第8話 船出の準備
ミッドランドの東、イーストランドの東の端にアマテルと呼ばれる島国がある。そのさらに東には、広大な海が広がっている。だから東の端の国とされ、太陽が1日の内で1番早く昇る国、大陸の民はその国の別名をライジングサンとも呼ぶ。その別名を体現するのは民を統べる帝の一族とされるミロク氏。輝く魔導で悪魔を葬る術、それを最初に意のままに操ったのがミロクの一族とされている。
悪魔を切り裂く魔導の技と武勇は大陸まで知れ渡り、人類にとっての希望として大陸各地からアマテルへ援軍が要請された。アマテルの軍が称賛された理由は、決してミロク一族の技だけが優れていたからではなかった。魔力の扱いに長け、武術も洗練されていた。また、策略も豊富、独自の魔導術と魔導具を巧みに使いこなし、その魔導具の精錬方法を島国の中で独自に開花させていたのだ。まるで来る大戦に備えるかのように。それ故に、人類の天敵とされる悪魔に対抗するアマテルの名は、鮮烈に大陸中に知れた。
ミロク一族の技は、血縁の広がりと魔導の習得によって、アマテルの戦士たちにも奥義として広まった。アマテルの朝廷の中には、帝の力を尖兵に預ける事に不服を唱える者もいたが、帝自身が大義を掲げて技の習得を推奨した。アマテルの援軍は大陸中で戦果を挙げ、人類は悪魔たちを異界の巣穴へ押し戻すために協力した。アマテルの四神と呼ばれる4つの軍が特に成果を齎し、各地で勝鬨の声が上がった。そんな中、アマテルでは騒動が起きていた。四神のひとつ、軍師を司る玄武の軍、その副大将の通称オキナと呼ばれる老人が、大陸遠征で手薄になった朝廷の転覆を計ったのだ。それはミロク一族の力を全軍に習得させるために主導した人物の1人であり、その力によって玄武の軍の一部が帝を拘束、帝位をオキナの血縁の者に譲る事を強制した。遠征していた大陸のアマテル軍は、悪魔の殲滅を目の前にして退き、自国の島へ帰還しなければならなくなった。各国はアマテル軍の撤退に慌て混乱したが、魔導剣士を養成していた銀星帝国が先頭に立ち、多くの犠牲者を出しながらも、悪魔たちを巣穴へ封じ込める事に成功した。その後、アマテル軍は帝の奪還に成功し、帝位は再びミロク一族の元に戻ったという。だがアマテル国は大陸との交流を断ち、一部の国だけと交易をする鎖国政策を取る事になった。以降、悪魔への対抗のために援軍を要請されても、アマテルがそれを受け入れる事はなかった。
シリウスとグレンは、メグ・パラヤの町を東西に仕切る運河の東の裏通りの突当たりにある4階立ての楼閣の最上階の一室にいた。楼閣の主人の部屋だというそこは、黒と赤を基調に金の装飾に富んだ、町中とは異なる主人による独特の文化圏を再現した一室なのだと理解出来た。部屋の窓際には主人の仕事机、その手前に来客のためのゆったりとした長椅子が二脚、その中央に木彫りの彫刻が施された長机、壁は黒、梁は赤、それぞれに金の装飾、一定のルールに基づいて配色されているようだ。それらの艶やかで豪華な施工は、この楼閣の主人が町の権力者である事を物語っている。だが今は主人は不在だという。その代わりを務めているナガトという老人の猫の獣人が主人の仕事机の椅子に腰掛けていた。この老人は全く言葉を発しない。ただこちらに顔を向けているだけだ。その代わりにシリウスたちの話を聞いているのは、バツマルと名乗った人間の青年、シリウスたちの座る長椅子に向かい合うように長机を挟んだ向かいの長椅子にこちらを向いて座っている。長い黒髪を後頭部のやや上で縛って後ろに垂らし、赤い上下の衣の上から桃色の羽織りを纏う長身で筋肉質の武人らしき様相。ここまで案内してくれた子鹿の獣人のランは、付き人のようにバツマルが座る椅子の後ろに立って話の様子を伺っている。
シリウスがこれまでの経緯を話し、バツマルは目を瞑って頷きを繰り返した。
「聞いていた話の通りのようだ。力を貸そう。で、この先のルートは?」
バツマルの問いにシリウスは思い出しながら返答する。
「船で戻って、ミッドランドの東の山脈沿いに北海を目指します」
ふむ、とバツマルが迷う。サンガの助言の通りのルートのはずだが、不足があったのか、バツマルは眉間に皺を寄せている。
「3人だけか?」
バツマルはシリウスのグレンに視線を移して、それに自分を加えた3人かと聞いているようだ。
