第二十二話 本能寺 羽柴
四月上旬に更級と真田源次郎信繁、さらには丹羽五郎左衛門長秀を連れてに長浜に戻った後は大騒ぎだった。
文であらかじめ知らせてはいたが、諏訪から長浜まで兵を率いて戻っても、急げばさほどの日数もかからない。
長浜城での二度目の婚儀は、既に一度婚儀が終わっていることと準備に時間が取れなかったこともあり、内々のものにして規模は小さくした。
規模を大きくして丹羽様を待たせるわけにはいかないという判断もあったようだ。
それでも様々な準備は必要なので、目が回るほど忙しく皆が動き、そして大急ぎで進められていた。
その成果か長浜に戻ってくるなり衣装合わせが行われ、翌日には二度目の婚儀が行われた。
「学問に打ち込んでばかりのおとなしい子と思っておったのに、やはり筑前殿の子でした」
などと言うのは朝日様だった。
「つい最近まで子どもと思うておりましたのに、婚儀とは早いものですね」
と言った後、母上は涙していた。
柊様からは「真田といえば、信玄公を支えた名臣と聞きます。よき縁と思います」と言ってくれたし、あこ様からは「父上や我が夫の真似などせずに、小一郎殿の様にするのですよ」という言葉をもらった。
参加しているのは一族縁者と山中鹿之介のような有力な家臣、そして師匠虎哉宗乙とその門人たちのような極めて近い者たちだけであったが、近しい者に囲まれての婚儀は先の婚儀とはまた違う喜びがあった。
こうして二度目の婚儀も終わり、その後はつかの間の日常を長浜で過ごしたのであった。
*
四月中旬には我が子の婚姻の知らせが、備中高松城を攻める秀吉の許にも届いていた。
「どえりゃあことをしおったわ。怒る気にもならんわ」
いずれ織田の家から娘を願おうかとも考えていた秀吉であったが、これはこれで大殿の好みにもあっていて、下手に織田の娘を望むよりよかったかもしれぬと思っていた。
「これを見てみろ兄さ、柊の心をもう掴んでおるわ」
柊の文には『弓矢の他は何も知らぬと申しておりましたが本当に何も知らぬ娘にて、幼き日の勝蔵を思い出しました。されど弓を持たせれば百発百中、馬を駆けさせれば手足のように操って勝蔵より筋が良いことに驚きました』と書かれていた。
「里では真田の巴様と呼ばれておったそうじゃ、そりゃあ柊殿は気に入るわ、じゃがねねもじゃ」
ねねからの文には『ほんに裏表のない娘にて、嬉しく思ったこと嫌と思うたこと包み隠さず話してくれます。母上様とそばにきては信濃の景色の美しさや、真田での出来事を話してくれて、我が里のように詳しくなってしまいました。戦の話も大好きなようでお前様の話をしてやると目を輝かせて聞いてくれます。早くお前様にも会わせてやりとうございます』と書かれてあった。
「姉さがここまで気にいるとはよき娘なのは間違いなさそうじゃな」
「おおよ、知らぬ娘にて心配したがその必要はなさそうじゃ」
「ではめでたきことじゃ、誰を嫁にするかで悩まずともようなった。後はこの城じゃ」
秀吉のその言葉に、小一郎も思案顔になる。
「何度か攻めたが跳ね返されたわ、力攻めは下策じゃな。かといって兵糧攻めも難しかろう」
「主だったもの呼んで皆で考えてみるか?」
「そうじゃのそれしかあるまい。誰ぞ呼んでまいれ」
しばらくすると次々と家臣が集まって来た。
「皆を呼んだは他でもないわ、城攻めに策はないか?」
様々な意見が発せられては、反対されなかなか方針が決まらない。
ふと秀吉は黒田官兵衛が何も発言していないことに気がついた。
「なんじゃ官兵衛そちらしくもない、何か策はないか」
官兵衛はそういわれると先程から考えておりましたが、できるものか分からずにと前置きした上で皆に問いかけた。
「この城を水攻めすることはできませんか?」
その言葉を聞いて秀吉は地形を思い浮かべる。
彼の頭の中で湖中に沈む高松城の光景が浮かんだ。
「できんこともなさそうじゃ、それにこれから梅雨に入る。何が必要じゃ」
その言葉を合図に水攻めの計画が練られていった。
*
5月上旬に水攻めは実行に移された。
この工事は土嚢を法外な値段で買取るという方法まで使って迅速に進められ、僅か十日ほどで堤防を完成させてしまった。
工事の途中、毛利家が大軍を擁して援軍に来る準備を行っていることを掴んだ秀吉は、すぐさま援軍を願う書状を信長に送った。
