第5話 癒しの手順

 獣人の村は世界各地に多数存在している。木と枝葉を使った粗末な家の集落も含めれば、その数は無数、数え切れないとされている。それだけ多くの種族が少数で分散して僻地に暮らしているのだ。獣人と異なり、人間に見た目が似ている亜人は、都市に生活の拠点を置いていた。獣人よりも器用な亜人たちは人間の共通言語も使い熟し、人間と寄り添うように都市に違和感なく紛れている。人間たちは、亜人には抵抗感を抱かなかったのだが、獣人に対しては、言葉の壁が第一の印象、独特の文化を貫き通しており、それに合わせるのが難しい、握手がしにくい、獣臭い、マナーがない、そう感じるのが普通の一般的な感覚だった。だから獣人とは付き合えない、人間たちの口から漏れるのは不満の数々を集積させたその言葉の一言に表れていた。もちろん、すべての獣人がそういった特徴を持っているのではなく、一部の粗暴な獣人の印象を他種族にも当て嵌めて推測で嫌悪しているのに過ぎない。獣人にも誇るべき文化があり、家族を愛し、子孫を大切に思う心がある。通じない言葉のために、それらが不足していると考えるのは人間の愚かさだと星学者は言う。また、一部の種族だけを神聖視するのも同様に思慮が足りないのだと。星学者の多数は帝国の要職に就く種族の比率に対しても批判する。特に一般的な仕事において、上位の役職に就くのが人間だけだからだ。亜人や、ましてや獣人は、人間より上の役職に就く事が出来ない、人間より優れていたとしても。それが適用されていないのは国の代表として表に立つ銀星十二軍だけだ。現皇帝の一代前、数日で崩御した前皇帝は、帝位を継いだ翌日に十二軍の役職の入れ替えを行った。前皇帝は民の間で蔓延していた星学者の論説を受けて、人間優位の批判を回避するために、国外の活動で特に目立つ軍団には、亜人も獣人も採用し、要職にも就けたのだ。しかし数日で病死した前皇帝の意図を、新皇帝が引き継いでいるとは考え難かった。軍団に目立った人事異動はないものの、新皇帝は祖父である老皇帝の遺言を継ぐと宣言している手前、再び人間優位の世界を築くつもりなのだと人々は思っている。そうなった時、次に起こるであろう悪魔との大戦に亜人と獣人の協力は得難く、帝国の勢力が広がるほど民は失望していくのだった。それに比べて神聖軍には、種族間の待遇の差がなく、大陸の秩序を戻すために神聖軍に加担する種族も多かった。世論の勢力図が変われば、中立国が一気に神聖軍に加勢する可能性があるのだ。そうなれば帝国軍も打破出来るだろう、世界を覆す唯一の希望だろう、神聖軍が統治する種族の溝がない世なら、悪魔たちを永遠に封じ込める事が出来るだろう。だが星学者は言った。希望や祈りは現実を曇らせる、世界を治めるのは真の星の魔導剣士だけである、と。


 シリウスが獣人の男グレンに案内された塀の中には、想像していたよりも多くの建物が建ち並んでいた。外から見えた三角屋根の建物はこの敷地内で最も立派な合掌作りの建物で、それ以外にも幾つかの平家や家畜用の厩舎、武器と防具が備え付けられている武器庫、山から引かれた川と池と水車小屋、大きな竈門に隣接した作業小屋と薄く湯気が上がる丸小屋、鶏や羊が放たれている柵で仕切られた区域、敷地の中央には料理用の焚き火の堀と井戸、建物の敷地の先は山肌で、山のすぐ麓の盆地の一区画を塀で囲んで棲家にしたものと思われる。相変わらず人気はないが、グレンが一人で住んでいるとは思えない規模の施設だから、数人の住人が隠れ住む蜃気楼の屋敷と捉えるべきだろう。

「大丈夫」

グレンはまだ尻を押してくる。警戒して敷地の中を物色している様子に嫌気が差したのだろう。この戦士が言うのだから大丈夫だ。シリウスは足を早めて中央の井戸の前まで進み出た。左の平家の入り口が開き、また背の低い獣人が駆け寄って来た。今度は狐、頭と手足の大きさから、これは子供だと分かる。裾が大きく開いた衣服の前襟をきっちり合わせて帯を越に巻いている。この衣服は東の地方の物だ。

