第12話 倒れるときは共倒れ
その日、私たちは京都にいた。
川端通にあるコインパーキングに車を停めて、厳しすぎるほどの残暑のなか、
南座横の信号を待っている。
四条大橋をゆっくり渡りながら鴨川に目をやると、小ぶりの鴨が一匹、ゆるい流れに逆らって泳いでいる。きっと親や兄弟とはぐれたのだろう。
数歩進むあいだ視線をはずして、また川を見る。泳げない私に言われたくもない
だろうが、もはや岸に上がって地道に歩いたほうが速いだろうとアドバイスを入れ
たくなるほど、あっぷあっぷしている。同じ場所に停滞しながら、さきほどは流れに負けて体が回転して少し川下に進んでしまった。
私たちが大橋を渡り切る頃には子鴨の存在も薄れていたが、もしかしたらあの子鴨は迷子だとバレたくなくて必死に格好をつけていただけかもしれないなと思った。
その日は平日だったが人通りも多く、どんくさい歩き方の私は精六さんとはぐれないように手を繋ぎなおした。
いまから数日前、精六さんの趣味である車の大会が終わった。
今夜は2人で「おつかれさん会」をするために、何回か行ったことのある焼肉屋に
向かっている。ホルモンと最後の〆の蕎麦がとても旨い。
ただ店の予約時間よりずいぶん早く着いてしまったので、ウィンドウショッピングを兼ねて高島屋に寄りたいと私が提案して四条まで歩いて来たのだ。
先述の車の大会は年に一度のお祭りのようなもので、結婚してからはずっと私も
帯同している。
ちなみに、私は車のことはわからない。は、と書いたがタイヤのこともオイルのこともわからない。いわんや競技においてをや。
車好きの夫と7年も住んでいるのだから、用語や車の仕組みなども会話のなかで自然と覚えるのかと思いきや、ものの見事にわからずじまい。わからない歴更新中だ。
こうなると、あの「聞き流しているだけでいつの間にか自然と英語が口をついて出てくる」とかいう学習CDは私には完全不向きなのだろう。
少なくとも聞き流していてはいけないということがわかった。
彼が毎日ほど見ているユーチューブチャンネルも、この数年で私が覚えたことと
いえば、最初に流れる音楽と、この人が群馬県の人らしいということだけだ。
この人が乗っている車の車種も知らないし、精六さんには黙っているが彼の車種も
クイズの3択で出されたら間違える可能性大だ。それくらい、興味がない。
興味が無いのになぜ共に行くのかと問われれば、精六さんには興味があるからだ。
犬は自分で勝手にドッグランに出かけて行かないが、感覚的には非常に似ている。
ドッグランに連れて行けば「ウチの子」が一番輝いて見えるものではないか。
「いいコースですねぇ。特にあのヘアピンカーブ!(犬の)気持ちがわかってらっしゃる!」とランコースを絶賛する飼い主は全体の何パーセントくらい存在するのか。
私は精六さんを飼っているつもりも、私がサーキットに連れて行ってあげてるわけ
でもないのだが、怪我をしないか、人を怪我させたりしないかを観察しつつ、
「ウチの子」が全力で楽しんでいるその時間を共有するためだけについて行くのだ。
(しかしここで決定的に違うのは、私は犬も猫も好きなので犬種・猫種はすぐ覚える。たとえ話がうまく浮かばなかった)
ルールや審査ポイントがわかればもっと楽しいのだろうが、覚えられないものは
仕方ない。精六さんが「いまの、どうやった?」と訊いてきたらそれがたとえ車仲間からイケてない走りだったとしても「よかったよ」と応えるのが私のポジションというものだろう。
日本一話が逸れるエッセイコンテストというものががあったら入賞できる自信が
ちょっとある。
話を戻すと、私のウィンドウショッピングは主に「食」だ。
つまり、デパ地下グルメを見て回るのが好きなんである。
いまの流行りもわかるし、老舗の
デパートに入ってるところなどは特に包装紙で季節を感じられるお店、その季節に
しかお目にかかれない美しい水菓子、フルーツを惜しげもなくのせたパンやケーキ。
あの日常に寄り添う非日常感が良い。もちろん食べることも大好きで、だいたい何か
買わずにはいられない。この日はこれから食事に行くのと、帰りの移動距離もあることから阿闍梨餅の5個入りだけを購入して、河原町通に面した扉から表へと出た。
あまりの暑さに信号待ちしている市バスのシルエットが揺らめいている。
コンビニで精六さんは“アイドリング”と称して、サッポロ黒ラベルの缶を、私は
お茶のペットボトルを買って
私はさっき買った阿闍梨餅をひとつ取り出して歩きながら食べた。
いまから夕飯なのに1個食べると多い、と夫にたしなめられたので、最後の一口を
ハイと彼の口元に差し出した。ビールで仕上げていた口にあんこが合わなかったの
