第八話 幸福

 1568年は織田家にとっては上洛を果たした記念すべき年となったが、木下家にとっても喜ばしい年となっていた。

 母ねねの妹やや様の婚儀に続き、藤吉郎の弟小一郎が森家の娘柊と婚儀を行い、藤吉郎夫婦に近い婚儀が重なっただけでなく、藤吉郎の姉ともに嫡男が生まれたからだ。


 父藤吉郎は、姉の子が生まれたことがよほど嬉しかったのか、知らせを聞くとすぐさま姉の元に訪れて子を見に行った。

「姉さの子じゃあ、まんまる太った姉さの子じゃあ。餅丸の力になってくれよ」

 と何度も同じことを話しかけたという。

 それを見た、ともの夫の弥助殿はまんまるから子に万丸(よろずまる)と名付けたらしい。

 叔母のとも様が子を抱いて、母上のもとに訪れた時には、まだ赤ん坊の秀次を見て、絶対に守らねばと改めて思ったものだ。


 そうこうしているうちに、主だったものは皆上洛に付き従っていなくなり、上様が岐阜に戻っても父たちは京にて任務を与えられて岐阜には戻ってこれずに、新たな年を迎えた。


 

 年が明けても父たちは帰ってこなかった。

 ただ父からの手紙は頻繁に送られてきており、毎回屋敷の者たちの話の種となっていた。

『京の町を歩いていると、京童が目について餅丸を思い出してしまう。わしも早く餅丸を抱き上げたい』

 と送ってきたと思えば、間を置かずに文を送って来て

『今日、半兵衛殿と小六殿とともに、京の商家を訪ねたところ、餅丸に土産をと思いつき何がよいかと半兵衛殿聞くと、困り果てた様子で子どもはわかりませぬといったので、小六殿とともに軍師殿にも分からぬことがあったと大笑いした』

 などと書かれた文を送ってくる。


 どの文も女にも読める様にかな文字で、頻繁に連絡をしては京での様子を知らせてくれていた。

 その度に、母上、柊様、あこ様が集まっては、女三人寄ればの諺通り、かしましくなんと送り返そうかと話している。


 この様子からも分かるとおり、小一郎叔父に嫁入りした柊様は、さっそく木下の家に馴染んで母上を姉様姉様と慕っている。

 武家の娘らしく、気が強くはっきりと物を言う性格で、小一郎叔父などはすぐに尻に敷かれたらしいが、おおらかなところが有りながらも芯の強い母上には甘えているようにもみえる。