「ようこそ、アッタへ、魔導剣士様、わたくし、コッパと申します、あなた様のお世話係を務めさせて頂きます」

屈託のない笑顔でシリウスを迎えてくれたのは、魔力の強さに定評のあるフォクシーの種族の子供だった。シリウスも笑顔で迎え「シリウスだ」と返した。魔導剣士だという事は既にこの敷地内では知れたらしい。この屋敷の主人はまだ姿を現さない。塀の中へ入った時から、清浄な聖なる魔力に体を包まれているような感覚があった。おそらくそれは主人の魔力に自身が感化されているからだ。この敷地内にいるだけで自然と体が癒されていく感覚、この範囲にそれだけの影響力を顕現するのは、並外れた稀有な魔力の持ち主だ。シリウスはこちらを見上げて笑顔を絶やさないコッパに質問をした。

「ここの主人は、どちらに?」

おそらくそれが賢者。だがコッパと名乗った少年からは、違う答えが返って来た。

「あちらの客間にて、食事と風呂、お香の用意がございます。まずは御ゆるりと休息をご堪能くださいませ」

コッパはぺこりと頭を下げる。シリウスはその純粋な仕草に、これまでの緊張が嘘のように解けて肩の力が抜け、疲れが体を覆った。今はコッパの言葉に甘えて安全な休息を取るべきだと心の底から思えた。

「ありがとう、世話になるよ」

「はい、こちらへどうぞ!」

コッパは出て来た平家の扉へシリウスを招きながら走っていった。シリウスは目の前の一際高い三角屋根の建物を詮索する事を止め、グレンに別れを言ってコッパが駆けて行った左の平家へ向かった。平家の端には僅かに煙が上がっている竈門が隣接され、平家の隣には円形の湯気が上がる丸小屋があった。ここは来客用の食事や寝間や風呂などの生活施設を集めた平家なのだと理解した。シリウスはコッパが入って行った入り口の扉を潜り、そこが粗さの無い秩序で満たされた家なのだと感じた。入り口の正面には窪みの空間と花瓶と花、左右を見渡すと縦長の長方形の廊下、「靴はそこで脱いで下さい」そう言ってコッパが廊下の先で手招きしてくれた。シリウスは靴を脱いで揃えてから、コッパがいる右の廊下を進んだ。廊下の先の床と壁には竹の板か敷き詰められ、壁には幾つかの扉が連なり、その廊下の突き当たりを道なりに左へ曲がった先には数個の棚に籠が用意された着替え場の部屋が据えられていた。コッパは着替え場の籠のひとつに寝巻き用の着替えを畳んで置き、「どうぞ、お食事の用意をしてきます」と言ってすぐ様廊下を戻っていった。着替え場の先の扉は湯気で曇って、その先が風呂場なのが分かった。まず風呂に入って体を清めろという事だ。街の宿と違って、言わなければ案内しない、勝手に使え、というような乱暴な扱いではない。コッパが率先して客を案内し、1人の逆に1人の案内役が付き従う親身な対応、何か分からなければコッパを呼べば良いという安心感、他の宿では決して味わえない贅沢だ。おそらく主人の方針をコッパが体現しているのだ。案内されるまま、まずは風呂を楽しもう。シリウスはマントと衣服を脱いで籠に入れ、アクセサリーを外してその上に置いた。頭の後ろにまとめていた髪が解かれて肩甲骨のあたりまで垂れた。籠の中には布巾と着替えのローブが据えられており、シリウスは布巾だけ手にした。裸になったシリウスは着替え場の先の湯気で曇った扉を開いて、内部屋を確認した。見た事がない、特殊な形状の風呂、洗い場と湯船は別れているが、浴槽の形状は特に変わっていた。屋根も何か細い枯れた植物の枝を幾重にも重ねたもので全体が覆われており、一見して脆そうだが枝同士は編み込むように互いに補強しあって頑強さも感じる。変わった浴槽というのが、切った大木を横に倒して上から中を掘り抜いた楕円の浴槽に適度な熱さだと分かる湯気を上げる湯がいっぱいに張られている。人が入って足を伸ばせる掘りの大きさ、その浴槽の隣の洗い場には下に置いた桶に直接お湯を入れられる上下に稼働する竹の蛇口が壁から出ており、その蛇口の脇には捻り取手。壁の頭の高さの辺りにも竹の蛇口のような注ぎ口があるが、こちらは竹の先が無数に裂かれていて出て来たお湯で頭や体全体を洗い流すためのものらしい。シリウスは持ち込んだ布巾を浴槽の縁に置いてから、下の捻り取手を回してみた。すぐに上の竹の蛇口から細かく散る湯が流れ始め、頭から温かい湯を体全体に染み渡らせる事が出来た。この水流の刺激はシリウスには初めての体験だった。長旅で体は埃だらけだし、幾つかの傷口には湯が沁みて痛みを再び思い出させた。蛇口の上の段差に据えられた石鹸は使った事があるが、その隣の液体の瓶は初めて見た物だった。シリウスは石鹸を何回か揉んで泡を立て、それを体に広げていく。よく泡立つこの石鹸のために、シリウスの体はすぐに全身が泡で真っ白に包まれた。それをまた上の蛇口から出る水流で綺麗に流し、ふぅ、と一息吐く事が出来た。上の段差の瓶の中はなんだろう。シリウスは瓶を手に取って、上下に軽く振ってみた。やや粘質の水が入っている。蓋を開いて数滴を掌に落として匂いを確認する。なんとも爽やかな花の香り。掌の数滴をもう片方の手で軽く混ぜてみると、こちらも泡が立った。これも石鹸。上の段差に置いてあるのだから、頭に使う物、髪を洗う水の石鹸だ。シリウスは上の蛇口から髪に湯を浴びると、瓶の中の水を多めに掌へ移して軽く泡だて、髪に塗るように泡を伸ばしていった。そしてぐしゃぐしゃと髪を泡で洗っていく。花の香りが髪全体から匂いだして気が落ち着いていくのが分かる。しばらく泡を香りを楽しんだ後、また湯を頭から浴びて髪の泡を落としていった。泡が無くなったところで長めの後ろ髪を束ねて水気を切り、軽く巻いて結ぶ。あとは湯船に浸かって疲れを取るだけだ。シリウスは湯に手を入れて温度を確かめる。やや熱い。自然の温泉はやや熱いのが普通で、その方が疲れが取れる事をシリウスは知っていた。浴槽の縁を跨いで片足を浴槽の底に着ける。溢れた湯が浴槽のを伝って洗い場の泡を押し流す。じわりと足に広がる熱の痛み。もう片足も同じように湯船の中に入れて、熱に慣れるまで少し我慢する。頃合いだ。シリウスは足を曲げてしゃがみ込むように腰から腹、腹から肩という具合にゆっくりと湯船に体を沈めていく。一気に溢れた湯が洗い場からも湯気を上げさせる。シリウスは脊髄反射的に体をぶるりと震わせた。これは気持ちがいい。そして腰を浴槽の底に落ち着けてから、足を伸ばして浴槽いっぱいに体を広げた。これは、はぁ、心地よさのため息、背中が軽い、緊張続きの体と心に癒しを与えてくれる。湯で顔を洗い、ふと小屋の壁の上方を見ると丸い窓と目隠し用の竹の柵がある事に気が付いた。その窓の下には、壁から浴槽まで伸びる竹筒もある。窓の方から、

