第三話 餅丸

 夕刻も近づいて酒宴もおわり、屋敷に戻ろうとしていた藤吉郎に声をかけるものがいた。


「おお久しいの久太郎殿」

 短い期間ではあったが、藤吉郎の配下として共に働き、上様の目に留まり今は小姓をしている堀久太郎であった。

 年は十五でいまだ幼さの残している顔は美麗という他なく、それに加えて実務面でも優秀と評価されている。

 そのため小姓の中でも信長に気に入られている者と見られており、侍女たちからの人気も高い。


「お久しゅうございます藤吉郎殿。旧交を温めたいところではございますが、殿様がお呼びです。案内いたしますゆえ付いてきてくだされ」

 藤吉郎に仕えていた頃と変わらぬ笑みで、久太郎は要件を伝えた。


「おおすまぬすまぬ、案内よろしくお願い致す」

 何かあったかな?と思ったが殿の名が出たからには付いていくしかない。

 藤吉郎は、久太郎とともに信長のもとへ向かうのだった。



「お殿様、木下藤吉郎お召により参上仕りました」

 口上を述べた後に主を見たが、機嫌は悪くなさそうで、叱責ではなさそうだと安心する。

「おお、藤吉郎よう来た。久太郎はもう良い下がれ」

 堀久太郎が下がり、信長の私室で二人きりとなる。

 机の上には何枚かの書類が置いてある。印や筆などはないから藤吉郎が来るまでの間、報告書に目を通していたのであろう。


 藤吉郎は信長以上に情報を重視するものを知らなかったし、信長以上に家中や軍や兵糧や金のことを知っているものを知らなかった。

 信長は、家臣に相談せず自分ですべてを決める人物であるがゆえに、すべてを知っている必要があると考えているようであった。


「藤吉郎聞いたぞ。めでたきことよ」

 やはり藤吉郎に子が生まれたことも知っていたようだ。

「ありがたく存じまする」

 主君がわざわざ祝いの言葉を言うためにと藤吉郎は考えて、目頭があつくなるのを感じた。

「口取り任す」

 そう言って信長は立ち上がる。

「ありがたく……」

 藤吉郎はそれ以上言葉を続けることができなかった。


 織田信長は頭の回転がよいこともあって、極端に言葉を省略することが多い。

 彼にとってみれば、その程度のことも分からぬのであれば、自分に仕える程の者でないと思っていた。

 藤吉郎にとっては長年近くで仕えてきた信長の言葉であり、また藤吉郎自身の頭の回転の速さもあって、その言葉の意味を間違うようなことはない。

 彼は藤吉郎にわしも見るゆえ子の元に案内せよと言っている。なんと名誉なことであろうか。


 馬を引く頃には、涙で前が見えなくなっていたが、何度も拭って必死に走る。

 小者のころより何度もこうして殿の馬を引いて走ってきた。

 ただ涙を拭いながら走るのは初めてのことだった。


 

 屋敷につくなり、藤吉郎がお待ちくだされと止めるものも構わず信長は足早に歩き、藤吉郎の子はどこじゃとばかりに進んでいく。

 藤吉郎は手早く馬を繋ぎ止めて、追いすがるようにこちらでございまするとなんとか案内をする。


 瞬く間にねねと藤吉郎の子がいる部屋に着くと、「入るぞ」と声を掛けすぐさまふすまを開いて、平伏しようとするねねに「そのままでよい」と制する。

 親族たちは家路につき、部屋にはねねと赤子の他には、医師と弟の小一郎がいるだけであった。

 医師と小一郎の二人はもちろん平伏している。


 信長は部屋の中を見渡して、眠っている白い産着を着た赤子を見つけると、ずんずんと近づいてまじまじと見たあと、普段は誰にも見せない優しそうな顔で赤子に話しかける。


「おお、これが藤吉郎とねねの子か、ねねに似たのかまっしろじゃのう。それにたっぷりと肥えて福々しい。そこはどちらにも似てないのう。しっかし本当に肥えておる。男子ゆえ織田の臣になるのじゃから、三河の真似などせず、上総介の真似をせよわかったか」

そう言葉の分からぬ赤子に言うと、ねねの方を向き優しく言葉をかける。


「ねね大儀であった。しかしこやつわしが話しているのに寝たままで全く話を聞かん。わしの話を聞かんのは藤吉郎と一緒だわ、ねねの子ゆえ心配ないが、わしの元にくるまでには上総介の話を聞くようになってもらわねば困る、ねね頼んだぞ」

 ねねも涙を流し「懸命に育てまする」とだけなんとか答えた。


 それを見てまた泣いている藤吉郎に対しても、信長は言葉を掛けた。

「そうじゃ藤吉郎、うぬの子は白くて丸い、それに今日は正月じゃ。餅じゃ餅丸を名乗らせよ。めでたき名で響きも良い。どうじゃ藤吉郎わしの方が権六などより上であろう」

 藤吉郎は涙で言葉がつまり、ただただ平伏するのみだった、主君に子の名を賜るなどこれほどの名誉があろうか。

 それに餅丸、何ともよい名じゃ。


「藤吉郎、ねね、祝いじゃ、先程の酒宴で三左のついておった餅を後で送らせる。天下の豪傑がついた餅ゆえ武運も開けよう。藤吉郎帰りはよい、久太郎に申し付けておる。ねねと餅丸と過ごすがよい」


 三左とは、森三左衛門可成のことで、かつて美濃の土岐氏に仕えて主家が滅び信長に仕えてからは、常に戦場に付き従い武功を重ねてきた。

 槍の名手としても知られており、幾多の大将首を取ってきた織田家有数の豪傑であった。


 信長は、武功のないことに藤吉郎が悩んでいることも知っており励ますために餅を送ったのであろう。

 そのような心遣いのなんとありがたきことか。

 来た時と同じく信長は足早に帰っていったが、藤吉郎は又左と話した遮二無二という言葉を自然と思い出していた。


「お前さま」

 信長が去ってしばらく経ってから、やっとねねが言葉を発した。

「ねねよ。今日のことは終生忘れられぬわ。餅丸じゃ殿が名付けてくださった。餅丸じゃ」

 そう言ってまた藤吉郎は涙を流す。

「ほんに木下の家末代までの」

 ねねもまたそれ以上声にならない。

 寝ている間に名が決まった赤子はいまだ眠っていた。

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