彼女の望み ――2024――

明日乃たまご

第1話 望

「ねえ。超能力って、信じる?」


 千坂亮治ちさかりょうじのベッドの中で、吾妻朱音あづまあかねがささやいた。彼女は、病に倒れた千坂の入院の手配をしたことを契機に、強引に千坂に内縁の夫婦関係を認めさせて同居を始めていた。6年前、朱音が18歳の時だ。


 千坂は、朱音が自分のアパートに住むことや身の回りのことをすること、家計を千坂の収入で賄うことも認めたが、2人が男女の関係になることには応じなかった。彼女は、遺伝子異常を治療した千坂と結婚するのを望んだが、千坂は遺伝子治療を受け入れるつもりはなかった。もちろん、彼女と籍を入れることも拒んだ。いずれ彼女は病人と暮らすのに飽きて出て行くだろうと考えたいたのだ。


 3年前に状況が変わった。


 彼女は、セックスで体力をつけて免疫力を高めよう、と奇想天外な提案を持ち出した。当然、千坂は拒んだ。


 ところがどうしたことか、早朝、彼女は寝ている千坂を犯してしまった。彼の男性器官は正常に機能していたのだ。


 千坂は目覚め、射精こそしなかったが、2人がつながってしまったという事実が変わることはなかった。


 怒った千坂は彼女を追いだした。しかし、翌朝になると彼女はアパートに戻っていて、ちゃっかりと千坂にまたがっているのだった。


 そうしたことが繰り返されて、千坂はあきらめた。正直、恐れていた彼女とのセックスも、考えていたほど怖いものではないと気づいたからだ。


 朱音は21歳になっていて、それ相応の色気がにじみだしていた。彼女を抱いているときは、千坂も病のことを忘れ、もしかしたらこのまま老齢と言われる時を迎えられるのではないか、と小さな希望さえ持った。


 彼女は子供が出来てもいい、と言った。いやむしろ、積極的に子供が欲しいと言った。しかし、どんなにセックスが気持ち良いものだとしても、遺伝子の欠陥を恐れる千坂は、彼女の中に精を放つことだけはしなかった。


 10歳以上も年齢が離れ、趣味が共通しているわけでもない2人の共通の楽しみは、知的会話による意思の交換だった。もっとも、学問上は天才と言われる朱音のコミュニケーション能力は高くない。むしろ言葉足らずで独りよがりな話が多く、世間から見ればコミュニケーションが下手な人物といえた。それゆえの敵もいる。


「超能力?……透視とか念動力といったもののことかな?」


 千坂は、朱音の髪を優しく撫でる。意思疎通に必要なものは言葉だけではない。何よりも心を開ける信頼が重要だ。その信頼関係が2人の間には成立していた。


「うん。千里眼とかテレパシーとか瞬間移動」


「生身の身体での瞬間移動には疑問があるけど、20世紀の冷戦下にアメリカとソ連、……今のロシアだけど、2カ国は真剣に研究していたらしいね。透視や念動力については動画もある。もちろんトリックが使われた可能性もあるけれど、素直に信じれば超能力を否定はできないね」


「史実はともかく、あなたは、どう思うの?」


「動画があるといっただろう。超能力はあるのさ。でも、実用化できるようなものじゃないだろうね。僕だって持っている」


「えっ。知らなかった。どんな超能力?」


「テレパシーに近いね。人の心を読むことができる」


「そうなの?……なら、今、私が考えていることを当ててみて」


 自分の気持ちを当ててみろと言われ、千坂は朱音の瞳を覗き込んだ。うるんだ瞳は小刻みに揺れている。


「朱音はセックスがしたい。そして、子供が欲しい」


「すごい。当たってるー」


 朱音は千坂の痩せた体に抱きつき、耳元に顔を寄せる。そして囁く。


「超能力が実用化できると、研究所で聞いたのよ」


19歳で遺伝子工学の学位を取得した朱音は医学部に進み、医師の資格を得たのち、国の生命工学研究施設で人工臓器の研究をしていた。


「研究所には精神医学に携わる研究者も多くいるの。彼らが、機械的に人間の感覚を増幅して武器を遠隔操作する理論を確立したと話していたのよ。既に装置の開発に着手しているらしいわ」


 千坂は、三半規管を通過する振動が信じられず、視線を天井に向けた。


 超能力を実用化する?……何のために?