「湯加減、いかがですか? 水を足しましょうか?」

とコッパの声が聞こえてきた。

「大丈夫、最高だよ」

あの竹筒は湯溜め用と水の調整用だ。またコッパの声。

「食事の用意が出来ましたので、上がられたら食堂までお越しください」

「ありがとう、助かるよ」

「それと、浴槽の脇の棚に、柑橘の実を入れた網がありますよ。湯船に浮かべて季節をお楽しみください。それでは」

トタタっと駆ける足音がして、コッパの気配はなくなった。シリウスは湯に浸かりながら、顔を左右に向けてみた。浴槽の右の壁に紐で編んだ網がある。中には黄色い何かの実が入っている。シリウスは手を伸ばしてそれを掴むと、鼻に近付けて匂いを確かめた。確かに、蜜柑のような橙のような独特の爽やかな香り。これを湯に浮かべるのか。コッパに言われた通り優しく目の前の湯に網ごと浮かべてみた。張られた湯の表面にさっと柑橘の香りが広がる。癒しの効果。こんなに贅沢に風呂を味わう文化があるなんて、世界にはまだ知らない事がたくさんある、そして自分は世間の事を何も知らずに生きて来た。どこかで生まれて3才になる頃には師匠の元で修行を始め、あの渓谷から出たのは数回程度、一番近くの人里に翡翠や装飾品の部品など魔導剣士に必要な道具を買いに行っただけ。これは自分で選んで自分で作らないといけない修行でもあった。その他の食事や生活のあらゆる事は世話役に雇われた人々がやってくれた。それは幸せで贅沢な環境だったのだと、旅に出たシリウスは思い返していた。質素だったが、裕福だったのだ、あの生活は選ばれた者だけが未来の魔導剣士になる修行を受ける事が出来る特別な場所、修行に専念出来る事自体が裕福だったのだ。だがその環境は壊されてしまった、一夜にしてそれを破壊した悪魔が憎い。

