太閤二代記
斑クモ猫
第一章 夢幻
第一話 転生
1567年正月、尾張の国小牧にある屋敷では、あと少しで日が昇るという時間でありながら、喜びに包まれていた。
結婚をして五年、なかなか子宝に恵まれなかった夫婦に初めての子が生まれたからであった。
決して広くはない屋敷に、夫婦に極近い親族が集まっており、無事子が生まれたことに皆が安堵している中、当の赤ん坊は混乱の渦中にいた。
(体が動かせない、なにか事故にでもあったのか?目はぼやけて見えないし、何も思い出せない)
そのように混乱していると、体が無意識に反応して大きな声で泣き始めた。
その声を聞いて女性が声をかけてくる。
「ねねさに似りゃよかったのに、あのたわけに似て声ができゃあわ、他のところはねねさに似るだぞ」
そう女性が言って、苦労したことがわかる硬い手であやすと、赤ん坊は少しづつ落ち着きを取り戻したのか泣き声も小さくなっていく。
少なくとも今すぐ危険な場所ではなさそうだ。
先程かけられた言葉は、パニックになっていてよく聞きとれなかったが、少し冷静になると耳は聞こえていることに気がついた。
(周りに人が結構いるようだ、話していることよく聞いて何が起きているか確かめないと)
そう思い周りの会話を聞くことに意識を集中した。
*
赤ん坊を産んだ女性の妹であるややは、未だ幼いこともあり、赤ん坊が生まれるまで起きていることが出来ずに先程まで夢の中にいた。
彼女が目を覚ましたのは、近くで大きな声で泣かれたからで、まだぼんやりとしていた彼女の耳に義兄の声が聞こえた。
周りの静止も聞かず、彼女はおもむろに外に向かうと、外で走り回りながら叫んでいる小男とともに叫び始める。
「おのこじゃ、おのこじゃ、ねねは三国一の女房じゃ」
「おのこじゃ、おのこじゃ、ねねねぇは三国一の女房じゃ」
どうやら小男が遊んでいるように見えた様で、楽しそうに小男の真似をしている。
「やや、なんとはしたない」
どこか諦めた様な声色で、壮年の女は小さく呟いた。
元々彼女は、この夫婦の結婚には反対で、妹夫婦に説得されて渋々賛成したものの、心の中では認めることはできていなかった。
ややと共に、子のなかった妹の家に養女として出した娘が、小男を連れて来た時の事は未だに忘れる事ができない。
親の贔屓目を差し引いても、聡明で容姿の整った娘だと思っていた。
そんな娘が清洲の殿様の元で小姓の真似事の様な事をしているという、名字もない家の出身で、戦場で活躍できそうにもない小男との婚姻をすると言ってきた時は言葉を失った。
そのような婚儀は娘を不幸にするだけだと考えるのは親として当然であった。
ただ、父となった小男のはしゃぎ様と、子を産んだ娘が、母になったことを噛みしめるように幸せそうな顔しているを見てしまうと違う考えが浮かんでくる。
はしたなく走り回る娘をたしなめること以外のことも、諦めるしかないなと彼女は思ってしまっていた。
*
「そうじゃ、又左じゃ、又左におのこで三国一と伝えねば、ややついてまいれ」
小男は、ねじが切れたかのように急に立ち止まり、大きな声でややに命じる。
「又左じゃ、又左じゃ、又左はおのこで三国一じゃ」
急に立ち止まった小男を追い越してから、小男の命を聞いた幼女は、間違っているかいないか判断のつきかねることを叫びながら走り回る。
「又左じゃ、又左じゃ、又左におのこで三国一じゃ」
幼女とともに、小男は又左の屋敷に向かって走り出した。
夫婦が清洲に住んでいた頃、隣同士と言ってもいい場所に住んでいた又左こと前田又左衛門利家の夫婦とは仲がよく、家族ぐるみの付き合いをしていた。
