第28話 謎の急病歴

 精六さんと結婚して7年の間に、私は二度、救急外来に行ったことがある。


一度目は2020年・冬。朝、洗面所で顔を洗うため蛇口に手をかけた途端に

ゾワゾワゾワと悪寒が走り、下腹部がみるみるうちに痛くなっていった。

足に力が入らなくなり、これはちょっと座っていたら治まる度合のものでは

なさそうだと思い、リビングにいる精六さんに助けを求めた。


それまで風邪ひとつ引いたことがない妻が廊下で倒れているのを見て、驚きのあまり

声を失う夫。

私はその日、ひとり事務の日だったので、病院に行くにしても、遅刻するにしても

早く会社に連絡を入れないと!と焦っていた。

そう思うのに体中が痛みに占領されて動くこともできず、精六さんに「社長に・・・社長に電話して・・・!!」と叫ぶようにお願いした。


とにかく、痛い。なんだこれは。腸じゃない、気がする。しいていえば、子宮。

子宮頸がんの高度異形成で、数か月後に子宮を取ることは決まっていたが、そんな

すぐに悪さをする段階ではないという説明だったので子宮でも、無い・・・?

精六さんが私のスマホから会社に連絡を入れて、彼がリビングに戻ってきたときには、

私の全身は汗びっしょり、意識も途絶える手前であった。


救急車を呼んでもらおう、そう思った。痛みのピークが今なのか、さらに高い波が

来るのかも全く予想できない。


「精六さ、ごめ、救急し・・・」


「よし!」そう言って精六さんはリビングから出て行ってしまった。え?なに。

ドタバタと階段を駆けあがり、降りてきた精六さんの腕に私のコートが

抱きかかえられている。それをいそいそと私に着せる彼。

「待って!車まで歩けないかも!」と言ってみたが

「だいじょうぶや!がんばれ!」と言う。


だめだ、これは救急車なんか微塵も考えてない顔だ。私が気を失うくらいでないと

救急車は呼ばないんだろう。でも、たしかに、ゆっくりでも歩けるなら救急車は

呼ばないで正解なのかもしれない・・・?


とにかく痛いので、私は後部座席でイタイイタイと叫んでいたのだが、精六さんが

スマホをスピーカーモードにして誰かと話し始めた。

どうやら、病院代表番号のようだ。

「今から妻を救急に連れて行くので診てやってください」

夫の愛に感動はしていたが、痛いながらも頭の中は意外に冷静で

(救急車ちゃうし、アカンて・・・。ていうか、なぜ、そんな遠くの病院に・・・)