 風呂の小屋の屋根の隙間から赤い空が見える、もう夕方になっている。長く風呂に入り過ぎて感覚が呆けてしまった。浴槽の縁に預けていた頭を上げて、腕を縁に掛けた。上半身の力で腰を持ち上げ、湯船から体を出した。のぼせて意識がなかったのではないようだ、草原を進んでいた時から既に昼は過ぎて、ここに到着した時にはもう夕方が近かったらしい。シリウスは布巾を絞ってから体を拭いて、また絞って振って広げた。洗い場から元の脱衣所へ戻ると、すっとする爽やかな空気が肺に満たされた。おそらくここにも良い香りの何かが設置されているのだ。シリウスは着替えを置いた籠の中から湯上がり用のローブを取り出してふわりと纏い、自分の荷物を脇に抱えて脱衣所を出てコッパの姿を探した。やはりタイミング良く駆けてきたコッパは、

「荷物、お預かりします。装飾品以外は洗っておきますね」

とシリウスが脇に抱えていた荷物と服を受け取り、

「まっすぐ行くと食堂です」

と言ってまた駆けて行った。忙しい子だ、と思わず口に仕掛けるが、1人で来客の世話をすべてしていると見えて、その手際の良さに尊敬の念の方が言葉を上回った。コッパは廊下の中間まで進むとすぐに右へ曲がって行ってしまったが、廊下はまだ正面に先が続いている。食堂は正面を進めという事だろう。シリウスは魔導のアクセサリーだけを持って、ローブのまま廊下を進んだ。コッパが曲がった廊下へ来るまでに幾つかの部屋の扉があった。この平家は狭そうに見えて来客用の様々な用途の部屋や機能を凝縮している機能的な家なのかもしれない。またそれを感じさせないような工夫も感じられる。来た時には気付かなかったが、廊下の足元が所々で明るいのは、その壁の一部にガラスが張られ、中には蝋燭が灯されているからだ。毎日か来客時に夕方前には廊下の蝋燭の全てに火を灯していくのだろう。廊下の天井は半円のアーチが続いていて、そのアーチにも壁の上端から灯していると思われる明かりが反映されている。廊下の先は食堂だと言っていた。そちらは明かりが多めに配置されている。シリウスは廊下を進んでコッパが曲がった角を一瞥して通り越してさらに進んだ。この先が食堂という事は、コッパが曲がった先は厨房だろう。パタパタと走る足音が聞こえる。そんなに急がなくても大丈夫、ゆっくり行くよ。曲がり角を過ぎてさらに廊下を進むと、天井の梁から吊るされた布が目の前に現れた。真ん中で縦に切れ込みがあり、その切れ込みの左右には一文字ずつ何やら見たことのない象形文字のような形の字が描かれている。扉ではなく布を垂らして敷居とするのは、大陸部でも店や町の施設で見た事がある。暖簾という物だ。シリウスは暖簾の布を片腕で押し上げて、廊下を先に進んだ。暖簾を越えた先は、これまでの廊下や天井とは異なり、豊富な明かりで満たされた別世界だった。食堂、この空間がそれなのはすぐに分かった。食事に明かりは必要だ、明かりがない食事はどんなに美味い料理も味気ないものだ。食堂は広く、10人程度が肩身を気にせずに座れるだけの大きな長方形の机が真ん中を占めていた。座卓を囲んで皆で皿を共有し合うスタイル。その机の端に、先客がいるようだった。毛むくじゃらの獣人。装備を外した裸のままで、座席に胡座をかいて机の上の飲み物と向き合っている。暖簾の脇には武器の置き場所、そこに立てかけてある見たことのある折れた斧、鎧の胴のプレート部分が無造作に掛けられていた。改めてグレンに向き直ると、グレンもシリウスの登場に気が付いて、

「よぉ、大将、一緒にどうだ?」

と相席を誘ってきた。お酒を飲んでいるのか、目と鼻の間の旋毛から見える肌がやや赤味を帯びている。そこへまたトタタっとコッパの足音が聞こえ、部屋の左の壁に開けられた料理の受け渡し用のカウンターにコッパの上半身が姿を現した。

「ダメですよ、こちらの方は旅で疲れているんです、栄養のあるものを用意してあるんです、グレンさんは1人で飲んでいてください!」

それだけ言うとコッパはまた姿を消した。グレンは肩を竦めて、

「だってさ、取りに行ってやりな」

とシリウスを鼻先でカウンターへ促した。シリウスは座席に座る間もないまま、素足で食堂に敷き詰められた編まれた草の床を歩いて壁際のカウンターの前へ進んだ。経験したことのない床だ、これも東の島国の文化なのだと思う。シリウスが足の裏を気にしていると、グレンが言った。

