第二話 酒宴
藤吉郎とねねの子が、信じられないくらいの大声で泣いて、疲れ果てて眠ってしまってから数刻の時間が経っている。
藤吉郎の屋敷に集まった親族たちも、一人また一人と家路につき日常へと戻っていった。
ただ今日が日常かというと少し違う、なぜなら今日は1567年の正月であるからだ。
ここ小牧の城下でも、笛の音や太鼓の音、餅をつく男たちの掛け声といった正月を祝う音に溢れている。
藤吉郎にとっては、小牧の町全体が彼の嫡男誕生を祝ってるように思えて、自然と笑みがこぼれてしまう。
今藤吉郎はだらしない顔で、彼が仕える小牧の城に向かって歩いているのであった。
尾張の支配者である織田上総介信長の元へ、彼が行う新年の祝いに参加するために。
*
藤吉郎が小牧の城に到着した頃、続々と織田家家臣が集まり始めているという状況であった。
藤吉郎に嫡男が生まれた事は、もうすでに広まっているようで、何人かに祝いの言葉をかけられた程だ。
普段は滅多に話すこともない、織田家重臣の森三左衛門可成様からも慶事となれば別なのか、笑みを浮かべて祝いの言葉を送ってくれた。
前田又左衛門は、温和で律義者としても知られているから顔も広い、そこから広まったのだろうと藤吉郎は考えていた。
実際はややと藤吉郎の二人が大声で走り回った事が、小牧で話題になったのが主な原因であったが、知らない方が幸せだろう。
「野猿めが子を産んだとな」
藤吉郎にはそれが柴田権六勝家の声だとすぐに分かった。
柴田権六は先代信秀からの重臣で、巨大な体躯に髭を生やしたいかにも武辺者といった容姿の通り、数々の武功を挙げた織田家随一と言ってもいい武人だ。
奉行としても成果を出している織田家の重臣中の重臣であった。
そんな彼は武功が全くなく、信長の近くで調略や奉行をしてきた藤吉郎をへつらい者と嫌っており、見下してもいた。
「そうじゃ藤吉郎、わしが名付けてやる。野猿の子ゆえ猿丸じゃ、それとも泥にまみれた農民の子ゆえ泥丸が良いかもしれぬのう」
勝家の周りにいた者たちからの笑い声が聞こえる。
「おくやまにと詠んだ大夫の如く教養のある子になって欲しいものですなぁ、それに武士の子なれば戦場で泥にまみれるのが本分。権六様ありがたく存じまする」
いつもであればこのようなことを言われれば頭に血がのぼるものだが 、幸せで満たされている藤吉郎は勝家の言葉など気にもならない。
それゆえ藤吉郎が怒る様子も見せず答えると、恥をかかされたと感じ、返ってきた言葉も彼を小馬鹿にしていると感じさせるものであったから、勝家の顔は怒りで朱に染まることとなった。
*
しばらくして家臣たちが全員集まると酒宴の場に通される。
小牧の城は今まで本拠としていた清洲の城とは違い、美濃を攻めるのに便が良いからという理由で本拠にしているだけで城下も城も規模は大きくない。
今回の酒宴の場として使われている部屋も、藤吉郎が小間使いをしているときにみた、清洲の酒宴で使われた部屋より手狭であった。
それもあってかふすまは取り外され、庭に面した酒宴の間からは、手狭だが見事な庭園とそこで筋骨隆々の男が餅をつく姿が見えるようにされていて、狭さを感じさせないように工夫されていた。
藤吉郎は末席であるから庭に近く、当然寒さを感じるはずであったが、ふんだんに火や炭がたかれており、寒さを感じることはなかった。
主である信長はすでに席についており、家臣たちが席につくと口上もなしに「皆飲め」とだけ言って酒宴が始まった。
大大名となった織田家ならともかく、当時はまだ正月の祝いといっても、堅苦しい作法などはほとんどなかった。
飲めの言葉だけで自由に飲みはじめた家臣たちを眺めながら、折を見てそれぞれの名を呼び信長自ら杯に酒を注ぐ、それだけが決まりだった。
酒に強いとは言えない藤吉郎は杯を舐める程度に酒を楽しみ、織田家の家臣たちを眺めていた、藤吉郎の見るところ家臣たちの顔は皆一様に明るい。
当然であろうなとも思う、長らく続いた美濃への侵攻は大詰めを迎えつつあり、織田家への寝返りも日に日に増えている。
いかに稲葉山城が堅城であろうとも、来年の正月までには美濃は織田家のものとなっているはずだ。
さらに、京で暗殺された将軍義輝公の弟が、上洛のために織田家を頼っていることも、彼らに自信を与えていた。
(おのこのためにも、ねねのためにもわしも励まねばな、そのためには武功よな)
席が示すとおり藤吉郎は末席である。
勝家たちに武功もないへつらい者と笑われているが、武功のないことは全くの事実であり、彼の悩みの種となっていた。
ねねの家の縁で蜂須賀正勝を、調略の功として堀尾茂助を与力としてもらっているが、故郷の中村の縁をあわせても百の兵を揃えることもできないだろう。
そのような少ない手勢で、腕力のない戦の素人がどのように武功を立てたものかと悩み続けてるのであった。
「なんじゃ藤吉郎難しい顔をして」
気がつけば前田又左衛門が近くにおり、藤吉郎に話しかけてきた。
もう席もなにもあったものではなく、いつの間にか土俵が作られており。
「流石は、内蔵助じゃ」
「次はわしじゃ」
などと、相撲を取り始めたものがいたり、上半身裸で分捕った杵を大上段にして、餅はこうつくんじゃとばかりに振り回したりと皆羽目を外している。
「いやなに又左よ、わしは又左のようにはいかぬゆえ、どのように武功を立てればよいのか考えておったのじゃ」
「藤吉郎よ武功の立て方なんぞ、わしにもわからんぞ、分かっておれば今頃まつに山程着物を買っておるわ」
「それもそうよのう」
そう簡単に武功をたてることなど出来はしない事は百も承知で、又左の言葉に別段気落ちすることもなかった。
「ただの藤吉郎、一つだけわかることがあっての」
「なんと又左殿、そんなものがあるのか」
「おおよあるぞ、それはの遮二無二じゃ、そうでなければ武功は立てられん。子も生まれたんじゃ今まで以上に遮二無二に働けよう、そうすれば上様の目に留まり、いずれ武功も認められるわ」
藤吉郎にとっては目から鱗であった。今までどのようにどのようにと考えていたが、結局は今まで以上に懸命に働く、それ以外ないと教えられた気がした。
「ありがたく存じまする。流石は又左殿じゃ、この藤吉郎遮二無二働きまする」
藤吉郎は、改めて遮二無二働こうと心に誓った。
織田家に仕官がかなった日のことを思い出して、その日に戻ったような気分であった。
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