だろう。精六さんは口をへの字に曲げていたが、うまい、と言って包み紙の賞味期限をチェックしていた。残り4つなので、明日から二個ずつ食べられる。
良い買い物をした。
お店の予約は17時から。基本2時間制で19時からも21時からも席が埋まって
いたのでこの時間の予約になった。
テレビで紹介される前から行列のできる店ではあったが、最近では予約も取りづらく
なってきた。当初は京都だけで頑張ります、というスタンスで始められたお店だった
ように記憶しているが気が付けば関東の方まで支店を作られたようだ。
商売繁盛、結構、結構。
私たちはこのお店に限らず「なかのひと」とあまりしゃべらない。無視をするわけ
でもないし、話しかけてくれるなオーラを出すわけでもないが、たいがい出てきた
ごはんについて、おいしいね、これ硬いね、この葉っぱ食べてええやつなんかな、
一番目に出てきた部位名前なんだっけ、ちょっと飲むペース早いんちゃう、もう一杯
飲んでええかな、あそこの若い女の子常連っぽいねすごいね、など二人でひそひそ
喋りながら食べるからか、どんな店でも“夕飯”に徹してしまい、食事時間はいつも短めだ。
精六さんは生ビールの中ジョッキを4杯飲んで、おでこが真っ赤だ。
5杯目に手を出すと急に気が大きくなる傾向があるので、私がストップをかけた。
気が大きくなるというか、6杯目、7杯目と際限なく飲みたがり、お腹いっぱいの
くせにラーメンを食べたがるのをアカンアカンと制しながら家まで連れて帰るのが
めんどくさいというのが本音ではある。
今夜も、おいしかった。
精六さんはごきげんだ。当然、私も。
お店を出ても外はまだ明るい。〆の料理までこってりしているので満足感は高い。
車を置いたコインパーキングまでの道を消化しがてら歩いて、家に帰ろう。
そう思うのに、さっきから精六さんが「二軒目行こう、二軒目」と、しつこい。
もうこの時間だとお店いっぱいやしやめとき、と言うが納得してくれない。
とりあえず地元に戻って、精六さんの好きな焼き鳥屋さんに寄ろう?それでどう?
と嘘をつく。運転手は私なので寄らなければいいだけの話。最後の二またの道を
左に入るだけでその焼き鳥屋さんからはすごく遠くなるから、それまで誤魔化し
続ければいずれあきらめてくれるだろう、さあさあ、車に戻ろうね。
すると突然、精六さんが立ち止まった。信号の向こう側を見据えている。
「おでん」の文字が見える。店の開店を待つ数名の行列も見える。
精六さんが、私を見てニヤっと笑った。
ちょ、まっ、アカ、なんかわからんけど、アカンて
なんで今日はこんなに気が大きいんだ、と泣きそうになってから、気が付いた。
そうだ“アイドリング”の黒ラベルをカウントしていなかったではないか。
すでに制御不能ラインの5杯を飲んでいたのだ。妻、痛恨のミス。
私たちは京都の人間ではない。ではないが、わかる。
この店の醸す雰囲気とか格とか、めちゃくちゃ“京都然”している。
先頭に並んでいるおじさんは白いポロシャツの襟をたて、黒光りしたセカンド
バッグを持っていて、部下らしい人たちと綺麗なお姉さんを従えた4人組だ。
しかし精六さんには次に並んでいるキャリーケースを転がしているザ・観光客
二人組の外国人しか目に入っていないようで、一見さんウゥエルカムの気楽な店
だと判断したようだ。
また間が悪いことに「あかんて、やめとこう、お腹いっぱいやん、夏やん、おでんて
精六さん冬でもあんまり食べへんやんか」と腕をぐいぐい引っ張っている最中に
店の扉がカラカラと開き、お店のかたがひぃふぅみぃと行列を数えだして、私たちを
数に入れてしまった。
やめるなら今だが、私も元来「おもしろがり」なので、何事も経験だと腹を括って
店に入った。こんなことでもなければたぶん一生入らないだろうし、たまたま入れた
のも運命的な気がして。
しかし、である。
一見さんお断りでは無さそうだが、さっきからひしひし感じる「おたく、誰?」
な空気。いたたまれない、という言葉の正しい使い方をこの時初めて知った。
メニューは壁にかかった木札のみ。値段など書いていない。
さっきのセカンドバッグおじさんが「みんな、遠慮せんと」とか言っている。
精六さんもようやく気付いたようだ。おでこの赤みが少し引いている。
「注文する前に出ようか?」と小声で訊いたら「いや、いい」と言う。
彼も経験のひとつだと思ったのだろう。40も半ばになって経験もなにも、と呆れ
られるだろうが、私たちは知らないことが多い。他人より経験が遅くったって
浅くったって、それを今から嘆いたってしょうがないのだ。
でも、さらに、しかし、な事態が発生した。
注文を聞きに来られる前に精六さんがスマホでこのお店を検索した、らしい。
精六さんが顔色を失いながら
カジツ、いくら持ってる?