「それ、タタミっていうんだぜ。アマテルの文化、知ってるか? この大陸の東の端にある島。優美で強い、礼儀を重んじるし、相手を尊敬する、その代表的なのが、塀のところでやった礼ってやつだ、これから殺す相手に礼、殺した家畜を食べる時には、いただきます、だ。大陸の奴がそんな事を考えるか? このアッタは、アマテルの離宮って呼ばれているんだぜ、くれぐれも礼儀には気を付けなよ」

一気に色々言われた情報は、ほとんどシリウスの頭には残らなかった。礼儀に気を付けろ、それくらいは分かった。この敷地に入った時から、それは何となく勘付いていたから。だが、実際にどんな礼儀を求められてそれに答えられなかったとしても、シリウスは気に留めるつもりはなかった。なぜなら、相手は特定の国の礼儀を知らない事を知っているからだ。ここの空気は、礼儀不足を咎めるような空間ではない。知らぬなら、知らないままに、尊敬を主として相対すれば良い。その考えは、シリウスの肩の緊張を解す役割もあった。

 カウンターの中を覗き見ると、既にメインディッシュと思われる皿には料理が乗っており、幾つかの小皿と、椀に白い米という炊かれた物、それらが盆に乗せられていた。これも見た事は無いがこの盆のひとつで一人前という事なのだろう、出す時も片付ける時も合理的で簡単だ。厨房の奥から来たコッパは、シリウスに笑顔を向けながら、最後に持って来た汁物の椀を盆の隙間に乗せてから盆ごとカウンターの板の上に乗せて、

「どうぞ」

と両の掌をシリウスに広げて見せた。

「ありがとう」

シリウスは盆の両端を持って体を半回転させ、目の前の机の上に盆を置きつつ座席に着いた。そこが長方形の机の真ん中だからか、グレンは机の端から尻を寄せてきてシリウスの正面に陣取った。異国人が物を食べる様子を観察したいのかもしれないが、シリウスは一瞬だけ視線を合わせて料理に目を向けた。

 盆の上の皿は全部で5つ。中でも照りが明かりに映えるメインの逸品が食欲をそそる。白い米の腕、これは大陸でも普及している麦の代替の主食で捏ねて焼き上げなくても良いから釜だけで作れると評判だ。様々なおかずや汁物に合うし、戦時には湯を沸かすだけでそれなりに腹が満ちると戦士たちにも評判が良い、ただ大陸の戦士たちはパンの代替品として食しているため、もちもちとした食感とパリパリしたパンには違和感を覚えているようだ。ニつ目の腕は汁物。白茶色に濁った汁に野菜や山菜が泳いでいる。これはこの地域で採れた物を腕物に仕上げたものだ。盆の中央にあるのは、サイズ的には小豚の胴を輪切りにして焼いてから、背骨を中心に左右に割って煮付けた骨付き肉の大皿。花が咲くように皿から上へ肋骨が広がっている。残りのニ皿は野菜を漬けてスライスしたものと、青菜を炒めて辛子で和えて胡麻を振ったもの。疲れた旅人には重い内容だが、風呂で疲れをとったシリウスは食欲が湧いて全ての皿を空にする余裕があった。盆の手前に乗せられていた箸を手に取って箸の作法を確かめると、どれから手を付けようか箸の先を迷わせた。それをみて猪口を煽ったグレンは、

「花咲肉だぜ、高級品だ、手で骨を掴んで捥いで、かぶりつくんだ」

とシリウスに助言した。シリウスはグレンの助言に頷いて、箸を盆に置いた。シリウスは片手で花咲く肉の骨のひとつを掴んで、下と左右へ骨を揺すって肋骨肉にひとつを取り出す。肉は柔らかく解れ、骨も隣接する骨から綺麗に滑るように外れた。左右の肉からとろりと体液が流れ落ちる。取り外した肉からも汁が流れ骨を伝って汁がシリウスの指まで浸す。骨に釣られて持ち上げられた肉は、骨を僅かに震わせるだけで骨から離れて皿に落ちそうだった。シリウスは礼儀など構わずに白米の椀をもう片方の手に持って肉の下に構えた。タイミングよく、骨から綺麗にするりと外れた肉は白米の椀の上にぽとりと落ちた。片手に残ったのは骨だけだ。シリウスは椀を盆に戻して両手を盆の脇に据えられた布巾で拭き、改めて米の椀を持ち直して箸で肉と米をかき混ぜながら口は流し込んだ。そしえ野菜の漬物と青菜の炒め物を一箸ずつ摘んで口へ放り込むと、汁物をずいっと半分ほど飲み込んだ。ふう、と一息を吐いて、改めて料理の味を思い返す。白米もどれも腹の欲求を満たしてくれる、腹はまだこれらを欲しがっている。また箸を置いて花咲肉の骨のひとつに手を掛けようとすると、向かいのグレンがいった。