毛利家が三万を数える兵で援軍に来たときには、既に高松城は水に沈む城となっていて、毛利軍と川を挟みつつ睨み会いながら、秀吉は水面下で毛利家の外交僧安国寺恵瓊との和平交渉に入っていた。
「小一郎中国でのわしの仕事は終わったわ。後は大殿に任せるわ」
「ほうか、兄さがそう言うならそれでいいわ」
「おおよ、早く餅丸の嫁の顔でも見て、水攻めの話でもしてやりたいわ」
「ではわしは柊にその嫁がどのような失敗をしでかしていたか聞くことにするわ」
「ねねからその話を聞くのも良いかもしれんの」
中国攻めを終えた兄弟の話は遅くまで続いた。
*
五月二十六日羽柴秀持は安土城を訪れ信長への謁見に臨んでいた。
「よう来た大監、此度の来訪いかがした」
「父上よりの文にて大殿に援軍を依頼したと知り、また風聞では大殿自ら大軍を率いて九州まで平らげると聞き及びましてございまする。鎮西に向われる際は末席に加えて頂き、父筑前と親子揃いて馬前を汚す許しを得たく参上仕りました」
「まずは惟任らに先陣申し伝えておる。すぐにわしも続くことになろう。追って指示を出すゆえまずは長浜に戻って兵をまとめるがよい」
「ありがたく、すぐさま長浜に戻りて兵をまとめまする」
「そうするがよい。そうじゃ長浜での婚儀の祝いがまだであったの何か欲しい物はあるか?」
「先日の短刀が薬研藤四郎という名刀であったと聞き及び驚いている次第にございます。これ以上何かと申されましても何も思いつきません」
刀剣の良し悪しなど全く分からず、大殿が持っていたものだからそれなりに良いものなんだろうな程度に思って普通に扱っていたら鹿之介殿に怒られた。
「そうじゃしばしまっておれ」
そういって悪い顔をしながら部屋を出て、持って来た箱に入っていたのは白い茶碗だった。
「白い茶碗ですか?」
「うむ、坊主にもらった白い茶碗じゃ持って帰るがよい」
笑みを浮かべて、箱に入れて渡されたが自分にはただの茶碗にしか見えない。
もしかしたら有名なものではないかとも思ったが、坊主からもらったと聞いたので大したものではなさそうで安心して貰える。
師匠とはたまに寺の縁側で茶を飲むが、師匠が使っているのは長浜の市で二束三文で買った物だ。
自分も長浜城の台所から使っていない湯呑みはないかと言って、もらってきたものでともに茶を楽しんでいる。
茶の湯は礼儀作法として習ったが道具には興味がなかったので、名物とかのことは全く知らないが、師匠のこともあるし大したものではないだろう。
「ありがたく頂戴いたします。それではこれにて」
そういった途端涙が流れた。
今日ここに来たのは、本能寺の変の後に備えて兵を準備する口実をもらいに来たのが目的だった。
なのに別れる時間となったら、二度と会うことができなくなると思い涙が自然と出てしまった。
今ここで全てを言いたくなる。でも言えない。
言えば全てが狂ってしまう。
自分にとっては常に優しい人であった。死んでほしくないと思う。でもできない。
「いかがした餅丸」
自分にかけられた言葉はやはり優しい声色だった。
「申し訳ございませぬ。岐阜にて初めてお会いしてから今日までのこと不意に思い出してつい」
「であるか」
「はい、師と巡り会わせて貰い、弟を頂き、甲州では妻もいただきました。そして今日もまた私には優しく、そう思うと自然と涙が溢れて」
「もうよせ恥ずかしゅうなるわ」
そう言われて、涙を拭い再び口上を始める。
「申し訳ございません。もう大丈夫にございます。それでは失礼仕りまする。西国へのご下知、長浜にてお待ち申しております」
「うむ待っておるがよい」
最後に見た信長様の顔はやはり優しく笑顔であった。
そうして白い茶碗を持って安土から長浜へ戻る。
途中佐和山あたりで暗くなったので、念のため佐和山の城に城下で宿を取ることを伝えると城に招かれた。
寝室に入り一人になると、声が漏れないように着物を顔にかけてまた泣いた。
半兵衛様の時もそうだったそして今日も同じだ。
なぜこの時代に来たばかりの頃は、容易くこのようなことができると思うたのであろうか。
今日自らの意志で恩人を見殺しにしたのだ、容易くできることではなかった。
ただ、それでも自分で父上や豊臣という今は全く存在しないもののために決断し選んだ。
二度と戻れない道に足を踏み入れてしまった、そして自分はひどく恐ろしい人物になってしまったのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます