第五話 美濃
藤吉郎は正月のあの日から、稲葉山城のことばかり考えていた。
「どうじゃ小一郎、兵はいかほど集まりそうじゃ?」
藤吉郎は、弟で後方のことを任している小一郎に聞いてはみるが答えは芳しくない。
「前に兄さが言ってた通り、百も集まりそうにないわ。小六どん(蜂須賀正勝)や将右衛門どん(前野長康)も助けてくれとるんで、蜂須賀の里で三十は集まりそうとはいえ、茂助んところは父親の代からのもの十人ばかし、中村の里じゃ孫平次(中村一氏)ががんばってくれとるがこっちも十ばかし集まればといったところで、わしらについてるもんあわせても駄目だわ。なにより金がないのが痛いわ」
当然だった、今の藤吉郎は領地を持ち軍役を課せられている立場でもなければ、織田家から兵を借りて率いる立場でもない。
兵を養うための金が織田家から出ていなかった。
与力はつけられているが、普請を請け負った際の監督の補助や、土豪である彼らの人脈を調略の際に役立てよといった性格が強く、兵の捻出を期待してのものではない。
義理や恩義と藤吉郎のわずかな給金で賄える兵などたかがしれていた。
*
それでも藤吉郎は信長の元に目通りを願い美濃攻めへの参加を懇願していた。
「ありがたくも、御殿様に頂いております与力。蜂須賀、堀尾の力添えもあり。五十ばかりの手勢ではございまするが、御殿様の御下知賜り美濃攻めの末席に加わることお許し下され」
藤吉郎が平伏し願い出ると、信長の怒声が響く。
「藤吉郎、勝手働きか!」
信長は藤吉郎に兵を集めよなどとは命じていないから、完全に勝手働きであり処罰があっても不思議ではない。
信長は藤吉郎に近づき持っていた扇子で打擲し、藤吉郎の額から血が流れる。
「申し訳ござりませぬ。されどこの藤吉郎、御家の命運のかかった美濃攻めにて殿の御下知賜りたい一心にて、平にご容赦を」
「これ以上の勝手働きは許さぬ肝に銘じよ」
信長は、蜂須賀正勝から藤吉郎の動きは報告受けていたし、餅など送って武功を焚き付けてもいた。
それゆえ藤吉郎が、兵を集めていることを知っていたが止めていない。
たとえわずかな兵とはいえ、信長の懐は全く傷んでいないし、藤吉郎にいつかは兵を任せてみるかとも考えていただけに実際のところ怒ってもいない。
「ありがたき幸せ」
独自に兵を集めたのは、そうしなければ美濃攻めのに参加できないこともあったが、餅を与えられたことは信長から武功を期待され、言外に兵を集める許しを得たと藤吉郎が考えたからでもあった。
藤吉郎は蜂須賀や堀尾などの与力を通じて、自分の動きが信長に流れていることも知っていたから、兵を集めだしてすぐに信長が何も言ってこないことからやはりかとすら思っていた。
信長が怒ったのは他の家臣の手前必要だから行っただけだ。
信長は藤吉郎が演技と分かっていることを知った上で演技をしたし。
藤吉郎は、自分が信長の演技を見抜いていることを信長に知られていることを知っていた。
つまりは他の家臣に見せるための芝居のようなものだった。
ただし、信長が二度は許さんと言ったとおり今回だけだというのも忘れてはいない。
ここで武功を立てねば今までと同じ立場に戻るだろう。
「励め」
信長の言葉は、勝手働きしたものへの言葉としては優しい声色だった。
*
1567年八月ついに信長の元へ、なによりも待っていた書状が届いた。
西美濃三人衆呼ばれる、安藤守就、稲葉良通、氏家直元から人質を送るという内容の書状であった。
既に中美濃を支配下においている織田家にとって、西美濃が降れば、美濃斎藤家の本城である稲葉山城は孤立無援の城となり、いつでも落とせる城となる。
信長は人質を受け取るよう命じ、すぐに動かせる兵を集めると稲葉山城へ兵をすすめた。
その中には藤吉郎が率いる五十の兵も含まれていた。
具足や武具を揃えることなどできるはずもなく、あるものは先祖伝来の具足を、あるものはボロのまま古びた槍だけ持った野盗の集まりのような五十の兵は稲葉山城へ向かうのだった。
*