「あんたは食べ方知ってるよな、花咲肉は米と合わせてかき込む、汁で味を広げる、俺が好きな食べ方だよ。上品な方々はさ、箸で骨から一筋ずつ肉を外して食べて、米は少しずつ口へ運ぶ、小鉢と汁物も思い出したようにちょっとだけ口に入れる、そんなのは儀式だよ、料理を味わっているわけじゃない、やっぱり、こういうのはかき込むのが一番だぜ」

酔っ払っているとはいえ、グレンの言う事には一理ある。油やスープや汁物は、礼儀を用いて食せば本来の味を損ねるものだ。メインディッシュも同様に旨味のタイミングを逃せば損をした気になるし、パンや白米を口に含むタイミングも同じ事が言える。旅の途中の帝国領の食堂ではホール係から厳しく作法を指導されたものだが、結局、味は何も覚えていない。二度と行かないと思っただけだった。人の料理の文化は先鋭的でありながらも、料理以外の様々な作法も付随させてくるのが厄介で、味に辿り着かせてくれない、それがシリウス個人が思う人の社会が築いた土台のない幻の仕組みを夢想する正体だった。その幻の上に皆が立っていて、幻の土台に気付かないまま社会を成立させようとしている、それが現代の大陸の弱さだと実感している。

 コッパは机の脇にやってきて、シリウスの食事の進みを見に来た。片手には食事用のナイフを携えている。

「どうですか、豚の半身を使った煮豚です。切り分けますね」

言うなりコッパは花咲豚の真ん中と骨の間にナイフでそれぞれ切れ込みを入れて行って、それぞれの骨付き肉を倒して皿の上に並べた。

「こうすると、骨から肉を落とさずに直接食べられますし、ご飯の上で解れやすくなります」

それを見ていたグレンは皿に手を伸ばし1本の骨付き肉の骨の部分を摘んだ。

「俺にも1本くれ」

シリウスは左の掌を上に向けて「どうぞ」と促した。グレンは皿の上に持ち上げた骨から落ちる汁が止まるのを待ってから、ゆっくりとやや顔の上の方へ肉を持っていき、口を開けて、肉の部分を上から口の中へ降ろしていきながら、一気に噛みついた。歯で肉を刮ぎ取りつつ、骨だけを口から引き抜く。肉が一片も残っていない綺麗な骨になっていた。豪快な食べっぷりだが理にかなっている、あの骨の綺麗さがそれを物語っている。グレンは何度も咀嚼して肉を堪能し、ごくりと飲み込むと骨を皿に戻した。

「ご馳走さん、相変わらずコッパは料理がうめぇや。何か酒のつまみはないのか?」

「そうですねぇ、グレンさんの種族は何でも食べて舌が肥えてますから、虫の珍味なんてどうです?」

コッパは意地悪で言っている様子はなかった。無垢な顔でグレンを見つめている。

「虫? まぁ、酒には合うか、パリパリのやつ頼むぜ」

やはり虫を食べる文化らしい。コッパは「はいっ」と返事をしながら踵を返して厨房へ戻って行った。グレンは陶器の先が絞られた筒のような器から、小さな小鉢のサイズの器に、酒らしき水を注いで片手でくいっとそれを飲み干した。シリウスは切り分けられた骨付き肉のひとつを摘み、皿から持ち上げてグレンがやったように口を開けて上から肉を口内に収め、歯で肉を削ぎながら骨だけを取り出して皿へ戻した。口の中が肉でいっぱいだが、何とか咀嚼する隙間を作って何度も噛み締めた。食べ方によってこれほど旨味の感じ方が変わると言う事を初めて知った。肉は豪快に頬張った方が圧倒的に美味い。噛み切った半分の肉を飲み込んだところで、白い米の椀の縁を下唇に当てて米を口内へかき込む。今度は肉と米を合わせて咀嚼した。体が求めていた栄養と幸福感、この僻地でこういった物に出会えるなど、誰が想像出来ようか。米の柔らかさ、硬さも肉をおかずに食べるために炊かれた丁度良い食感と甘み。シリウスは続けて2本、3本と骨付き肉を手に取り白米の上に乗せて、肉と米の合わせ技を味わいながら骨を綺麗にして皿に戻した。そこで米は尽きていたが、まだ骨付き肉は1本残っている。汁物と小鉢もある。今度はこれらと合わせてみる。