小男がまだ独り身の頃からの付き合いで、あまりに貧乏で食うに困っていたときには飯を食わしてもらったり、又左衛門が仕事を失い食うに困ったときには僅かながらではあったが援助したりと共に支えあった、小男にとって唯一の友と呼べる存在だ。
二人の妻も姉妹のように仲がいい。
小牧に移り住む事となっても、どちらからともなく近くに屋敷を構えて、清洲の頃と変わらぬ付き合いが続いている。
又左衛門の家とはそのような関係であったから、幼女を伴っているとはいえ二人がともに走っていることもあり、又左衛門の屋敷にはすぐに着いた。
「又左、わしじゃ、藤吉郎じゃ、ねねがおのこで三国一なんじゃ」
「なんじゃ藤吉郎、朝っぱらから」
この又左衛門という男、よほど人がいいのか、朝も早くから屋敷に乗り込んで来て大騒ぎする二人にも、怒りの色は見えない。
「だから、ねねがおのこで三国一というておる」
「又左もねねねぇも、おのこで三国一じゃ」
「ふたりして訳の分からぬことを……ん、そうか。ねね殿がおのこを産んだのか、それはめでたい」
小男は少し気の短いところがあるのだろうか、自らの言葉が伝わらないことに怒る素振りを見せていたが、又左衛門に伝わったことがわかると、すぐに人好きのする顔に戻っていく。
「だからさっきからそう言っておろうが、又左よついてまいれ、三国一を見せてやる」
「まいれ、まいれー」
「ははは、三国一か。よし藤吉郎よ案内せい。まつとねね殿どちらが三国一か、わしが見極めよう」
藤吉郎は、はたと気がついた様子を見せた。
今の今まで又左に伝えねばばかりで、まつの事は頭になかったからであった。
「そうじゃ、おまつ殿もじゃ、おまつ殿にも三国一を見てもらい見極めてもらわねば」
「ははは、それは卑怯だぞ藤吉郎。まつを連れて行けばまつは自分が三国一とは言えまい、わしがまつを三国一と言っても、藤吉郎とまつでわしは多勢に無勢、ねね殿が三国一となろう。とはいえ今はねね殿じゃ。まつにもぜひ三国一を見せてくれ」
結局は四人で、おのこじゃ、三国一じゃと言いながら、藤吉郎の屋敷に戻るのであった。
*
周りの話に耳を傾けていると、段々と現状が理解できてきた。
目はあいかわらずぼんやりとしか見えないし、体も動かせないままではあったが、耳は十分に聞こえている。
少し分からない言葉もあるが、たいていの言葉は彼の知る言葉で理解できた。
(つまり今の状態は物語の様に転生をして、赤ん坊になっているってことか?
信じられないことだが、体が動かせないのや目がぼんやりしか見えないのはそのせいと考えると納得がいく。
ただ問題なのは自分の名前も、年も、何をして来たのかも全く思い出せないことだ。
記憶喪失かとも思ったが、それを考えるよりもよく出てくる名前がどうしても気になってしまう)
あれこれ考えていると、何人かの騒がしい足音がして、すぐにふすまの開く音がする。
「又左殿、おまつ殿よく見てくだされ、おのこですぞ、三国一のねねですぞ」
「おう、藤吉郎。確かにおのこじゃ、ねね殿は三国一じゃ」
「まぁ確かに。おのこですね。ねね様は三国一です」
(今、藤吉郎って、それにねね、又左におまつって……)
信じたくはないがすごい状況に陥ってる気がする。
冷静になれと心で唱えて、今まで聞いたことを思い出していく。
(つまりはここまでの状況を整理すると、歴史上存在しなかった豊臣秀吉と正室のねねの嫡男としてこれから戦国時代を生きるってことなのか?)
「オギャーー」
とりあえず泣いた。今までで一番大きな声で、思い切り。驚いて何人もの人があやすが泣き止むことなく。
そして疲れ果て、いつの間にか眠ってしまった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます