第6話 赤い冠

 やがて朝は来る、楽観的な歴史家の意見だ。長い大陸の歴史に比べれば、人の1日などというものは一瞬でしかない。人類が生まれる前の星の歴史からすれば、一瞬にも満たない塵のようなもの。だがその1日という一瞬の期間に、それまでの人生が覆される出来事が起きている。歴史の転換点もたったの1日で起きている。それが悪魔の襲撃だ。封じられていた地表の異界の入り口が突如として開き、無数の悪魔が地上に解き放たれる。1体の悪魔は数千の兵に匹敵し、それが集団で国や地域を襲う。この世界はかつて幾度かの悪魔の襲撃を受け、1日で世界は覆される事もあった。それは新王歴に移る前、1000年以上も前から、平均して100年に一度、短い時は50年で解き放たれたという。その度に人類は生存を賭けた悪魔との大戦に臨まなければならなかった。悪魔は人類の天敵とされ、世界がひとつにならなければ、その苦難を乗り切る事は出来ない、人類の試練の時、世界が分裂したままでは、到底敵わない相手だった。国の境を越えて団結して悪魔の軍団に挑み勝利した事もあれば、悪魔の暴れるままに人類が滅亡寸前に追いやられる事もあった。

 その歴史の中で、悪魔と対等に勝負し合えたのは魔導剣士だけだった。人類の軍の中心には魔導剣士の存在が不可欠、悪魔を切り裂いて軍団に活路を開くのはいつも魔導剣士だった。歴史に語られる魔導剣士は、剣の一振りで数十の悪魔を葬り、魔導の術で軍を守り、必殺の技で戦局を一気に変えたという。人類のどんな優れた戦士にも出来ない芸当、あり得ない事を実現させる、失望を希望に変えるのが魔導剣士。だが魔導剣士の術も人類の後援なしには実現しなかった。一人旅のところを狙われ、修行中の見習い剣士も狙われ、人質を盾に狙われた。幾度かの大戦で悪魔は指揮され、戦術を身に付け、より狡猾になって魔導剣士を集中的に殺そうとした。やがて真っ先に魔導剣士が狙われて殺され、軍団が崩壊する例が後を立たなくなった。悪魔との大戦の度に多くの魔導剣士が命を落とし、いつしか戦場で魔導剣士を見かける事はなくなった。

 だが魔導剣士が絶滅したわけではなかった。生き残った魔導剣士は、東の島国アマテルに身を隠すか、ミッドランドの銀星帝国に匿われて、次世代の魔導剣士の養成を行っていた。悪魔の襲撃の周期は、複数回の人間の世代交代に適合していたのだ。次の悪魔の襲撃までに、若き世代を鍛えれば対等に渡り合えるようになる。それまで1人の師に1人の弟子という狭き門で育成していた魔導剣士を、国の援助を得て一気に大勢の弟子を育てる養成に変え、魔導剣士もそれに同意した。この戦略は見事に功を奏し、次の大戦で魔導剣士は復活して悪魔たちと対等に渡り合った。帝国の多数の魔導剣士に比べて、アマテルから参戦した少数の魔導剣士の方が戦果を挙げたのは、帝国の魔導剣士が最終試練である星との繋がりを省いたからだ。突如訪れる悪魔の襲撃に、試練を終えられた魔導剣士が少なかった。特に部隊長級の悪魔との戦力差は歴然で、これには帝国の魔導剣士は歯が立たず、アマテルの魔導剣士に役目を譲る事になった。何とか勝利した人類だったが、また多くの魔導剣士が命を落としたため、再び次代の見習いを育てる必要があった。見習いの中には、指導の厳しさや、次の大戦での死の恐怖に、修行半ばで逃げ出す者もおり、養成は順調には進まなかった。魔導剣士の中には、魔導剣士が増えるほど、技を鍛えるほど、悪魔たちも強くなり部隊長級の悪魔が増えているのではないかと論じる者もいた。事実、魔導剣士が不在の時の大戦と、魔導剣士を参戦させた時の大戦とでは、悪魔の数も隊長級の悪魔の数にも差があるという報告はあった。だからどうするという答えには至らなかったが、魔導剣士たちは悩み続け、やがて姿を消す者たちもいた。帝国の指導法に疑問を抱き、帝国を離れて僻地で地道な修行と弟子の育成を行う者もいた。現在も帝国の魔導剣士の数は十分ではないが、試練を緩和させて闇雲に増やすわけにもいかず、帝国は魔導剣士の数を調整するために学校を通じて基礎を学ばせ、優秀者のみをその先の十二軍のピスケス宮に進ませて養成者を絞った。全ては次の悪魔との大戦のために。


