第十六話 変化

 昨年は織田家にとっても羽柴家にとっても良き一年だったと藤吉郎は思い返していた。

 織田家にとっては長年の仇敵であった伊勢長島の一向一揆がついに鎮圧されて、織田家の本領とも言える尾張に安定がもたらされた。

 長島との最後の戦となった三度目の侵攻では、一揆勢の攻撃によって上様の親族が多数討ち取られはしたが、それでも大きな成果であった。


 羽柴家にとっては、多くの家族が増えた年となった。

 昨年の師走に小一郎と柊殿の間に娘が産まれて柚姫と名付けられた。

 さらに前田のおまつ様が娘を産み、約束通り羽柴家の養女として迎えられる予定となっている。

 前田の家では、羽柴夫婦に名をつけてもらうためこの娘に名前をつけず、ねねの子を縮めて、ねねこ様やねこ様などと呼んでいるらしい。

 まだ産まれたばかりなので、生後丸一年を目処に羽柴家の養女となるために長浜へ来ることにしており、順調にいけば来年の六月あたりとなるだろう。


 そしてなりより、側室に迎えた南殿が昨年の師走に男子を産んだのであった。

 久しく子宝のなかった秀吉にとって、石松と名付けた息子を得たのは大きな喜びで、羽柴家もますます安泰と思ったものであった。


「これからも羽柴家は大きゅうなるわ」

 つい口から独り言が漏れた。

「なんじゃあ兄さ藪から棒に」

 さてこれから退屈しのぎに小一郎と話でもしようかと思い言葉を返そうかとしていたところ、虎之助が駆け込んで来て口上を述べた。


「上様より急使ありて、武田が動いたゆえ兵を率いて参れ、とのよしにございます」

 それを聞いた藤吉郎と小一郎は急ぎ兵の準備に取り掛かった。



 武田四郎勝頼は未だ家臣から十分な信頼を得ているとは言えない状態であった。

 齢三十と若く、何事も偉大な父と比べられていた彼が、家臣たちからの忠誠を得るのに必要だったのは戦功だった。

 実際のところは違ったのかもしれないが、若い彼にとってはそうであったし、決して無能ではない彼は着実に巨大化し続けている織田家に対して、このままでは差が大きくなるばかりとも考えていた。


 今回の戦は織田家の拡張を掣肘するという意味でも、自らを家臣に認めさせる意味でも重要と考えていたから、かつての西上に比する程の兵を集めていたし、武田にとって必勝を期した戦となっていた。



 武田と戦うために信長が用意したのは多数の鉄砲と、そして大量の木材であった。

 精鋭として知られる武田兵と正面から戦わず、柵と槍で相手の足を止め、多数の鉄砲で攻撃する腹積もりだった。

 そのために今いる設楽原では、幾重にも柵によって防御陣地が作られ、その中で徳川勢と合わせて四万を数える兵と五千を数える鉄砲が武田をまちうけていた。

 過剰なまでの防御陣地を築いたのは、最悪恐れをなして武田が撤退してもよいと信長が考えていたからであった。

 それでも十分な勝利であるし、もし戦となったならば、この陣地は必ずや武田を打ち破るであろうとそう思っていた。


 一方武田にとっていや勝頼にとってこの戦は引けぬものとなっていた。

 重臣のたちの中には織田・徳川連合軍の陣容を見て撤退を主張するものもいたが、ここでの撤退は何も得られぬ撤退であり敗北と同じだった。

 確かに強固な陣ではあるが、決して破れぬ陣などない。

 勝頼は武田の精鋭たちであれば、必ずや織田を打ち破れると、父から譲られた兵と将に絶対の信頼を寄せていた。

 勝頼の出した結論は撤退でなく攻撃であった。



 武田の兵たちが織田の陣へと攻めかかり、勝頼が絶対の信を置く精鋭たちが最初に受けた攻撃は音だったといえる。

 武田勢も鉄砲の戦いは経験していたし、その対策も行ってはいたが、五千という大量の鉄砲によって発せられる音は予想をはるかに上回るものだった。


 馬に騎乗する指揮官たちは、馬の暴れるのを止めるために満足な指揮が難しくなっていた。

 武田の足軽たちがいかに精鋭とはいえ、これほどの大音量は恐怖を呼び起こすには十分な音だった。

 目の前の強固な陣を破るためには何度この恐怖を受けねばならぬのか、そう考えるのも仕方のないことであった。


 そして、武田に向けられた攻撃は音だけではない。

 鉄砲は武器である。

 この時代の鉄砲が殺傷能力が低いものとはいえ五千の鉄砲での攻撃である、決して少なくない被害が出るのもまた当然だった。

 恐ろしい大音声、倒れる味方たち、鉄砲の音に消されて聞こえぬ指揮官と友の声、そしてなかなか破れそうにない敵の陣、武田の軍勢が崩れるのに時間はかからなかった。



 戦場に転がるのは武田の死体ばかりで、武田の落日を示すような光景が広がっている。

 武田は二度と立ち直れぬ程の大敗北を喫し領国へ撤退していった。

 織田が得た戦果は高名な大将首だけでも数え切れないほどだった。


「時代は変わったわ」

 藤吉郎は誰に言うでもなくそういった。周りには小一郎や半兵衛、小六といったものたちがいる。

「兄さ確かに鉄砲の威力はとんでもないわ」

 小一郎は興奮した様子でそういった。


「そうじゃがそうではないわ」

「といいますと」

 藤吉郎の禅問答のような答えに半兵衛は思わず聞いていた。

「いつだったか金と数がある織田と一向衆は強いという話をしたことがあったじゃろ」

 一同はそのようなこともあったなと思い返していた。

「こう鉄砲が強いこと分かれば、金がのうては戦などできんわ、わしが稲葉山城でしたような槍だけ持っての戦などできんようになったの」

 半兵衛は藤吉郎の言いたいことに気づき始めていた。


「鉄砲揃えるには金がいる。小さき家でも勝手できたんは戦が安かったからよ、これからは戦するに銭がたんとかかるようになる。今まで国衆やらのご機嫌取ってたのは勝手されると困るからよ。でも戦が高うなれば簡単に勝手もできんようになるわ」

 一同は藤吉郎の話に聞きいっている。


「そいだら大名も動きやすうなるわな。なんせ戦ができるのは金があるものたちだけじゃ。これまでほど皆の機嫌を伺わんでようなる。これからは小さき戦がのうなって、大名同士の大戦の時代となるわ」

 藤吉郎の話を聞いた小一郎がふとわいた疑問を藤吉郎にぶつける。

「ほいだら戦のない世もくるのかのう」

 藤吉郎は思いつくままに答えた。


「それは分からんわ、大名同士で戦が続くやもしれん。じゃがの前より楽にはなったわ。千人に言う事聞かすより百人の方が楽と思わんか」

 小一郎は藤吉郎の答えを聞いて、簡単になったのなら早く誰かが戦のない世を作って欲しい、そう思った。

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