第2話 臨月

「本当に僕なんかが入っても良いのかい?」


 朱音が働く研究所の廊下で、千坂は先を行く彼女を追っていた。


「いいのよ。私が良いというんだから」


 その日は休日で、清掃の行き届いた白い廊下はがらんとしていた。時折人とすれ違うが、朱音は軽い挨拶を交わしてやりすごした。千坂はただ会釈した。誰も千坂をとがめることはなかった。


 朱音は一つのドアの前で足を止め、IDカードをかざしてから手のひらをセンサーに重ねた。と機械的な信号音が流れた後、自動ドアが開く。


「盲目の研究者もいるのよ」


 朱音が金属音の理由を説明した。


 ドアの内側は小部屋で、着替えをする場所だった。除菌された靴と白衣に着替えて帽子をかぶり、マスクをかける。手袋はシリコン製、メガネは殺菌用の紫外線対策だ。


 朱音が小部屋の奥の扉の前の10桁の暗証ボタンを押し、「亮治ラブラブよ」と説明した。


「ラブラブ?」


 オヤジのような表現だと小説家の感性は笑うが口にはしない。感性は人それぞれだし、まして言葉に込める思いを他人が計ることはできないと思う。


「亮治さんの生年月日なのよ」


 彼女が暗証番号を説明するとドアが開いた。


 2人は更に小さな空間に進む。人が3人はいれば肩がぶつかるほどの狭さだ。


「生年月日なら8桁だよ」


「残りは愛よ」


 千坂の指摘に朱音が微笑んだ。


「愛?」


「テニスの時に審判がコールするでしょ」


「あぁ、ゼロのことだね」


「うん」


 振り返る目が笑っていた。


「さあ、口を閉じて。開けているとゴキブリが入るわよ」


 彼女が冗談を言う。


 朱音は冗談のセンスがない。……千坂はそう思いながら口を閉じ、やってくる嵐に供えた。


 朱音が扉を閉めて壁のスイッチを押すと、四方八方から紫外線ライトが照射されて台風のような風が吹き荒れる。


 30秒ほどで強烈な殺菌と除塵じょじんの嵐は治まり、更に奥の研究室に続く扉が開いた。


 研究室内には大きさの違う沢山のガラス容器が並んでいて、中には溶液に浮かんだ薄ピンク色の肉の塊があった。鉄錆てつさびのような、そして少し生臭い血のような臭いと、消毒の臭いがほんのり漂っている。


 千坂は手術室を思い出し、手で鼻を覆った。


「理科室を思い出すな」


 臭覚ではなく、視覚に関わる感想を言った。


 中学の理科準備室に動物のホルマリン漬けがあった。授業でそれらが使われた記憶はない。それが、どうして学校に必要だったのだろう、と今更ながらに考えた。


「ホルマリン漬けじゃないのよ。ここの臓器は全部生きているの」


 朱音の指摘を受けて改めて見ると、いくつかの臓器は鼓動していた。心臓なのだ。そこから伸びたチューブが別のガラス容器につながっている。全く独立している容器もあれば、機械とつながっている容器もあった。


「ここでフランケンシュタインでも作っているのかい?」


 朱音が気分を害すると知りながら、皮肉めいた言葉がこぼれた。小説では不気味な設定や残虐な行為を平気で書くのに、実際に臓器が陳列されているのを見ると吐き気さえ感じる。


「こうした犠牲の上に科学は進んでいくのよ」


 怒った朱音が無表情になる。


「ごめん。冗談が過ぎた。……それで、僕に何を見せようというんだい?」


 千坂は臓器から視線を逸らし、朱音だけを見ることにした。


「事実は小説より奇なり。生命の神秘よ」


 朱音が少しだけ気分を良くし、並んでいる中でも一番大きなガラス容器の前に立った。


 容器は3個あって、中に入っている物は色も大きさもそれぞれ微妙に違っている。それらは低いうなりを上げる機械とつながっていた。


「これが人工出産システム……」


 彼女は両手を広げてガラス容器と機械を紹介した。


「……生身の肉体を酷使こくししないし妊娠と出産で女性を仕事から切り離すこともない。……これは豚の子宮。そっちが羊のもの。そして……」


 朱音は右に移動する。目の前の容器の中身はビーチボールほどの特大サイズの臓器で、無花果いちじくのような形をしていた。数本のチューブが臓器から外部の機械に接続している。


「何だと思う?」


 得意げな朱音の表情は、彼女が遺伝子操作したクマムシを見せた時のそれとよく似ていた。


 形は豚や羊の子宮と同じだから、目の前にあるものも何らかの生物の子宮だということは千坂にもわかった。


「大きいね。象か牛のものかな?」


 千坂が応えると、朱音は人差し指を立てて左右に振りながら微笑んだ。


「残念でしたー。これは私の子宮よ」


 千坂は絶句した。


「もちろん、iPS細胞から作ったものだけどね」


 朱音が子宮から延びた管や電気ケーブルが接続している機械のヘッドフォンを耳に当てる。彼女を通して、ドク、ドクと安定した脈が聞き取れた。


「ずいぶんと大きいけど、朱音の子宮のクローンだというのかい?」


 これが彼女? ありえない。……ガラス容器の中の臓器から目が離せなくなっていた。


「10カ月なのよ」


「10カ月?」


 意味がわからない。しかし、聞き覚えのある言葉のような気がする。……千坂の視線が朱音の顔と子宮を行き来した。


臨月りんげつよ」


「まさか……」


 千坂の喉がゴクンと鳴り、背中をチクチクと電気が走る。嫌なものを見せられたと思った。


「君はゴッドサイエンティストになったんだね」


 それだけを言うのが精一杯だった。


 朱音が注射器に陣痛じんつう促進剤を入れ、子宮につながるくだに注入する。


「生まれるわよ」


 断言する顔は、千坂がアパートで見る朱音のそれとは違っていた。どこか狂気を帯びた、鬼気迫るものがある。


「ほら」


 朱音に促され、子宮に眼をやった。それは小刻みに震えている。普通の妊婦なら陣痛の痛みを覚えて声を上げるところだが、目の前の子宮は痛みを訴えることが出来ない。不憫ふびんだと思った。


 無花果型の臓器の下部先端が赤い口を開ける。そこから赤ん坊が産まれるはずだが、容易に姿を見せなかった。


「やっぱり1人じゃ無理ね」


 朱音は独り言を言うとひじまである手袋をつけて容器のふたを開けた。それから何の躊躇ためらいもなく腕を溶液の中に突っ込んだ。


 ――ザザー――


 溶液があふれる。それは音を立ててステンレス製の棚にこぼれ落ち、排水口に吸い込まれていく。


「子宮には筋肉がないから……。さあ、出ておいで。私の赤ちゃん……」


 臓器を両手で挟むと、理由を説明しながらやさしくんだ。そうして赤ん坊が出て来るのを待った。


 はじめて子宮を見、赤ん坊が産まれると教えられた千坂の心境は複雑だった。


 産まれるのは人間の子なのか?


 たとえ生物学的には人間の子供だとしても、社会的に受け入れられる子供なのだろうか?


 数々の疑問と胃袋を揉まれるような不快感、そして好奇心が、全身に満ちていった。

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