 屋敷に入った魔導剣士見習いのシリウスは、目の前に広がる薄暗い部屋に人の気配を感じ取った。10歩程度の奥と幅の広さの部屋に2人、真ん中には炭と灰を集めた四角い囲いの床、その脇に置かれている蝋燭が唯一の明かり。その明かりに照らされるように座っている1人、もう1人は見つからない。シリウスが歩みを進めようとすると、半歩先に段差があった。暗くてよく分からないが、平家の時と同じように、この一段低い床は靴を脱ぐ玄関だ。シリウスは玄関と思われる狭い床に靴を脱ぎ、くるぶしの高さの段差を越えてタタミの床に一歩進んだ。そして礼をして、

「ここへ来るようにと」

と座っている人物に話しかけた。その人物は物静かな動作で灰の囲いの手前にある綿が詰められているであろう布を掌で指し示して、

「どうぞ、サンガと申します」

と座るように促した。シリウスは座るべき布を確認し、サンガと名乗った人物を蝋燭の明かりに沿って見上げていった。真っ白な儀礼用の裾が広がった優美な衣服、襟や裾の隙間から朱色の裏地が見える。差し出された手は獣人のもの、顔は鼻の長い犬、東の文化の神職が身に付ける烏帽子という黒い上にとんがった帽子。大陸の文化や種族とは明らかに異なる神秘が詰め込まれた容姿だ。明かりが僅かに届く部屋の周囲を囲む壁は白を基調として、どれも扉のようでもあり、どれも壁のような、連なった模様が描かれた紙製のものだった。床の灰が敷かれた囲みの向かいは、1人が座れる分の間隔を空けて、その先も白い壁。ただその壁だけは、枯れ草を編んで切り揃えたような簾が掛かっており、その簾には紫の帯が垂れ下がっていた。客観的に異常な部屋なのは頭が理解している、だが体は落ち着き払って、サンガの促しに従って座る事を望んでいるように思えた。まさに望んでここまで来たのだから、体が思うようにシリウスは目の前の布に腰を降ろして膝を曲げて足を組んだ。コッパのおかげで体に強張る緊張もなく、自然体の自分をそこに置く事が出来た。これから何が始まろうと、何を言われようと、それらを素直に雑念なく受け止める事が出来そうだ。

「それで、何を始めるのですか?」

シリウスは蝋燭の火を見つめるサンガに尋ねた。サンガは部屋の奥の編み草の簾を見つめてから、こちらに視線を戻した。

「まだ、何も、何かが始まるかどうかも、シリウス殿、あなた次第」

復讐、悪魔への。それを始めるかどうか、覚悟を問われているのか。サンガには過去か未来を見据える能力があるのかもしれない。そういった魔導の特性を持つ魔力使いがいる事は師匠から聞いていた。この人物がそうなら、自分の旅に助言を与えてくれる賢者に違いない。覚悟は出来ている、そのためにさらに修行を積む忍耐も、仲間を集めるための努力もする。

「私には、覚悟があります」

シリウスはサンガにそう答えた。サンガは犬の鋭い目でシリウスの顔を見つめた。そして衣服の裾を捲って腕組みをして、

「そう、」

と返事をして、しばらく沈黙した。蝋燭の火が魔力に靡く。シリウスは火から視線を上げて、目を瞑るサンガと、奥の壁の簾を見てから、両手を合わせて指を組み、部屋の中の沈黙を続けた。それを汲み取ったようにサンガは口を開いた。

「そう、あなたの最初の目的は、復讐、悪魔を倒して仇を取ること、ですが、本来の目的は、」

サンガの言葉に、シリウスは眉を歪めた。本来、そんな物はない、魔導剣士になった未来、その先のことか、サンガが何に言葉を詰まらせたのか、シリウスは組んだ指を波打たせて続きの言葉を待った。サンガはシリウスの顔を覗き見て慎重に言葉を繋げた。

「本来の目的は、それらを覆す、赤い冠の入手になるかと、存じます」

悪魔を倒すという目的を覆す、本来の目的とは、一体何のことだ。シリウスはサンガの顔を見つめて言葉の意味を理解しようと努めたが、その答えの一端すら掴めそうになかった。

