第4話 知人6年・友人60分・恋人6か月ー③ー

 結婚してから気づいたことだが、精六さんは「鉄は熱いうちに打て」の人だ。


唐突な話だが、精六さんは私と食事に行くことになったその日よりさかのぼること1か月ほど前に

生まれて初めてお刺身を食べられるようになったのだそうだ。


精六さんの父が川釣りの趣味をお持ちだったらしく、それが高じて庭にいけすを

作り、機嫌が良いとそこに放した魚を引き上げては捌いて家族に振舞ったという。

楽しそうではあるけれども、まぁ、川魚だわ素人だわで、嬉々としながら

「うまいぞ、食ってみろ」と言われて衝撃的にうまくなかった時のセイロク少年の

受けた心の傷は想像に難くない。


結局それをこじらせて魚全般が嫌いなままオトナになったセイロクくんに運命の日が

やってくる。

なんの集まりだったかは忘れたが、結構立派な割烹で行われた食事会でお造りに一切

手を付けない精六さんを見かねて会社の先輩が声をかけてきたという。

「うまいぞ、食ってみろ」と。


精六さんもそこで意地を張らず、父親が食べさせてくれた泥臭いフナだか鯉だかの

記憶を蘇らせながら、マグロを一切れ口に運んだ。


もう、そこからは

ヘレン・ケラーの「ウォーーーーーターーーーーー」状態である。


言葉を得たヘレン、初めて“推し”を知った中1女子、刺身を食えるようになった

精六、だ。全身を雷に撃たれたようなシビレを感じつつ胸震わせながら

「こんなの初めて・・・」と言ったか思ったかどうかは知らないが、とにかく

もっといろんなお造りを食べてみたい精六さんの選んだ初デートの店は、近所でも

魚が美味いと評判の居酒屋であった。


彼の刺身熱はその後2年ほど続き、新婚旅行は北海道、二人で外食となれば廻る寿司をはじめ、お造りが食べられる店ばかりで、私などはその2年で無駄に魚へんの漢字に強くなってしまった。


さて、話は戻るが初めて食事をする日もお互い車通勤。退社時間も似たり寄ったり20時くらいの待ち合わせだったので

ソフトドリンクで乾杯する。


この時点ではまだ彼は「車の担当さん」私は「お客様」なので、精六さんは私に

敬語で話しかける。サラダ、直箸で大丈夫ですか?、最近、刺身が食えるようになったんですよ、でもまだエビはダメなんで盛り合わせ頼んだらエビ食ってくれますか?

など。


注文時にエビが入らないように言って運ばれてきた5種盛りは特にイカと

カンパチが抜群に美味く、その日も精六さんはサシミ経験値をUPさせた。


6年来の知人というのは、やはり気安い。


そんなに長く話したことがなくても、緊張もしない。

なんなら安心感と満腹感で眠たいくらいだ。

「豚のチョレギサラダ」の油が固まりかけている。場をもたせるのにいまから何か

注文してもおなかいっぱいで食べられないだろう。


口説かれるかもしれない、と思っていた自分が恥ずかしい。

精六さんは勤め先で見る態度となにひとつ変わらない。

割り勘を申し出たが、精六さんはごちそうしてくれた。

今度があるなら、私がご馳走しよう。久しぶりにできた「友人」なのだから。


実はこの居酒屋さんには駐車場が数台しかなく、2人で2台分占領するわけに

いかなかったので、先に仕事が終わった私が精六さんを迎えにいき1台で来店

していた。

あと、精六さんのことをよく知らないので、イニシアチブを自分で取りたくて

運転手を買って出た。

むこうが運転で、遠くに運ばれて「帰したくない」なんて言われたら困るのだ。


ずいぶん上から目線で引かれてるかたもいらっしゃるだろうが、いまはもう

結婚したのだから好き勝手に書かせていただく。


さぁ食った食った。精六さんを降ろして解散したら、家の近所のミニストップで

ソフトクリーム食べて帰ろう。もしかしたら全額ごちそうされるかもしれないと

思ってデザートは遠慮したのだ。締めはやっぱり甘いものが食べたい。


精六さんが車を停めていた駐車場に到着。余裕のある駐車場なので横づけで置いて

シフトレバーをPに入れる。


今日はありがとね。じゃ。


この言葉の流れとしては、精六さんがシートベルトをはずす、左手でドアのコックに

指をかけて、左足から車を降りる


はずだったのに。降りない。降りる気配がない。

フロントガラス、正面を向いている。なぜだ。どうした。動け、精六。


「・・・まだ、時間、いいですか」


しまった。「帰したくない」ではなく、まさかの「帰りたくない」バージョン。

想定外のまま、次回に続く。

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