「俺はいかねぇんだ、ここまでの案内だけ。ここから先はシリウスとバツマルの2人って事だ」
グレンの返事に、バツマルは片眉を上げてから、さらに唸って目元にも皺を作った。しばらくしてバツマルは背中を椅子の背に預けて、
「それは、無理だな」
とシリウスを見ながら答えた。そしてラン、ナガトというように視線を移していき、
「やはり、無理だ」
と再び答えた。
「あなたには、来てもらえると思って良いのか?」
シリウスは座りながらも身を乗り出して、バツマルに問い掛けた。
「ああ、俺は行く。だが、人が足りない。明らかに負けだ。せめて勝つ可能性が少しでもある人員が欲しい」
バツマルは椅子の背に寄りかかったまま、顎に指を当てて思案している。確かに腕が立つグレンをここで失うのは大きな戦力低下だが、それはサンガとの約束、これまでに受けた助言の恩を覆してグレンを無理矢理連れて行く事は出来ない。となれば、自ずとミッドランドを旅する人員は自分とバツマルの2人だけということになる。バツマルが見切りを付けたように、ランとナガトは連れて行けない。
「誰か、この国に他の助っ人はいませんか?」
この話にバツマルは乗り気ではないようで、ただ宙に視線を漂わせるだけだった。ランはバツマルの様子をそわそわと見ては、俯いて自分では戦力にならない事、かといって他の戦士に思い当たる節がない事に、服を直したり袖を広げたりと、世話しなく動いている。ナガトは依然として動かない。シリウスの隣に座るグレンは、はぁわ、と空気を読まない欠伸。仕方ないようにバツマルは口を開いた。
「アマテルの人間は、俺だけの方がいいだろうな。アマテルの戦士で固めると、非干渉の国令に触れる事になる。それを知る銀星に、おそらくリーブラあたりで追求されちまう」
バツマルはアマテルに所属する人間だろうとは思っていた。ただ他の戦士がいない事だけでなく、旅の先の危惧も考えていた事には驚いた。ミッドランドの東の山脈の先にある要所リーブラ、法を司り、山越えをさせないために警備を強化している銀星帝国の軍団、敷居を越える者を端から捕まえてリーブラの牢獄に収監し、疑いが晴れるまで一生でも投獄するという、まさに旅人にとっては避けたい地域だ。
「東の山脈越えには、賛成しない。その代わり、ミッドランドを西に迂回した辺境に知り合いがいる。明日、船で中央を避けて西海岸に着けて、そこから北へ登って辺境を経由、中央を避けてさらに北上して東、このルートで北海を目指す、でどうだ?」
バツマルが提案して来たルートは、サンガが行ったルートよりもさらに旅の工程を伸ばすものだが、ここにサンガがいないのだから、より詳しい近年の状況を知る者の助言に切り替えた方が安全に思えた。
「そのルートで行きましょう」
シリウスは決断し、バツマルは、よぉし、と言って膝を叩いて立ち上がり、ランに旅の支度を指示した。ランは頭を下げて部屋を出ていった。部屋の扉が閉められた後も、ランが廊下や各部屋にバツマルの旅立ちを告げていく声が聞こえた。
「ナガト、それで行く」
何も言わず動かない猫の獣人に、バツマルは結論だけを伝えて、シリウスとグレンには、
「今日はここに一泊していくといい」
と言って部屋を出ていった。残されたシリウスとグレンは、ナガトがやはり頷きもしない様子を確認してから、荷物を整えて部屋の出入り口まで来ると、ナガトに礼をして部屋を後にした。
その日の夜は、楼閣で晩餐を振る舞われ、シリウスとグレンは長い船旅の疲れを癒し、空腹を存分に満たす事が出来た。シリウスたちが船を出したミッドランドの東南の海と、このパラヤは互いに張り出したような陸の形をしており、船旅としては距離が短いものだった。だが半日以上も食糧と水のない航海をすれば、体の水分は奪われ空腹は限界を迎える。そこへ振る舞われた食事に2人は歓喜せざるを得なかった。自然と会話も弾み、バツマルとランも加わって場は賑わった。この楼閣では薬草の風呂に入る事も出来て、鳥の羽毛がたっぷりと入った布団の感触は格段の上等さがあった。グレンは布団に飛び込んだまま、一瞬にして寝息を立てた。シリウスは就寝の前に、楼閣の外へ出て夜のメグ・パラヤの空気を味わった。朝から夕方までの町の喧騒が嘘のように静まり返り、夜の港町はそれまで喧騒で掻き消されていた波の音が澄んで響き、まるで町が洗われているようだった。シリウスは楼閣の前の道の脇を埋めるように林立する木々のうちの1本に近付き、その木の肌に手を添えた。バツマルは楼閣の前はサクラの並木だと言っていた。時期になると薄桃色の小さな花が無数に開花して道が桃色に満たされるのだという。それを楼閣の上から眺める様は、まさにこの世ならざる絶景で桃源郷のようだとも言っていた。サクラの並木、見てみたいものだ、無事に旅を終えたら、またパラヤに来よう。シリウスはサクラの木の根元に跪くと、その地面の土に右手の掌を置いて、目を瞑った。星よ、示し賜え。