「本来の、とは、まるで話が見えません」

サンガは腕組みを解いて両手をそれぞれ膝の上に置き、鼻先を宙に向けて、ふむ、と思案を続けた。また蝋燭の火が揺れる。揺れた明かりは部屋の奥を僅かにシリウスに見せてくれた。顔を上げたシリウスは、奥の壁に掛けられている簾の先に、座る人影のようなものを視認した。その影のためにシリウスの背中の骨は一直線になる。タタミの床より一段高く、壁の中の四角い穴のような場所に、それは潰れた巾着袋のように座っている。まるで動かない。蝋燭の火の揺れが収まると、また簾の奥は見えなくなってしまった。見えなくなって、シリウスは、ほっ、と息を吐いた。一瞬だったのだが、それを見た時の自分の体は唯ならぬ魔力に意識を当てられたように、硬直していたのだ。身体中の毛穴が開いたような毛羽だった感覚、脇から一気に冷や汗が出る、畏怖に支配された意識。あそこに座っているのは、悪魔以上の、歴戦の魔導剣士ですら敵わない存在。同じ部屋にいる事が場違い、自分がここにいる事の違和感から、自然と視線を下げたシリウスの視野に、サンガの手が差し込まれた。

「恐る事はありません、我らの御館様はあなたを敵視しておりません、むしろ迎え入れております。あなたの本来の目的は、我らも望むところ、シリウス殿に協力したいのです」

シリウスは視線をサンガの手から袖、肩から顔へと移していった。サンガの目は優しくシリウスを捉え、警戒を解くのに充分な説得力があった。

「すみません、身勝手な想像でした、しかし、私の本来の目的というのは、やはり分かりません、赤い冠とは?」

シリウスの返事に、サンガは迷ったような、言葉を選ぶような、思案深い表情で答えた。

「アビスクラウン、赤い冠の別名です。数世紀前まで、あなたの祖先が所有し、管理していた冠です。悪魔たちの意思に作用して行動を制限する、管理者の冠」

サンガの言葉はシリウスの心の奥の欲求に応えるものだった。それを求めていた。その欲求の根源は、力への憧れではなく、生理的に満たされない生物としての我、個人的なエゴだ。

「それは、いま、どこに?」

「タルタロスの魔神の手に。彼が所有してから、悪魔の軍団は復活して拡大し、地表を脅かすほどに勢力を取り戻しています」

「それを人間の手に取り戻す事が、悪魔を鎮静させる最も効果的な手段なのですね。それで、タルタロスとは?」

「悪魔が棲む煉獄の地。満月の日、北海の島ホワイトランド、ガルガラン山の頂上、最も天国に近い地とされるその地に、入り口は現れます」

ルガランドはミッドランドの中央から真北に位置する獣人の島、太古の種族が天まで届かせるために積み上げた岩群が島の中央の聖地とされており、それがガルガラン山と呼ばれている。古代の獣人の王を祀る遺跡とする説もあるが、聖地を護る獣人が人間の侵入を許さず現在まで詳細は解明されていない。もし赤い冠を取り戻せれば、悪魔全体を弱体させる事実上の勝利、悪魔個々を倒す目的を覆すほどの目的として、これ以上の助言はない。

「やります。アビスクラウン、必ずこの手に。タルタロスは、悪魔の巣窟ですか?」

サンガはそう言うシリウスの目の奥を見据えて、ふむ、と頷くように返事をした。

「地上には、タルタロスへの入り口が、多数あります。それらから、悪魔たちは出入りしているのです。ですが、ガルガランは、いわばタルタロスの裏口、正面突破ではありません。慎重に忍び込めば、あるいは」

サンガたちがこの目的に協力する目的はまだ分からない。だがここまでの情報を提供してくれるという事は、彼らにも恩恵があるからだ。悪魔を地表から追い出すのは、もちろん大陸にとっても、他の種族にとっても大義のある事、銀星帝国にも神聖軍にも利があり、悪魔に脅かされていた獣人にとっても害を除く事になる。サンガは再び腕組みをして、シリウスから視線を外して思案に集中していた。冠を持つ魔神の棲むタルタロスは、配下の悪魔たちも無数に棲息しているに違いない。裏口とはいえ、見つかればただでは済まない。魔神の元まで辿り着けるのかどうか。シリウスの想像を中断させるようにサンガは言った。

