第3話 命

 ガラス容器の中が赤く染まる。それが誕生の印だった。


「出たわ」


 朱音が、断水の後に水道から濁り水が出たことを喜ぶ程度の声を上げた。彼女の感情の変化は、千坂にもつかみきれないものだった。大事件にも無関心な反応しか見せない時もあれば、小さなことでひどくはしゃいだり、落ち込んだりする。


 彼女が赤く濁った溶液の中から赤い生き物を取り上げた。


 まさに赤ん坊だ。千坂は、それが人間の形をしていたことにホッと安堵する。


「亮治さん。そこのワゴンをこっちに。バスタオルの乗っているやつ」


 赤ん坊を抱いた朱音が指示する姿は、プロフェッショナルそのものだ。


「ホギャー」


 赤ん坊が泣きだしても動じることなく、バスタオルの上に赤ん坊を置くと臍の緒を切る。


「女の児ね」


 姿形を見れば、そのくらいのことは千坂にもわかる。わからないのは、赤ん坊の父親だ。


「これは、誰の子供なんだ?」


 千坂は、自分の声が上ずっているのがわかった。朱音のことだから、自分のDNAを引き継ぐ人間を創造したのだろう、と考えていた。


「もちろん私の子よ」


 朱音は、どうしてそんなことを訊くのだ、といった表情をしている。


「朱音のクローン?」


「自分の分身に興味はないわ」


 冷たい言葉に千坂の胸がかき乱される。


「まさかとは思うが、僕の?」


「いいえ。安心して。あなたのDNAは使ってないわ。精子バンクから譲ってもらったの」


 朱音が口角を上げた。


 胸を、安心がスーッと落ちて行き、代わりに僅かばかりの嫉妬が腹から胸にこみ上げてくる。そしてひとつ、ひらめくものがあった。


「まさか。……まさかとは思うが、クマムシの遺伝子を組み込んだりしていないよな?」


「あ……」


 明るい驚きの表情を見せる朱音。


「そうすればよかったわね。きっと忍耐強い子供になる」


「全く……」


 冗談を言う朱音に向かって顔をゆがめた。


「亮治さんは、私のことをよく知っているのね。本当は、クマムシの遺伝子を組み込んだのよ」


 一呼吸おいた朱音が、真面目な顔で言った。


「なんだって!」


 驚いた千坂を見て朱音が喜んだ。


「組み込んだのは、赤ちゃんの方ではなく子宮の方だけどね。成長速度を上げるためよ。この子宮、生まれて2年目なのよ。すごいでしょ?」


「たった2年で出産可能なレベルに……。いや、今の問題はそこじゃない。この赤ん坊のことだ。研究所側は知っているのかい? これは倫理の問題だよ」


 千坂は早まる脈拍を抑えるために深呼吸をしなければならなかった。


「倫理?……」彼女はそれを始めて知ったというような顔をした。「……答えはノンよ。計画書では、猿の人工出産ということになっているの。死産だったということにしておくわ」


「こんなことをして、この子が幸せになれると思うのか?」


 ガラス容器で赤ん坊の産湯うぶゆをつかう朱音に向かって言った。


「そうよね。子供には親が必要よね」


 声はしおらしかったが、振り返った顔はと微笑んでいる。


 千坂はいやな予感がした。実際、朱音の考えていることは想像が出来た。自分に父親になれと言ってくるに違いないのだ。


 しかし今は、きっぱりと断ろうと思った。赤ん坊の将来を考えたなら、ペットを育てるような感覚で受け入れてはいけないことは明らかだ。


「えっと、ここに座って」


 朱音が隅っこの椅子を指す。千坂が座るとバスタをルにくるんだ赤ん坊をその腕に乗せた。


「エッ、おい……」


「はい。そっと抱っこしていてね」


 今にも壊れてしまいそうな命が、千坂の手の中でもにょもにょと動いている。見た目はお世辞にも可愛らしいものではないが、とてもいとおしい存在ものに感じた。


「今、準備をするから……」


 朱音が産着を用意した。それから濁った溶液を流し出し、新しいものに入れ替える。


「私、こっちを片付けないといけないから。あぁー、それから名前を考えてあげて」


「名前……」


 赤ん坊に視線を落とす。それは恐るべき速さで白味を増し、猿から人間に変化していた。その光景は神秘的でさえあった。そして、自分の手の中で息づくそれが、刻一刻と自分の所有物であってほしい、そうしたいと感情と欲望を刺激した。生物の本能がそう訴えるのだ。


 千坂は朱音が非合法に子供を作ったことを怒れなくなった。


「君の父親は誰なんだい?」


 赤ん坊は、まだ見えない目で千坂を見ていた。しばらくはじっと見つめるだけだったが、何度か声を掛けると赤ん坊は泣いた。まるで拒絶されることを恐れているように。


「ホギャー……」それはただの音ではなく、赤ん坊の意思表示だった。


「あっ。えっと……」それの意味が千坂にはわからない。


「飲むかしら?」


 朱音が用意していたミルクを温めて千坂に押し付けた。それを赤ん坊の唇に当てると、赤ん坊が吸い付いた。


「たくさん飲んで大きく育てよ」


 ミルクをあげながら話しかける。


「しかし、君のお母さんには困ったものだね。何を考えているものやら。……これから君はどうするつもりだい?」


 答えるはずもない赤ん坊に問いかけ、朱音に視線を移した。ステンレスの棚を一所懸命にふいている後姿は、研究者のものではなく、台所を掃除するような紛れもない母親の姿だった。