 柊様に言わせると、木下家は気を使わず過ごしやすいらしい。

 もしかしたら森家との気風の違いで衝突するかもと心配していただけに、馴染んでくれる人で本当によかった。



 正月を過ぎた頃、中村からおばあ様が訪ねてきた。

 同じお祖母様ではあるが、朝日様とは全く違う雰囲気を持っていて、中村のおばあ様も大好きだ。

 朝日様は厳しいけど優しいおばあちゃん、なか様は元気で優しいおばあちゃんといった感じである。

 この頃になると、かなり言葉も話せるようになって、誰かにつきまとってはあれやこれやと話しかけている。

 今まで喋りたくても喋れなかった反動かもしれない。


「藤吉郎に似て口から先に生まれてきたようじゃ。わしゃあ藤吉郎があれやこれやと話すのがえりゃあでな。ねねさはえりゃあ思いしとらんきゃ」

「はい、杉原の母や義姉、最近は柊殿も助けてくれていますし、おまつ様も度々訪ねてくれますゆえ」

「よかったわ、ねねさは藤吉郎なんぞにゃもったいない嫁だでな。餅丸も母を大事にしてやってくれぇなぁ」

 そういって中村のおばあさまは頭を撫でてくれる。


 それを見た母上はとても嬉しそうで、母上もこのお祖母様の事が大好きなのだろうなとなんとなく思った。



 ねねは夜が更けるのを待って、何度目か分からない話を義母なかにしていた。

「母上様、夫藤吉郎も私も母上様に木下の屋敷で暮らして欲しいと思っています。中村の里を離れるのは嫌かもしれませんが一緒に暮らしてくれませんか?」


 何度も聞いた話だけに、もうはぐらかす訳にはいかないと、なかは観念したように口を開いた。

「わしゃあねねさも知ってのとおり学がにゃあもんで」

「そのようなことは」

 咄嗟にそのようなことは関係ありませぬ、と言おうとしたねねに、なかは言葉を被せた。


「最後まで聞いてくりゃあせ」

「はい」

「学がにゃあもんでな武士がどんなもんかもようわかっとらん。だでども藤吉郎の父が戦で足悪うして帰ってきて、どうなるか分からんことだけは知っとる。土をいじるのを藤吉郎は嫌がるかもしれんが、そうなっても中村にかえりゃあ藤吉郎と小一郎ぐらいはなんとか食べていけるわ。侍大将の母が土をいじってるなど迷惑かもしれんが、そうしとけばいつでも帰ってこられる。学のにゃあもんが子にしてやれることなんぞこれ以外に思いつかんもんで、後少しだけ見逃してくりゃあせ」

「母上様」


 ねねは義母の子を思う母としての心情を知って、なかを説得する言葉を失い、それ以上なにも言えなくなった。



 なかのおばあ様が十日程の滞在を終えて中村に帰っていくと、またいつもどおりの日常が戻ってきたかに思われたが、すぐに大きな出来事が二つも起きた。


 ひとつは小一郎の妻柊の妊娠が発覚したのだ。

 柊様は普段どおりに振舞っていたが、母上には体調がよくないように見えたようで、念のため医師に嫁いだ姉に連絡して義兄に診てもらったところ、もしかしたらとお産をよく知る医師を紹介され、子ができていることが分かったのであった。


 すぐさま森家に知らせると、勝蔵様などは稽古姿のまま家を飛び出し、知らせに走らせたものより先に着く始末で、餅丸を見つけても目に入らないとばかりに柊様のもとに駆けていった。

 その様子は木下の家で話題となって、その夜また三人集まってかしましく手紙を書き、父上に報告したものだった。


 父にとっても喜ばしい話ということもあり、すぐに京から二通の文が返ってきた。

 ひとつは父藤吉郎から皆に、もうひとつは叔父小一郎から柊様に宛てたもので、父上の文はすぐに皆の前で開けられた。


『京にてこのようにめでたい話が聞けるとは思っていなかった。岐阜では勝蔵殿が韋駄天となったようだが、京ではいつも兄さは兄さはと愚痴ばかりいう小一郎が、文を見たとたん布袋のごとくなっておる。試しに新しい太刀がほしいのじゃがと言ってみたところ、いつもは無駄遣いをと怒る小一郎が、よいなどと言うもので、張り合いなく結局太刀は買わずじまいとなっておる』

 とそこには書いてあった。


 もう一通の内容は分からない。内容を聞いても柊様は顔を赤くするばかりで、文は柊様が大切そうに部屋に持ち帰り誰にも読ませてはくれなかったからだ。

 

 もう一つの出来事は、柊様のように良いことであったのか分からなかった。

 突然母上の兄、杉原孫兵衛に男子が出来たことが発覚したのである。

 相手はもちろんあこ様でなく、町人の某という娘で、あこ様も母上も朝日様も全く知らないことだった。


 あこ様はこの事を知ってひどく落ち込んでいるようで、この事がわかってから数日の間姿を見せることがなかった。

 その為父藤吉郎に宛てる手紙はいつもの三人でなく、母上と柊様、そして朝日様の三人で書かれたものが送られた。

 父からの手紙もいつもの面白おかしく書かれたものではなくひどく事務的なものだったらしい。

 結局赤子は杉原の長子でもあり、杉原の家で養育することとなった。


 子どもなりにあこ様を励まそうと、あこ様の部屋の前に行ったが、いつも元気なあこ様のすすり泣く声を聞いて何もできずに戻ってきた。

 ふと自分のいない歴史の母上もこのように泣いたのだろうなと思い春は過ぎていった。

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