「ホワイトランドを目指す前に、数人の仲間を、探すべきでしょうな。しかし多くてはいけません、悪魔に見つかる可能性が高くなってしまいます、忍び込むのに適した人材を」

「はい。……実は、同志の仲間は皆、殺されてしまい、他に頼れる心当たりがありません。どなたか、ご存知ですか?」

「そう、」

サンガは両手の袖を広げてその中に両腕を納め、真ん中の灰の囲いの炭を見つめた。時折、目を細め、それが作戦を練ったり未来を見通しているようでもある。しばらくすると、サンガは合わせた長い袖の中から、編み込んだ細い紐のような物を取り出し、それをシリウスに手渡した。赤と白の紐が編み込まれ、所々に黄色い紐の刺繍が施されている。掌に何が固い物の感触を覚える。紐を裏返すと、穴を開けられた三日月の形をした翡翠が紐の間に通されている。魔除けのような物か。

「それを手首に巻いて、旅を続けると良いでしょう、まずは南の大陸、サザンランドの小国パラヤへ、そして中央大陸南の砂漠の国を経由するよう戻り、そこからミッドランドの東の山脈添いに北へ、リーブラの要所の避けて北海に出られます。パラヤまでは、グレンに案内させましょう」

「はい、ありがとうございます、賢者様」

「私は賢者などではありませんよ」

サンガは鼻を僅かに上下させて口の中で笑った。その仕草を突然やめて目を細めたサンガは、シリウスが入ってきた入り口の扉を厳しい視線で見つめた。シリウスにも魔力が揺れるのが分かった。何かが起きている。サンガは牙を剥き出して喉で呼吸をする。

「これは、いったい」

シリウスは腰を上げて片膝になり、サンガに問い掛けた。

「荷物を持って来させましょう、もう時間のようです」

危機が迫っている。まさか、悪魔。外が俄かに騒がしくなっている。嘆く風、慌てる草木、走り出す獣、地面に伏す虫たち。サンガは、すっ、と立ち上がって部屋の奥の壁の簾に向かって小声で何かを話した。簾の奥にあった気配はまるで最初から何もなかったかのように消えた。シリウスは手渡された紐の編み物を左手の手首に巻いて縛ってから、右耳の翡翠に手を添えて入り口の扉を正面に据える。サンガは奥の壁から何かを携えてシリウスの隣まで来た。

「さぁ、これを。魔導剣士とはいえ、武器は持ち歩くものです。魔導剣士である事を隠すためにも」

サンガがシリウスの手の高さに掲げた物は、剣と盾。

「はい」

シリウスは剣を受け取って鞘を腰の帯に差し、左腕を盾の留め具に通して取手をその掌に掴む。そして右手で両刃の剣を引き抜いて正面に構えた。剣の柄には磨かれた石がはめ込んであり、柄を握ると自然とその石に手の内側が触れる位置になる。盾の取手にも中央に同じく石が納められており、これも石が手に触れる。何か仕掛けがある特別な剣と盾、修行でも扱った事がない物だ。

「気が付きましたか。魔力を操る者には便利な物です」

「それは、ありがたい」

「10秒後にコッパとグレンが来ます。コッパからあなたの荷物を受け取ったら、グレンと共に行きなさい」

シリウスは扉に体を向けたままサンガの言葉に頷いて剣を鞘に戻した。

「南へ」

「左様、抜け道はグレンが知っています。ご武運を」

サンガは後ろ足に部屋の奥へ下がって行った。おそらく彼らは逃げる術に長けていて、隠れ場所や避難路も用意されているのだろう、グレンとここを去った後も、無事でいられるに違いない。こちらへ駆けて来る激しい足音、荒い息遣い、そして屋敷の入り口の扉が勢いよく開け放たれた。まずグレンが、次にコッパが走り込んで来た。グレンは部屋の奥を確認すると、シリウスに叫んだ。

「悪魔だ! 行くぞ! 荷物、コッパ!」

コッパは彼の後ろからグレンを避けるようにシリウスの前まで周り込むと、荷物袋を差し出した。「どうぞ!」ほとんどそれと同時にシリウスは荷物袋を受け取り、コッパはその勢いのまま部屋の奥へ走った。シリウスは外へ向かって走るグレンの後ろに付いて革靴を履き、入り口の敷居を越える際に後ろを振り返ってコッパがこちらに向けて礼をしているのを確認してから走り出した。