と言う。
もう、ピンと来るしかない。
カードが使えない店であることが今判明したのである。
私は少し感動していた。京都には「そういう世界」があることは聞いていたが
本当だったのだ。おそらくおでんも時価。ニコニコ現金払い。いや、もしかしたら
お茶屋の旦那衆はツケがきくとかかもしれないが、私たちの経験外の話だ。
っと。感動している場合ではなかった。一見でお金がありません、はシャレにも
ならない。うっかりお縄になってしまう。
いま、手元にある現金でいけるかどうか、だ。
この日は二人してカードがあればなんとかなると思って現金をわずかしか持って
いなかった。ふたりあわせて四千円と小銭が少し。顔を見合わせる。
まったく値段が予測できない。グルメ評価のサイトを見てもみんなお腹いっぱい
食べた感想ばかりで、二人で八千円から一万円くらい、とある。
それもこれも、気の大きくなった夫を制することのできなかった私のミスだ。
夫に恥をかかせるわけにはいかない。恥をかくなら、二人で。
人生二人三脚、倒れるときは共倒れだ。
選んだのはたまご、しらたき、蛸。
蛸はこのお店の看板メニューだから。
ビールも頼んだのだが、なぜか注文が通っておらずふたりとも熱いお茶が出された。
一瞬、これが有名な「ぶぶでもどうどすか」かと思ったが、たぶん違う。
おでんはもうひとたね、大根を頼んだんだった気もするが残念ながら憶えていない。
憶えているのは全部で三千円ちょっとだったこと。セーーーーーーーーフ!である。
無事にお支払いができたので笑い話にできるが、あのときはどうすれば良いか
真剣に考えていた。足りなかったら正直に話して近くのコンビニにお金をおろしに
行こうと思っていたが、そんなのは食い逃げの常とう手段であろうから許してもらえ
ない可能性もあった。近くに住んでいる友達に「お金持ってきて」とお願いして
迷惑をかけることも想像できた。
二人していろんな恥ずかしい思いはしてきたが、それを上回らなくて本当に
良かった。
精六さんはとても反省していて「今後、嫁さんに恥をかかせることはしない」
「値段にビビりながら注文させるようなこともしない」と誓っていた。
そしてこのエピソードは一生書くつもりがなかったのに、書いてしまった。
なぜか。
いまから数日前に、まったく同じことがあったから、である。
今度は家の近所の初めて行くバーで。
晩酌付きの夕飯も済ませ、夕涼みに出た散歩道で居酒屋に立ち寄ると言うので
所持金を確かめたら「財布をもってきた」と言う。そういうヤンチャなことが
したい日なのだろうと彼のビール数杯に付き合ったが、またその帰り道にある
バーに寄る寄るとうるさいので、じゃあ一杯だけねとしぶしぶ入った。
ダウンライトの、静かにジャズが流れる店内。
マスターの「いらっしゃいませ」のトーンも低く、渋い。
散歩着で寄っていい店だったかも、わからない。
それぞれがカクテルを注文し、おつまみにチーズも頼んでから精六さんが
勢いづいて二杯目のカクテルを注文したときにスマホを弄り出した。
「カジツ、ここはカードいけるからな」
あのときと同じ轍は踏まないぜ、といった風に嬉しそうに報告してくれた。
が。私は即座に彼をどん底に突き落とす。
精六さん・・・さっき小銭入れからお金出してたよね・・・?
そうなのだ。彼は財布を持っていると言ったが先ほどの居酒屋の支払いのときに
普段使いの財布ではなく小銭入れにある程度の現金を仕込んできた状態である
ことを私は初めて知った。
つまり本気のカードレスな二人がここにいるのだ。
それを思い出したのが私も「いま」だったからどんくさい。デキる嫁さんなら
店に入る前からわかったろうに、二杯目を注文する前に気づけなかった。
痛恨のミス多すぎやろ、わたし。
そこも、綱渡り決済だ。まず値段表示がない。サービス料もわからない。
おあいそをお願いしたときにさりげなく「ペイペイ使えますか?」と訊ねたが
現金かクレジットでと言われてしまった。
そして、所持金より下の金額が書かれた伝票を見た、あのときの安堵感たるや。
何千何百円、の千の部分を五百円玉2枚で出して、これまたセーーーーーーフ!
「二度あったけど、三度目はない、絶対」と精六さんはまた反省している。
飲みすぎなきゃこんなこともないのに。
どんなに反省して誓っても「今後ビールは3杯までにします」と誓わないところが少し腹立たしい。
そもそも私がシッカリしていると思ってたら大間違いなのだ。
3000文字くらいでまとめようと思っていたのにあっという間に6000文字。
計画性もありゃしない。
昨夜、精六さんとカラオケに行った。
東野純直さんの「君は僕の勇気」を歌ってくれた。ただ歌いたかっただけかも
しれないが、歌ってくれた、
お時間があれば歌詞を検索してみてほしい。とらえ方はそれぞれ違うかもしれないが
なんともお気楽な男がそこにいる。
歌詞も精六さんも、笑顔の柴犬のようだ。
車の、ドッグランの例え話が最後に活きた。
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