第3話 隠れ屋敷
ミッドランドは全大陸の4割に迫る広さの中央大陸だ。大陸の中央には銀星帝国の首都、北と東に長大な山脈、西に豊富な森林、南に砂漠地帯と数々の丘、大陸を斜めに割くように伸びる川、山脈に連なる湖、大陸の周囲に大海が広がり、各地には栄えた都市が複数、道も舗装され、農地も牧場も多々ある。すべての物が揃っているこの大陸は、いまやすべて銀星帝国の所有物となっていた。
星には8つの大陸があるとされており、新王歴を境に、最も巨大なミッドランドを中心として、それぞれの方角にある大陸にその方角の名前が割り振られた。元は銀星帝国が侵攻や交易を行う際に分かりやすいように名付けた俗称だったが、500年経った今では、その俗称が定着して正式な文書にも使用される名前になった。それを不服とする種族はおり、元々そこに住んでいた人類もこれを拒否し続けていたようだ。しかし、幾度かに及ぶ悪魔との大戦の勝利に貢献した銀星帝国の権威は、各大陸の民にとっても無視出来ないものになっていき、帝国が付けた名称は徐々に定着して、民たちも受け入れざるを得なかった。
しかし、帝国に敗北して大陸を追い出された人々は、帝国に不満や復讐心を持つ民や、敵対する勢力を集めて連合軍を築いて、帝国の侵攻を星の意思に反する行いとして、自らを神聖軍と呼び対抗した。かつての悪魔との大戦で仲間であった国々が、それぞれに立場を変えて星の中で対立した。人々はそれを人の大戦と呼び、荒れた惨状と人同士の殺し合いと騙し合いに嘆き、また天地が割れると噂した。その想像は現実となって、悪魔は再び地上に現れた。
シリウスが辿り着いた名無しの草原は、ミッドランドの中にあっても、帝国の支配が及んでいない小さな盆地のようだった。誰も支配しようとしない、得るものが何もない奥地、その草原の南北に伸びる小さな川を東側へ、対岸の草むらまで一飛びに飛び越えたシリウスは、敵意のない草原の地面を踏み締めて草を倒し休憩出来る場所を作っていった。その作業中に枯れ枝を集めて広い束ねていく。そこで腰を下ろして荷物袋の中から一巻きの包みを取り出した。包みの紐を解いて、中から火を起こす石と干し草、糸と釣り針を選んで摘み上げる。目の前の草を幾つか根本から引き抜いて地面を露出させ、周辺の土を積んで一握りの小山を作り、持っていた干し草を小山の上に安定させて、火打ち石を何回か叩いて干し草に火種を移して火を起こした。腰を据えた地面の周囲から枯れた植物を集めて火種の上に散らし、火を上げてから、片手に束ねていた枯れ枝をその上に積んで火を大きくして寿命を伸ばした。あの塀を越える前に、火を焚いて狼煙を上げる必要があると、旅の途中に出会った商人から聞いていた。そうしてこちらの存在を伝えないと、あそこには入れない。入れて貰えない。これから行くという合図、招き入れるかどうか、判断してもらう儀礼。そういう儀礼が必要な文化、人々なのだ。両膝を広げて草の上に胡座をかいたシリウスは、釣り針に糸を通して結びながら、塀と反対側の小川に顔を向けた。火を起こすなら周辺にある素材から日持ちする食料を作っておきたかった。火で燻った食料は包んでおけば雨が降っても保存が効くし、物々交換にも使える。何より空腹だ。小川には小さな魚の影が見えた、小魚だから針を飲み込む事はないが、影に向けて針を引っ掛ければ数匹は当たりがあるかも知れない。小魚は草を編んで網にして川に埋めておけば十数匹も勝手に獲れるものだと旅の狩人から教えて貰った事があるが、まだ試してみた事はない。網の作成はとても時間がかかる作業だから、多くの漁師は地元の同じ川の同じ場所に据える籠を持ち、同じ季節には日々同じくらいの成果を上げるのだという。生活のために日々の成果を上げるその技術は、この草原よりもさらに東の島国から伝わった伝来の技術であるらしい。それをみた事もない今の自分が即興で出来るものではないと確信している。引っ掛け漁は故郷の渓谷の川でも成功した事があるから、魚の大きさは違えど、成功するはずだと思える。
小魚に釣り針を投じ、影が針を掠めるたびに糸を引いて数回、この川の魚は引っ掛けに慣れていないと見えて五割ほどの確率で小魚を揚げる事に成功した。その調子で一時間は過ぎたか、数十の投下に対して10匹ほどの魚が獲れた。だが大きくても人差し指のサイズを越えるかどうか。引っ掛け漁でこれだけ獲れたのは魔力の動きの見極めがあったからでもある。小さくても数があれば良い。それらを焚き火の炭化した枝に乗るように並べて燻し焼く。小魚だから数十分もすれば火が通って乾いて、糸に通して持ち歩けるようになる。
シリウスの焚き火の煙は風に曲げられながらゆっくり空へ上がっていく。これなら確実にあちらからも視認出来るはずだ。シリウスは小魚を裏返して、焼き加減を見ていく。革の包みから今度は小瓶を取り出して蓋を開けた。その中身を小魚に軽く振ってかけていった。これは大陸の端の漁村で手に入れた塩だ。塩があるだけでどんな食材もご馳走になる。シリウスは両面が焼けた小魚を指で摘んで背の部分に齧り付いた。うまい、空腹には堪らない味だ。また海に出たら今度は大きな魚を釣って同じように試してみたい。この草原には船で渡ってきたが、船の上から釣り針と糸だけで魚を釣るには熟練の業が必要でシリウスにはコツを掴む事さえ出来なかった。悪魔の追撃を恐れていたせいもあったが、早々に無理だと判断して船を進めた。また漁村や市場があれば、魚を手に入れてみよう。大きな魚の背肉に齧り付けば、どれだけ欲求が満たされるか想像が出来る。シリウスは続いて頭から尾まで全てを口の中に入れて咀嚼した。甘く感じる苦味、頭の中の砕けるもの、骨も噛むほど甘みが出る。尻尾は香ばしく噛み砕ける。量は少ないが味は十分。シリウスは続いて2匹を食べ、残りはエラの隙間に糸を通して束ねて並べ、その糸を腰の帯に通して持ち運べるようにした。そろそろ大丈夫だろう。シリウスは火が消えかけた焚き火を靴で散らしながら鎮火させ、周囲の土をかけて火気をなくした。開いていた革の包みも紐で縛り、荷物袋へしまった。東の山の麓から上がっていた煙はすでになく、まるでそれが合図かのように、魔力を集中させなくても屋敷の塀が見えるようになっていた。あちらも準備が出来たという意味だろうか。シリウスは再び草むらを掻き分けながら屋敷へ向かった。
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