「君は……。そうか……。名前が必要だったね。元気で健やかに成長する名前が良いね。女の子だから可愛らしいもの……。ん?……それは偏見だって?……偏見でもいい。僕は君に可愛らしい女の子に育ってほしい。だから可愛らしいものを、あまり奇抜なものはダメだ。いじめられたら大変だ。……ママに似れば問題ないね。ママは変わり者でいじめられたみたいだけれど、あんなに可愛らしく、強く育った。まあ、男を見る眼はないけどね」


 無心にミルクを飲む赤ん坊を見つめながら名前を考えた。


「名前、決めてくれた?」


 声を掛けられ、千坂は頭を上げる。額に汗する朱音がまぶしく見えた。


「あ、ごめん。見惚れていて、まだだ」


「もう。名前がないと呼べないじゃない」


 子供のように唇を尖らせる朱音。……子供を持つと女は強くなるといわれるが、それは、自分の腹を痛めていなくても同じらしい。


「僕が決めていいのかい?……僕は父親でも何でもない」


 それは遠慮ではない。今まで何も教えてくれず、いきなり赤ん坊の父親にしようという彼女に対するちょっとした嫌がらせだ。


「非公式ながら私の夫でしょ。多少の苦労はしてもらわなくっちゃ」


「苦労って。君は仕事を……、研究所を辞めるのかい?」


「あら、どうして?」


「この子を育てるんだろう?」


「仕事は辞めないわよ。育てながら続けるわ」


「どうやって育てるつもりだ。君が研究をしている間は試験管の中で、というわけにはいかないだろう」


「あなたがいるじゃない」


「僕?」


「そうよ。私が仕事をしている時は、亮治さんが面倒を見るのよ」


「ボクはダメだ。みたいに途中で倒れたらどうする」


?」


「君のクマムシの世話をしていた時だ。君が来なかったら、僕は死んでいたんだ」


「もう、6年前のことじゃない。あれから……」


 普通なら体力もついただろうと言うところだが、朱音は黙った。千坂の体力は6年前と変わらない。現状を維持するのが精一杯な状況だ。


「まぁ、そこは気力で頑張って。今度は人間の赤ちゃんなのよ。あなたが頑張らなければ、この子は生きていけないの」


 千坂は朱音の視線を追って赤ん坊の顔に見入る。とても見放すことなど出来ない、か弱い命がそこにあった。朱音が言うように、頑張るしかないのか?……できるのか?……自問する。


 朱音が研究装置内の臓器のデータを確認し、溶液の調整を行う間、千坂の視線は赤ん坊に釘づけだった。愛らしい赤ん坊を見ていると、その子が自分の実の子供でないのが残念に思えた。


「クマムシの遺伝子を組み込んだ子宮からこの子が生まれただなんて、神様が聞いたら驚くだろうな」


 誰にというわけではなく、朱音の研究に対する驚きを口にした。


「そうかなぁ。人間はとっくの昔に様々な生き物のクローンを作り始めた。今更驚かないと思うわ」


 朱音の返事はまるで他人事だ。


「相変わらず、君は強いな」


 視線を朱音に移す。


 2人の視線が絡まると、朱音の方から視線を外した。強気な言葉に反して、無垢むくな少女のような表情だった。


 子供が産まれてから1週間後、千坂と朱音は赤ん坊を抱いて区役所に足を運んだ。婚姻届と出生届を提出するためだ。出生証明書は医師である朱音が書いた。


「アオイさんですね。可愛らしい名前です。奥様も今日から千坂朱音さんです。おめでとうございます」


 窓口の女性がアオイを見つめ、それから朱音に向いて顔をほころばせる。人の心をほっこりさせる笑顔だ。


 千坂は彼女につられて笑った。こんな女性に育ってくれたらうれしいと考え、すぐに後ろめたさを覚えた。笑みがひきつった。


「朱音みたいな賢い子に育つかな」


 声にすると朱音が口を尖らせる。


「正直に言いなさい。私みたいなじゃなく、あんな大人しそうな女性になってもらいたいと考えたでしょ」


「すごいな、朱音。君は超能力者なんだね」


 千坂はおどけて誤魔化そうとする。


「亮治さんが私の心を読めるように、私だって、あなたの心を読めるんですよ。それに、あなたのためなら法も犯すし神様とだって戦う」


「おいおい、そんな過激なこと」


「なんでもいいから、アオイが花嫁になるまでは、生きてくださいね」


 千坂の腕の中で、アオイが「ホギャー」と泣いた。

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彼女の望み ――2024―― 明日乃たまご @tamago-asuno

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