と少し絶望していた。

一番近い病院は近所の信号を右折して10分弱だったのだが、左に曲がった時点で

この痛みに30分以上耐える覚悟を決めねばならなかった。


案の定、というか、精六さんは救急外来の、救急車を停めるであろう場所に車を

乗り入れようとしたので「あかん!ちゃう!大丈夫!私、歩くから!」と

必死に止めた。まあ、私が止めずとも病院の方が誘導してくださっただろうが。

そのやり取りがあって、車から降りようとしたとき、急に痛みが引いた。

「・・・あれ??」という感じ。

「精六さん・・・、なんでか痛くなくなっちゃったよ」


結局、9時からの通常外来に通され、パジャマの上にコートを着てきたくらいなので「マジで痛かったんです」というのはお医者さんにも信じてもらえたが、

レントゲンとエコー(だったと思う)をみてもらったが「異常なし」であった。

これがひとつめ。結局原因はわからずじまいだがそれ以降痛くなったことは無い。


ふたつめは、今年一月下旬。

夜明け前、午前5時過ぎ。


目を回して、起きた。


表現力が乏しくてこんな言い方しかできないのだが、本当だからしょうがない。


今まで寝ていたのに、まるで「ぐるぐるバット」のあとのようだ。

まっすぐ歩けない。立てるけれど壁に激突する。

とりあえず、トイレに行こう。階段をおりている間にマシになるかもしれない、

と思った私がアホだった。


なんとかトイレまでは辿り着けたが、もうその時にはグルングルンだ。

目が回るというより、部屋が回っている。一点が見つめられない。

これはさすがにヤバイ。「クラッ」とか「フラッ」どころではない。

壁も床も冷蔵庫もテレビも回っている。痛みは無い。脳の疾患かもしれない。

顔を触ってみる。手を両手ともグゥパァしてみる。感覚が無いところがないか

自分で探してみる。ない。でも、むーりー。まーわーるーーーーーー。


二階で精六さんが起きた気配がした。

一階で私がうめいていた声が聴こえたわけではなく、それでも「なんか、変や」

と思ったらしい。

倒れている妻を見つけ、ビックリする精六さんパート2。

心配かけたくないのに、自分ではどうしようもなかった。

まわるまわる高速ジェットメリーゴーラウンド。


漫画やアニメ等で目を回して、気を失って、気が付けば保健室で目覚める主人公

(主にヒロイン)というような場面があるけども、

この時の私は目を閉じても世界が回っていたので気持ち悪いわ、

同じ姿勢でいると吐き気が襲ってくるわで、失神できそうにも無かったのだ。


「せ、精六さん、脳のなんかかもしれへんし、救急し・・」


「「よし!」そう言って精六さんはリビングから出て行ってしまった。

嗚呼・・・違う。おねがい、行かないで、精六さん。

二度目の正直です、私、車まで歩けそうにないの。ほんま、無理・・


すると精六さんは、キッチンにある45×180㎝のキッチンマットを私の前に敷いた。

そして言った。



「乗れ」。



待って。マジで待って精六さん。

目が回ってる私でもわかる。なんの法則かは知らないが、これに乗って

私は玄関まで引きずられて“運ばれる”のだ。

重いものを運ぶときのライフハック・・・って、おーーーい(おいでやすこがの小田風)。


だいたいウチは築20数年のメソネットゆえ、バリアフリーではなくリビングと廊下の敷居も2センチほどの段差があるのだ。その関所をうまく越えられるとは思えない。

それに、子どもじゃないんだから倒れている成人女性の体重(やや過多)をマットに

乗せて引きずれるのか。そして玄関に着いたその先はどうなるのか。

どうしてとっとと気を失っておかなかったのかと悔やまれる。


じゃあ、と精六さんが二階へ駆けあがろうとするので、またそれを制止した。

この人、布団を降ろしてくるつもりだ。キッチンマットでは越えられないかもと

気づいて。


「精六さん・・・立つよ。私、歩くよ・・・」


気を失っていない以上、そして壁に激突しながらでも自立できる以上、私は救急車には乗れないのだ。たしかに、気持ち悪いだけでどうやら命の危険は無さそうだ。たぶん。


しかし、車で運ばれている間がこれまためちゃくちゃ気持ちが悪い。

世界が回っているなかを時折揺れたり曲がったりするこの乗り物の気持ち悪いこと。

止めてほしいが、止まっても目が回るし、それなら早く病院に着いたほうが身のためだ。

それからさらに試練は続き、病院の駐車場に着いてから精六さんがエレベーターホールに並んでいる車椅子を取ってきてくれたのだが、それも気持ち悪い。

なにしろ「揺れオン揺れ」が耐えがたい苦痛であった。

口元にタオルを当てて、ずーっと「おえええええ」と文字にできるような言葉を

口にしていた。


救急外来に着き、精六さんに問診票を書いてもらい、その間も目は回っている。

「救急車を呼んでくれなかった」という少々の恨みはあったが、精六さんも

遅刻確定で病院まで運んで来てくれたのだ。感謝しかない。

ただ「ありがとう」の「あ」を言うのもしんどい状態だったので、ただ黙っていた。

一回目の腹痛のときはケロっと痛みが消えてしまったが、今回は原因が特定できそう

だというのが救いのような気がしていた。


インフルエンザが流行していた時だったので救急外来はさぞ混んでいるだろうと

思っていたが、待合室には先に来ていた一組だけだった。


まず救急外来のドクターが人差し指をたてて「これを目で追ってください」と言う。

左、右、上、下も。次に舌を出すように言われ、今度は舌で追ってくださいと言う。

手の握り返し、足の押し返しを確認され、次にCT検査室へ。


そう、そこまでやったのに、だ。


結果「異状なし」。

酔い止めを少し混ぜた点滴を40分ほどしてもらってる間にグルングルンは

フワフワへと変遷し、会計窓口の職員さんに名前を呼ばれる頃には収まっていた。

「脳ではなさそうなので、おうちの近所の耳鼻咽喉科で診てもらってください」と

言われたので、「脳には異状なし」の結果を携えて耳鼻科に行ったのだが

「眼振の名残も無く、メニエールと診断できるほどの聴覚の低下も見られない」とのことで、こちらも「異状なし」であった。


ほっとするところではあるのだが、「じゃあ、アレ、なんやったん」である。


今回は一度目の腹痛と違い“後遺症”がある。

目が「回りそう」な、エア眩暈が三日に一度くらいある。

「あ、くる」という感覚が押し寄せてくるのに実際は回らない。

あと、その眩暈から数週間後の私の誕生日に精六さんがUSJのチケットを取って

くれていたのだが、ジェットコースターがまったくダメになっていた。

もとより苦手だったのだが、それは高いところや速さが「こわいから」だったのが、

「酔う」ようになってしまったのだ。

ただ、いろんなもので検証した結果「落下する」のが受け付けなくなっただけで

車に乗るとかトロッコで移動するとかは大丈夫なことがわかった。

そうなると、やはり耳からキてるんじゃないかと思うのだが・・・異状なしなんですと。どないやねん。


どちらの時も救急車を呼ばなかった精六さん。

そして結果的にそれは正しい判断で、当然結果は大事ではあるが

これから先、一刻を争うヤバさを感じたときには相当な演技力が自分に求められる。

もしくは、台車を買おうか迷っている。

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