 屋敷を囲う塀の先の西の草原に、火の明かりが見える。延焼範囲はまだ広くない、西の一部。シリウスは周囲をぐるりと見渡した。北と東の山は明かりを照り返して橙に色付いている。グレンは南の塀に向かって走っている。こちらを振り返って「来い!」と叫んだ。植物や建物を燃やすのは悪魔の常套手段だ、火で人間や生物を追い立てる、生来の狩人としての性質があるのだという。悪魔の雄叫びが山に跳ね返って木魂する。日が落ち始めた暗い夕の空を火が赤く染めていた。その空に羽の影が幾つも舞っていた。シリウスは南へ走りながら、羽の影の恐怖を思い出していた。旋回して監視する者、地面に降りて見えるものすべてを焼こうとする者、生命を捕縛して食おうとする者、徒党を組んで集団で餌食を貪る者、それらが悪魔であり、仲間たちを殺した醜い生物、太古の昔から人間の文明を幾度も滅ぼしてきた人類の天敵。故郷の渓谷を襲った時と同じ、奴らは役割を分担しながらも群れを成して生命を殲滅しようとする。シリウスは塀の板の一部をこじ開けているグレンに追い付き、火の明かりとの距離を目算した。まだ距離はある。数分は気付かれない、その間に奴らが感知出来る範囲から逃れて身を隠す。グレンは斧の刃を塀の板の隙間に入れて板を剥ごうとしている。もう一押し、シリウスも斧の柄に組み付いてグレンと息を合わせて押し、それから引いた。板は空気が弾けたような派手な音を立てて割れ、塀に1人が通れる程度の隙間が出来た。そこからグレン、そしてシリウスは身を捩りながら外に出て、草原の有様を確認した。火が草原の半分を焼くほどに広がっている。さらに広がれば、火に照らされた動く影は直ぐに彼らの標的となって生命を奪われてしまう。こちらが身を隠せるまでに1分もない。

「こっちだ」

グレンはシリウスを手招きしつつ、背を低くしたまま塀の南の草原へ駆けて行った。その後ろを追ってシリウスは、草むらを歩幅を広く掻き分けながら、暗闇が迫る盆地を南へ突き進んだ。突如走る事をやめたグレンの背中が眼前に迫る。シリウスも足を止めてグレンの前方を見ると、小川の目の前だった。最初に訪れた北側の川よりも川幅は広く、木の杭からロープを船尾に結ばれた一艘の小舟が浮いていた。おそらく彼らが日常的に使用している漁のための舟だ、網の束が船底にまとめられている。

「乗れ!」

グレンはロープを解いて船に飛び乗り、岸を蹴って船を出した。シリウスはグレンに続いて船に飛び乗り、その着地の勢いを船の速力に足した。グレンは魯を漕いで船をさらに進める。だが船は川の流れに乗って僅かに速度を上げる程度で、陸を走った方が早いのは直ぐに分かった。グレンはシリウスの様子を知って言った。

「帆がある。網の下。ここは盆地だ、南へ風が抜けてる、早く、網は捨てていい」

シリウスは漁の網を両手でかき集めて川に放り投げて捨て、その下にあった舟の半分ほどの大きさの帆を取り出して帆の柄を舟の梁に差し込んで固定した。帆を風の向きに合わせて張ると、舟は一気に速度を増して南へ走り出した。シリウスが背中を反らしたのに対して、グレンは前のめりの姿勢になって舟の速度を毛並みで感じるように舵を取った。

「やったぜ、いいねぇ、脱出成功!」

グレンは口元の両端を上げて遠くを見た。舟は風に煽られてぐんと速度を増し、汽水が近い広がった川幅の真ん中を切り裂いて行った。このまま海に出るのだ。燃える草原を離れて、大陸を背後に、舟は河川の汽水から遠ざかって海を進み始めた。シリウスは背後の様子を確認する。山に囲まれた草原は赤く山を照らし、空をも橙に染めていた。その空に舞う無数の黒い羽の影。 悪魔があそこに溜まっている。船が無ければ人生は終焉を迎えていたはずだ。アッタにいたのは僅か数時間、だが自身の人生にとって大きな成果を得る事が出来た。コッパ、サンガ、御館様、どうか無事であって欲しいと強く思った。

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