楼閣で一泊したシリウスたちは、翌朝、ランに町の中央を流れる運河に停められた船まで案内された。
「遠出になりますから、今回はこちらの船をご用意しました」
ランから紹介された船は中型の船倉で操舵室に屋根が付いた長距離用の船舶だった。船倉があれば、岸に着けて家の代わりにもなるし、何より寝室が確保されているのはありがたかった。ランはシリウスの荷物袋を預かって船倉へ運び込んでから、後から来たバツマルの荷物も船に積み込む手伝いをして、
「食料と水は市場で買いましょう」
と川を挟んで東西に伸びる市場を指差した。シリウスとバツマルとランは、必要な物をメモした紙をそれぞれに共有して、買い物の準備を始めた。グレンはそこまで付いて来たものの、「じゃ、俺はこの辺で」と言って町の中央通りの西側へ軽妙な足取りで歩いて行った。斧を身に付けていないところを見ると、今日はもう用心棒の仕事を切り上げたらしい。シリウスがバツマルの用意したメモを再確認してグレンの向かった先へ顔を向けたが、既にその姿はなかった。
「それぞれ担当は分かったな。俺は水を樽で仕入れてくる。ランは干し肉と干物全般だ。シリウスは、その他の残り全部。メモはシリウスに渡しておく。じゃ、頼むぜ。1時間後に出発だ」
バツマルの指示にシリウスとランは頷き、それぞれ市場へ散開した。
シリウスは歩きながら、手持ちの盾の留め具に剣の鞘を差し込んで、それを背中に担いでマントで背中を隠した。物騒な物は仕舞っておいた方が警戒されずに済む。中央の通りの市場を西へ歩き、店の看板を見ながらメモと見比べていった。釣り具の一式、木の器、鉄の鍋、火起こし道具、ポンチョ3着。シリウスの買い物はそれだけだった。火起こし道具は既に持っているとして、ポンチョとはマントのように裾が開けた布の上着だと聞いたが、見た事はないから、最後に服屋に寄って見せて貰うとして、まずは釣り具だ。中央の通りは食材の店はずらりと並んでいるが、道具や食器などの生活用品の看板は見かけなかった。この通りは港町や運河から運んだ新鮮な食材や人気の果物などを主に扱っていて、地元の料理人や商人たち、他の地へ向かう船の食糧調達、交易の買い付けに利用されているこの町の商売のメイン通りなのだ。グレンのこの辺りの店のどこかで買い物でもしているのかも知れない。別れの挨拶くらいはしておきたかったが、自分が求めている物は、おそらく裏通りにあるのだろう。メグ・パラヤの町の北西側には宿が集まっていたから、行ってみるべきなのは南西の裏通り、複数の店を巡る事を考えれば出発までに余裕があるとはいえないから、シリウスは心の中で、ありがとう、と呟くだけにしておいた。シリウスは中央の通りの脇にあった小道に入り、町の外壁沿いの通りまで出てみた。陽の当たる健全な中央通りとは異なり、こちらの裏通りは外壁の影になって暗く、その印象もあってか、店にも活気がなく路地の人の目付きも悪く思えた。剣と盾を仕舞っておいて正解だった。悪い印象を持たれたらそれだけでトラブルに見舞われる、どうやらこの通りは生活雑貨全般を取り扱っている正解の場所なのだが、あまり長居したくはない。シリウスは裏通りの左右を見渡して、釣り具、食器、服の店の目星を付けた。左に食器、右に釣り具と服、右手の奥へ進めば先ほどの運河に出られると予想し、まずは左手の店を目指す事にした。行き来する住民が4人、町の外壁や店の柱に寄りかかっているのが3人、座り込んでいるのが6人、行き交う人は仕事中なのかもしれないが、他は朝から路地に出て何をしているのか、仕事も家もないか、獲物を探っているか。商売気のある店番もいない。裏通りは人間が少なく、亜人と獣人が主に暮らしているようだ。種族間の諍いがない町のように見えて、暮らす場所はきっちりと別れているのだ。