「いい食べっぷりだ、よほど腹が減っていたんだな、今度、酒でも一緒にやろうや、にいちゃん」

シリウスは最後の骨付き肉を手に取りながら、「是非」と言って直後に肉にかぶり付いた。肉を骨から外しつつ、啜るように肉を口内へ収めて骨を皿に戻し、小鉢の青菜を口へかき込んだ。それをしばらく咀嚼してから、野菜を漬けたものも口へ投入してさらに噛み砕く。口の中が溢れそうになっていたが、咀嚼を繰り返して何とか全てを飲み込んだ。口の中に残った油を洗い流すために汁物に手を付けて、ぐいっと半分以上を飲んだ。ふぅ。最後に汁物を一飲みして椀を空け、盆の上の料理は全てなくなった。思わず、はぁ、と満足の息が出た。これで3日は持ちそうだ。とにかく、満足と感謝。たしか東の島の文化には食べ終えた時の礼儀もあった気がしたのだが、思い出せない。とりあえず盆に向かって礼をしてみた。「ありがとう」。

 向かいのグレンはコッパの足音に気が付いて立ち上がり、机を避けて壁のカウンター台まで進むと、コッパから皿を受け取って元の席に戻ってきた。コッパはカウンターの台から身を乗り出してこちらを確認して、すぐに厨房から食堂まで出て来てシリウスの隣に座り湯呑みのコップをシリウスの机の前に置きつつ、顔を近付けてきた。

「もう、ご馳走様ですか?」

そう、その言葉だ。シリウスは「ご馳走様」と言って目の前の盆に礼をして、コッパに笑顔を見せた。コッパは「はい、片付けますね」と言って盆を持って厨房へ駆けて行った。ご馳走様、たしか、命を頂いた事に対する感謝の言葉、星を巡る命がひとつ、他の命を生かすために全うされたという事。その命も星へ戻り循環する。魔導剣士の教えにも通ずるところがある。シリウスはコッパが置いてくれた湯呑みのコップを手に掴む。暖かい茶。熱過ぎず、食後の口内を洗浄してくれる飲み物だ。そのコップの縁を口に添えて、中の香ばしい暖かい湯を飲んで、料理で興奮していた心を落ち着ける。

「腹はいっぱいになったかい? 今度は俺と酒でもどう?」

グレンは陶器の筒の焼き物の先をシリウスに向けてきた。酒はまともに飲んだ事がない。師匠のルシウスが寝る前に嗜んでいたのは見た事があるが、興味を持ってお願いし、指の先を酒で濡らして舌へ運んでみたが、それだけで頭が沸騰したように揺らいで体の平衡感覚がなくなった。それ以来、酒は毒だと思うようになり、口にしていない。「お酒は、ちょっと……」と断ったのと同時に、コッパが食堂へ駆けて来た。

「ダメですよ! 次はお香です。魔導剣士様、こちらへどうぞ」

コッパは手を差し出しながら、食堂の反対側の廊下へ駆けて行った。あちらはさっきの風呂の方だ。グレンは構わず皿の上の足の長い虫の解体を始めていた。パリパリと言っていたから蜂の子の揚げたようなものを想像していたが、皿の上にあるのは拳大もある立派な脚を持った大ぶりな昆虫を揚げたものだった。酒も無理だが、おれも相当に無理だ。早く食堂を離れた方が良さそうだ。シリウスは膨らんだ腹を持ち上げて席から立つと、コッパが案内してくれた廊下へ歩みを進めた。

 コッパは先ほど通り過ぎた廊下の途中でこちらを向いて待っていた。シリウスがコッパの前に辿り着くと、その隣の壁が扉になっている事が分かった。先ほど通り過ぎた時は、倉庫か客用の寝室だと思っていたが、さらに別の用途があるようだ。コッパは扉の一部を押してから横に開き、部屋を開放した。部屋の中には部屋奥へ縦長に配置されたベッドだけ。部屋のサイズも丁度ベッドのサイズに合わせられており、左右の壁には蝋燭に火が灯されたガラス張りの小窓、奥の壁には受け皿のような壁に備え付けられた突起。シリウスはコッパの顔を見た。コッパはどうぞというように手で部屋の中へ促した。ベッドに敷かれた布団は清潔そのものだったが、コッパはそれに向かって目を細め、両手を合わせて何かを念じる。むっ、とコッパが気を開放するのと同時に、布団はボンと空気に満たされて二倍の厚みになった。この子が使ったのは風の魔導、空気を圧縮して一点で暴発させる術だ。この短時間にコッパには何度も驚かされているが、今の術には一番驚いた。魔力使い、あるいは魔導剣士の卵。