 疑問を解くために顔を横に向けた。5センチと離れていない場所に朱音のキラキラ輝く瞳があった。


「今さら、そんな荒唐無稽なことを考えているのはどこの国だい?」


「日本よ。というらしいけど、防衛相で基礎理論を完成させたというのよ。なんでも魚雷を人間の思念でコントロールできるらしいわ。妨害電波の影響を受けないんだって」


「ジャミングの影響を受けない……」


 説明を聞くと千坂も納得がいく。


節操さっそうのない科学者が、防衛予算に飛びついたのか。……まさに悪夢だ」


 朱音の唇にチュッと軽いキスをして再び天井を向いた。人類はどこに向かっているのだろう。真剣に考えると頭が痛んだ。


「でも、考えても見てよ。そんな遠隔操作ができるなら、廃炉作業だって簡単にできるんじゃない?」


 原発事故で遺伝子異常の病に侵された千坂が、常に核と人間の未来を考えていることを朱音は良く理解している。


「そうだね。しかし、ナイトメア計画を防衛省が主導していて実際に軍事利用可能な技術だとしたら、廃炉作業には転用されないだろう」


「そうなの?」


「それが軍事技術というものさ。技術を公開したら武器の価値が一気に下がってしまう。一般にオープンになるのは、対抗技術が生まれて技術そのものが陳腐化する頃だね」


「私、廃炉システム開発機構の岩城理事を知っているのよ。彼も科学者で、日本科学者会議で一度話したことがあるの」


 東京電力主導ではメルトダウンした原子炉の廃炉は技術的にも経済的にも困難だと判断され、廃炉作業は新たに設置された廃炉システム開発機構の手に委ねられていた。


「おまけに国内の組織は縦割りだ。軍事技術を融通しようなんてことにはならないよ」


「使えそうな技術があるのに。……もったいないことね」


「経済性より自分たちの組織の維持を優先する。それが国家や軍隊、政治団体という組織の本質さ。朱音のいる研究所だってそうさ」


「仲間のためになろうとしないなんて、人間は馬鹿ね」


「人間だけじゃない。アリや蜂といった虫だって同じだよ。群れを守るためなら仲間の犠牲はいとわない」


「クマムシは違うわ」


「そうだね。実にマイペースだ」


 クマムシは朱音が遺伝子工学に携わっていた頃に研究していた小さな虫だ。環境の変化に対する耐性が高い。じっと耐え忍ぶ生物なのだ。マイペースなところが自分や朱音みたいだと思ったが、言葉にはしなかった。


「私、人や蜂よりクマムシの方が好きだわ」


「そうだと思った」


「あなたは?」


「僕は朱音が好きだ」


 薄暗い天井に向かって告白した。


「ありがとう。だったら、私の夢もかなえてほしいな」


 ここぞとばかりに朱音が要求する。普通の女子なら甘える場面だが、コミュニケーション能力の低い朱音の言葉は契約書を読むようだった。


 彼女の要求内容は、千坂の治療と入籍の件だ。


「だからこそ、子供はいらないんだ。君の時間をこれ以上奪いたくない」


 千坂は朱音が考えていたことと別のことを言ったが、それもまた愛の証だ。


「亮治さん、頑固すぎ」


 朱音が千坂の股間のものをギューッと握った。怒ってはいない。甘えているのだ。


「そうさ。僕は朱音が好きだけど、同じくらい自分が大事なんだろうと思う。だから考えを曲げられない」


 千坂は正直に言った。時に正直な言葉は他人を傷つけるが、だからこそ彼女は自分を信じてくれていると思う。


「自分が大事なら、遺伝子治療を受けてよ」


「何度も言っているだろう。僕が大切にしているのは、思想を含めた今の僕自身であって、肉体ではないんだ」


「よく分からないわぁ。遺伝子治療を受けたからって、心まで変わってしまうとは思えないけど」


「遺伝子治療を受け入れることが、思想に反することなんだよ。僕は、生まれたままのこの身体でいたい」


 希望を拒絶したことを詫びるように、姿勢を変えて細い指で朱音の肌をそっと撫でた。


 2人は、普通の恋人たちと同じように肉体的に結び合う。


 千坂の寝息が聞こえてから、朱音はベッドを抜け出した。ゴミ箱を持って寝室を出ると、千坂が捨てた避妊具を拾い出した。

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