店の外装が見えて来た、開放的に店の外まで棚を備えて食器類を並べている、あまり綺麗な外装とは言えない。外の食器の棚が据えられている雨除けの布張りの屋根の端には、平鍋とおたまが吊るされているから、調理器具の類もありそうだ。シリウスが店に向かって歩みを進めていると、その店の入り口から痩せたハイエナの獣人がとぼとぼと歩いて出て来た。二足立ちだが腰の曲がり方はほとんど四足歩行に近かった。ボロ布のエプロンを腰に巻いているところを見ると、どうやらあの店の店員のようだ。眠そうな瞼のまま腰に手を当てて僅かに背伸びをしている。欠伸も。店の持ち主かも知れないが、儲かっていないのは店の外観とその獣人の服装で分かる。中央大陸でも顕著に感じたのは、商売の中心は人間が担っており、その商売の上手さは亜人や獣人の追随を許さなかった。なぜなら中央大陸の他、世界の主要な大陸の都市部での共用言語が人間を中心としたものに制定され、その時から人間が各地の交易に優位であり、それまでも亜人との人間言語による交流はあったものの、金銭と品物を取引する場では人間の介入が不可欠、結果、人間に有利に取引を行う事が出来た。人間の言語が用いられたのは、過去の悪魔との大陸大戦において人間が主に活躍した事も影響していた。500年前に銀星帝国を築いた初代皇帝を大陸の新王として称賛した他種族は、未来の自身の種族が追いやられる事になろうとは思いもしなかったに違いない。人間の賢さは、他種族から品物の価値をより安く取引する事にも発揮されて、人間はより多くの金銭を得て、商売の基盤を人間のものにした。亜人も獣人もそれを追うように商取引を真似たが、人間が稼ぐ金銭にはとても敵わなかった。商売の中心にいるのはいつも人間、土地にも権力にも、この町の中央を支配するのも人間。この構図はあと数百年は変わらないと思える、また悪魔が大陸全土を襲うまでは。
シリウスは食器を扱う店で数人分の木の器と、深めで大きめの鉄の鍋を買い、釣り具屋で2人分の釣り道具一式を揃えた。この町では当然ながら海釣りと磯釣りが主流、海釣りと答えたからか、随分と多くの道具を買わされた。残りはポンチョだが、店へ立ち寄る以前に、これ以上の買い物をすれば両手で持てる量を越えてしまうのは容易に想像が出来た。シリウスは裏通りを東へ進む道すがら、手荷物を一旦地面に置いてから、背中に担いでいた盾をマントの下から取り出して、盾を皿のように持ち、その上に買った道具の全てを乗せた。釣竿は盾から頭を出したが、これなら上着を数着買っても持ち運べる。シリウスは盾に荷物を積んで持ち上げ、最後の服の店を目指して裏通りを進んだ。軒先に服が幾つも吊るされた店が見える。それらの服の下の台には巻いた布生地が積まれているから、マントも目的のポンチョも揃えているに違いない。アッタでコッパに縫って貰ったマントだったが、厚さは不足、獣に裂かれた箇所は徐々に穴が広がり、腕が通るほどに大きくなっていた。新調するには頃合いかも知れない。シリウスは店先に並べられた巻き布を品定めしながら、店頭の店番の前までやってきた。盾を皿のように持って釣り竿や鍋を乗せている珍客に、カウンターで店番をしている背に翼を持つ筋肉質の老いた白髪の亜人が怪訝な目を向ける。顔と体のほとんどの部分は人間と同じだが、どこかの部位は動物の特徴を持っているのが亜人だ。店番の老人は翼を持つ事以外は、人間とほとんど変わりがない、ただ店番に不相応の、老齢の割に盛り上がった筋肉と、目元の皺の深さには、向けられた視線と同様にこちらも警戒せざるを得なかった。
「服を買いに来たのだろうが、その前に聞きたい事がある。君はこれから船旅に出るのかね?」
釣り竿を複数個、器も複数個、鍋との組み合わせ、旅に出る事、海を渡る事、それらを瞬時に推察された事に不意を突かれ、シリウスは素直に「え、ええ」と答えていた。彼はシリウスがマントの下に隠している剣にも視線を向けたようだった。そして両耳に付けている翡翠のイヤリングにも。
「ポンチョをお探しかな? 奥にある、来てくれ、ずっと奥に」
翼の老人はシリウスの後ろに回り込んで強引に背中を押しつつ、店の中へと誘った。「あの、」と言葉を漏らし、シリウスは厄介な店に来てしまったと後悔した。
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