「さ、仰向けに」

シリウスは促されるままに、湯上がりのローブのままベッドに仰向けに横になった。布団の柔らかさはシリウスの体重の全てを受け止めて深く沈んだ。思わず両手と両足を広げて布団の優しさを体で味わいたくなって、布団に体を預けていた。

「お香を炊きますから、しばらく眠って下さい。外の事は何もお気になさらずに」

シリウスはコッパの行動に目を向けていたが、コッパは奥の壁の受け皿に火を灯してから、その火が維持される事を確認して、シリウスに一礼をしてから部屋の扉を閉めて行ってしまった。警戒せずに寝る事など、この旅を始めてから一度もなかった。しばらくして、甘い花の香りが部屋に満たされていった。お香、といっていたが、これがその香りか。花を燃やしたのでもない、炭でもない、石を擦り合わせたような、鼻腔を刺激する優しい匂い。鼻から肺に吸い込んで、静かに鼻から吐き戻す。その過程で頭が軽くなり首の緊張が和らいていくのが分かる。このまま寝てしまう、抵抗なく寝に入る事が正しいと思える。寝てしまおう。おそらく朝まで寝ぼける事もなく深く寝られるだろう。

 シリウスは寝た時と同じ天井の景色を見て目覚めた。部屋の暗さも壁の蝋燭の火の明るさもそのままだ。半日も寝ていたのではないかもしれない。数時間だろう、お香の香りはまだ部屋を満たしている。それなのに体の疲れは全く感じない。上体を起こしてベットに腰掛けて、腕を伸ばし、足を曲げても倦怠感が一切ない。香りだけでこれだけ回復出来るものなのか、コッパが用意してくれたお香が特別なものなのか。コツコツ扉を叩く音と扉の先からコッパの声。

「お寝覚ですか?」

様子を伺いに来たのだ。寝る時間まで概ね把握している。シリウスは四肢の疲れを感じない事を確かめて、「うん、もう大丈夫だよ」と扉の向こうに返事をした。コッパは部屋の扉を静かに開けて、礼をして部屋に入ってきた。奥の壁の受け皿のお香を振って火を消してから、一旦廊下に戻っ洗われたシリウスの着替えを抱えて持ってきて、着替えを促した。そういえばこれまでずっと湯上がりのローブのままだった。コッパは着替えを布団の上に揃えたが、「まだ夕方です、もっとねますか?」と聞いてきた。少し眠気はあったが、体は正常そのもので、旅で負った小さい無数の傷もいつの間にか痛みが引いていた。「起きるよ」とコッパに返事をして、着替えを受け取った。

「はい、それでは、僕の役目はここまでです。お屋敷のサンガ様がお待ちですので、着替えたらお屋敷へどうぞ」

コッパは最後にぺこりと頭を下げて、部屋を出て行った。受け取ったシリウスの服は、旅の汚れが落ちて新品のような真新しさに蘇っていた。マントもズボンも、汚ればかりか切れた箇所も糸で縫われて補修してある。これもコッパがやってくれたのか、恐らく寝ている間に済ませてくれたのだ。器用で賢い子、魔導の心得もあり、将来有望な少年だ。

 シリウスは着替えを済ませて髪を紐で結ってから翡翠のイヤリングを両耳に付けた。最後に腰の帯に短剣を通して傾きを整えてマントを羽織る。部屋を出て廊下を戻り、入り口に脱いできた革靴に足を通そうとした時に、靴も汚れが拭かれている事に気が付いた。開けられた扉の外にコッパがこちらを向いて待っている。シリウスは靴を履いて外に出てコッパに近付き、

「本当にありがとう」

と言って礼をした。コッパも礼を受けて礼を返す。

「こちら、お館様のお屋敷です。中でサンガ様がお待ちですよ」

コッパは右手でこの敷地内で一番背の高い合掌造りの建物を指し示した。シリウスは頷いて、その建物の入り口の扉の前まで進んだ。後ろを振り返ると、コッパが笑顔でこちらの様子を見ている。先ほどの平家の入り口にはグレンも腕組みをしてこちらの様子を眺めている。シリウスは扉に向き直って、取手に手を掛けて引いてみた。

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