおりの調子で蜂須賀小六が答えたから、官兵衛もそれに続いた。
「長浜のことを聞くに戦は得意でないと思うておるのかもしれませんな。ただ長浜の折も今回も信頼するものに任せることができており申す。かつての上月城もそうでありました。よき人に任せる事ができ、その者たちも尽くしております十分かと」
それを聞いて秀吉は上機嫌だ。
「確かにそうじゃな人に任せるのがうまいわ、亡き三位中将様とは違うが、よき家臣残せば名君になろう」
「兄さ、喜びすぎて見てるこっちが恥ずかしくなるわ。とはいえわしも今のところなんの不満もないわ」
それを聞いて秀吉はさらに上機嫌となっていく。
「そうであろう。愚痴ばかりの小一郎がそういうなら相当じゃ」
「愚痴ばかりは兄者のせいじゃ」
どうやら小一郎がへそ曲げてしまったようだ。それを見て小六が話題を変える。
「それよりも藤吉郎、このままでは睨み合ってばかりで埒があかんわ、何か策はあるんか?」
「隙を見せて誘い出す他なさそうじゃの」
それを聞いて官兵衛が付け加えた。
「いずれ三七殿が動きましょう。それを使うはいかがですかな?」
「それがよかろうな、岐阜に兵を向け柴田が動けばすぐに舞い戻ろう、伝令をすぐに送れるよう準備任せるぞ」
*
「親父殿は何を考えておるのか」
それが佐久間玄蕃充盛政の今の心境であった。
羽柴筑前によって、次々と味方は切り崩されている。
この戦は絶対に勝たねばならぬ戦なのだ、負ければ二度と近江の地は踏めまい。
三七様が敵を引き付けくださっている今が最後の機会だ。
ここで大勝し羽柴を散々に痛めつけねば柴田に未来はない。
そうでなければ、三七様は羽柴に囲まれていずれ羽柴に降伏するしかなくなる。
滝川とてそうじゃ、そうなれば次の戦は越前となり、今は兵を出している前田を始めとした連中も敵となるわ。
そうなっては勝てない、盛政が勝家に直訴したのもそのためであった。
「親父殿、わしに羽柴を攻めさせい」
「ならぬわ、わしにはわしの考えがある」
勝家にはいまだ機が来ていないように見えていた。
しかし盛政は今こそ好機と思い譲らない。
「ここで睨み合っても埒があかぬであろうが、筑前が美濃に動いた今が好機じゃ、皆の衆もそう思うであろう」
勝家の手前、積極的に賛成はしないが「まあそれは」であったり「そうではあるが」といった声は多く聞こえてくる。
彼らも今動くべきではないかという思いは少なからずもっているのだ。
その反応をみて勝家は妥協をすることにした。
結果から考えるとこれは勝家の老いであったのかもしれないし盛政への信頼だったのかもしれない。
ただ少なくとも危険な選択であると分かっていながら、押さえつける労を惜しんだのは確かだった。
「仕方がない、じゃが玄蕃よ深追いはするでない」
「分かったわ」
そういって盛政は堂々と軍議の場から去っていった。
*
「なぜじゃなぜ動かぬ、今こそ攻める時であろう、叔父上め耄碌したか」
秀吉が築いた陣は、ひどく簡単に言うと三段構えの陣となっていて余呉湖北東部に堀秀政らの将がいて前の陣、余呉湖の東の砦に高山右近、中川清秀が入って中の陣、そこから東に進んだ街道を南に進めば秀吉が本陣を構え、小一郎がいる後の陣となる。
秀持は余呉湖の南、琵琶湖と余呉湖に挟まれた賤ヶ岳の地で勝家軍が余呉湖を迂回して攻撃するのを防ぐ役割を担っていた。
盛政はこたびの攻撃で、前の陣にいる堀秀政を柴田勝家が抑えている間に、賤ヶ岳に柴田勝政を向かわせて動きを封じ、自身は余呉湖を迂回して中川清秀と高山右近が守る二つの砦を落として、敵将中川清秀を討ち取るという戦果をあげており、彼の思い描いた作戦通り戦況は進んでいる。
中入りは成功し、後は本隊と挟撃すればよい。
後方にわしがおれば親父殿が全軍で攻める形を見せるだけで、前の陣はすぐさま崩壊するに違いない。
今こそ総攻撃をと何度も送ったが、勝家からは撤退せよと届くばかりであった。
秀吉が美濃から舞い戻って来たのは、そんな折であった。
「好機を逸したか撤退する」
盛政は歯ぎしりして悔しがったが、その決断は遅すぎた。
秀吉は追撃を命じる、追撃を命じられた部隊には彼の息子も含まれていた。
そして、それを見た前田利家が離脱するに至り、それに続くように諸将が離脱、敗北を悟った勝家が北ノ庄城へ引き返して賤ヶ岳の戦いは秀吉の勝利で終わった。
*
四月二十四日勝家は妻のお市の方とその娘とともに、北ノ庄城にいた。
賤ヶ岳での敗戦からまだ三日しか経っていないが、前田利家は秀吉に降伏し、北ノ庄の城下は焼かれ城は包囲されている。
「お市様申し訳ございませなんだ、この修理亮、武運拙く一敗地にまみれ、このような仕儀と相成りました。筑前とて大殿の妹君を殺しはいたしませぬ、北ノ庄より退出して下され」
勝家は亡き主の妹に懇願するように言葉を掛ける。
お市はそれを聞いて微かに微笑んで勝家に語りかけた。
「よいのです権六殿、私はもう疲れました。小谷で夫を兄に殺され時も共にと願い出ましたが娘を育ててくれと許されませんでした。その後の十年は私にとってどれほどのものであったかとても言い表せませぬ。娘たちも十分大きくなりました。短い間ではございましたが権六にはようしていただきました。私のわがままではございますが、どうか共に死なせてくださいませ」
「お市様、どうしても落ちていただけませぬか?」
「はい。また夫を失うのは耐えられませぬ」
勝家はそれを聞いてもう一度問うた。
「わしはあちらで、筑前を退治しそこねたこと大殿に腹切ってお詫びするつもりでござる。それでもようございますか?」
「はい。ならばその時も」
「分かり申した。なれば大殿の妹を手に掛けた不忠者として大殿の前に参りまする。誰ぞ姫君を落とせ、お市様申し訳ござりませぬが姫君を落とすのは許してくだされ」
その言葉を最期に勝家はお市とともに消えていった。
こうして勝家は滅び、また信孝も間もなく信雄の手によってこの世を去った。
秀吉は甲州征伐以前の織田領をその手に収め、織田の後継者たる立場を確固たるものとした。
この時は誰もがそう思っていた。
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