信長の急襲を受けた斎藤勢は混乱の極みにあった。
突然現れた織田軍に全く対応できずに、稲葉山城を守るべく作られた瑞龍寺砦をすぐさま落とされ、城下の井ノ口も焼かれている。
さらには稲葉山城に急に織田軍が攻めてくることなど考えておらず、詰めている兵も多くはなかったことも不利に働いている。
織田軍が攻めてきたことを知って急いで兵を集めたが、決して多くを集められたわけではなく、集まった兵たちも不利と見て徐々に減っていく有様だった。
そのような稲葉山城の有様をみた信長は、決して急ぐことなく時が経つのを待っていた。
信長は瑞龍寺山にて西美濃三人衆が来るのを待っているのであった。
城を攻めるのは、西美濃三人衆が織田についたのを見て、斎藤勢の士気が落ちきってからでよいと考えており、既に勝利を確信して後はいかに被害を抑えるかのみを考えていた。
藤吉郎が信長のもとへ城攻めを願い出たのはそんな折であった。
「御殿様恐れながら、この藤吉郎に稲葉山城の背後から攻めかかることお許し下され。敵方、士気も低く兵の数も十分ではござりませぬ。背後から攻めかかれば必ず大混乱となり士気は崩壊いたしましょう」
藤吉郎はいまだ武功を上げられていない、これがこたびの戦で功を立てる最後の機会と考えて必死に頼み込む。
「戦がなんたるかも知らぬ下郎風情が賢しげに、無礼じゃ控えよ」
柴田勝家であった。藤吉郎の友である前田又左衛門は口を挟むこともできず困った顔をしている。
「藤吉郎許す。されど織田家の兵、一兵たりとも与えられん。それでよければ好きにするがよい」
「ありがたき幸せにございまする。それでは御免」
藤吉郎はすぐさま駆けていった。
「殿、あのようなことを許しては」
勝家の言葉は不満気で納得できかねると言った表情だ。
「よい、あれは藤吉郎が勝手に集めた兵じゃ、織田家とは関係ない」
信長はそれだけ言うとこれ以上話しかけるなとばかりに手元の報告書を読み始めた。
*
「兄さはいつもそうじゃ、わしに相談もなく勝手なことばかり」
山道を歩く小一郎は愚痴で疲れを紛らわせているようであった。
藤吉郎はいつもの小一郎が始まったと、小一郎の言葉を無視する。
「そいで藤吉郎よいつ攻めるんじゃ」
蜂須賀正勝も小一郎には付き合わず藤吉郎に聞く。
「それよ小六殿、闇雲に攻めてもわずか五十、後ろから攻めたとてすぐに叩き出されるわ。上様は三人衆を待っておる。それに合わせて攻めれば面白かろう」
悪くない策であった。
藤吉郎たちは、堀尾茂助の案内で山道を歩き続けた。
彼の旧主である織田信安は信長に敗れると、斎藤を頼ってその家臣となっている。
信安に付き従ったものの中には、斎藤の不利を見て茂助の縁を頼るものもいて、そのようなものたちの中には稲葉山城に詳しい者がいたのである。
*
藤吉郎が信長の軍を離れ二日、信長の元へ西美濃三人衆が手勢を引き連れて、臣下の礼をとるべく着陣した。
「三人の方、遠路はるばる大儀であった。この上総介百万の兵を得た心地でござる。すぐさま稲葉山へ攻め入って治部めを成敗いたそうぞ」
そう言うと信長は軍馬に跨り、稲葉山城を斎藤治部大輔龍興より奪うべく興瑞龍寺山を下っていく。
信長の家臣たちは、遅れてはならぬと競うように山を下る。その後に続くのは西美濃三人衆の手勢であった。
織田の軍勢が稲葉山城に近づいて、今にも攻め込まんとした時に稲葉山城の後方より突如声があがった。
「織田上総介が家臣、木下藤吉郎稲葉山城に一番乗りじゃ。織田が西美濃三人衆を引き連れて参ったぞ、もはや稲葉山は織田のものじゃ」
長槍に瓢箪を突き刺して、ここにいるぞと振り回し、藤吉郎は大音声で叫び続ける。
前には織田の大軍が、後方からも織田の兵が来たと見て、城兵たちは蜘蛛の子を散らしたように逃げ惑う。
それを見た斎藤龍興も、城は守れぬと見て稲葉山城から逃げ出した。
その日信長は美濃を、藤吉郎は武功を手に入れたのだった。
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