第41話

 部屋の明かりを外光に頼った薄明かりの中で、満は一人ベッドに横たわり車椅子を見つめる。その内シャワーを終えたマリンがバスローブに身を包み姿を現した。それまで彼女達だけの空間を響いていたシャワーの音も、もう間を取り持ってはくれない。 


 普段なら余所余所しさ漂うやりとりを交わす事さえ無い満とマリン。会話という会話は仕事関連のものばかりだった彼女達が、職場以外で会えば気まずくなるのは自明の理。


 それでも満は話の種を蒔き続けた。返されるのが一言二言でも、沈黙しているよりは幾分か楽しかったから。決して無限に出てくる訳ではない話題を捻り出し、マリンが断ってくるまで話すつもりでいた。


満「真九はギャンブルに勝ってきたって言ってたでしょ。つまり壁尻をやってきたってことだよね。どんなギャンブルだったんだろ……」


 すると他の話題には素っ気なかったマリンが目を合わせて、明らかな興味を示した。その事に内心喜んだのも束の間、満は壁尻がどの様なギャンブルなのかを聞かされると、怒りや嫉妬、悔い、知らなかった自分への嘆き――複雑な感情が入り混じり言葉にならない声を上げる。


 てっきり知っているものとばかり思っていたとマリンは言い、きっと真九もそうだったのではないかと宥めた。


 仕事という大きな共通の話題が鳴りを潜めた今、二人の間をはっきりと繋いでいるのは旅行の記憶とチームだけ。その中でも真九は両者に縁深い人物だ。


 マリンは満達が縒りを戻した事を察している。少し前にドレス姿の満が、真九と共に会社へ来たことも。真九とデート出来る日数こそ変わらなかったが、彼女はその日以来真九にベッドインを断られる回数が増えていた。


 一方、満からすればマリンの口から語られた関係の全てが初耳。元々親しかった二人――真九とマリンはこの四年の間に肉体関係を持つ様になった。彼が復縁するに至ったあの日の後も彼等はデートを重ねていて、それどころか肉体関係も続いている事が赤裸々に明かされた。


 満には彼と接する際の自信があった。好きな人に女として見てもらえると確かめられたのもそうだが、車椅子から外骨格へ変われば私生活でも対等に負い目無く暮らせるという安堵が最も大きかった。


 女としての自信を取り戻した彼女は、同じ人を好いた同性と相対した時の自信を培ってこなかった。自信の根源が自分にあれば何の事は無い。彼氏を喜ばせたくて磨いた自己や言われるがままの人生――他者で作り上げた自信は滑石だ。どんなに姿形を変えようとロンズデーライトより高い光の屈折率を持ち、その硬度を上回るなど出来はしない。


 そしてロンズデーライトもまたダイヤモンドの中にあって、その光の屈折率を上回る事は無い。ましてや硬度など、純粋に欠けては銅製硬貨でも傷がつく。


 このロンズデーライトを理解しているのは世界でただ一つ、薄膜のダイヤモンドのみ。


マ「私は彼が好き。彼と一緒にいると私の暗い部分の全てが洗い流されていく――そんな気持ちになるの」


 情熱では勝っていても輝きは劣り、立場では一歩先を行ってもそれは自身が霞む範囲から出られない程僅かな差――同性に対する自信が満に無いのは、ここでの対決の決着を自ら翌日以降に持ち越した事からも明らかだった。


 更にそれは対決の勝敗さえも。満は決着を持ち越したつもりでいるが、その行動の裏に白旗が透けて見えたマリンは勝ちを確信していた。


 白旗の重みを心の何処かで感じていた満は掛け布団を頭まで覆った。彼女は出来る事なら丸まって小さくなりたかったが、言う事を聞かない右半身のせいでそれすら叶わず、ただ息を殺して自らが眠りに落ちるのを待った。


 一方に月が昇れば、その裏側には太陽が昇る。


 場所取りという毎朝の日課はチームが二人しかいないからといってサボる事を許してくれなかった。もしサボっている間にこの時間のこの席を定位置とする人が現れたら、チームが場所を移さなければならなくなるからだ。


 場所取りの意義を理解してはいる龍五。そんな彼は最近の朝、張り合いが抜けていた。一人で留守番かと思っていた矢先に園恵が復帰した事で、彼はバルコニーで寂しい朝を過ごさずに済んだが、問題は人が変わってしまったかの様な彼女の態度にあった。


 以前の彼女であればちょっかいにも応戦していたのだが、その頃の旺盛さが嘘の様に物静かになり、龍五はやや困惑していた。どうやら今の彼女にとっては龍五との会話よりも左腕に残った傷痕と戯れている方が良いらしい。


 会話も弾まず、龍五は飲み物へと逃げてしまう。一口前で一気に飲んでしまえた数デシリットルが残ったコップ。それを口元へ運び大仰にひっくり返して、一滴まで飲み干すとおかわりを求めドリンクサーバーへ。


 嘘が苦手な彼は物静かになった園恵との噛み合わない雰囲気から動揺し、それが分かりやすく表れた。いつもなら一遍に飲み干すところを残したり、動作が大袈裟になったり。


 園恵の方から目を合わせ話してくる事が無い為に、彼はいい加減話題を振るのも憚りを覚えてきていた。そこへ社員旅行から帰国した一行が土産袋を持って、助け船の如く出社してくる。


龍「やっと来たかお前らぁ。待ちくたびれたぞー」


英「待ってたのは私達じゃなくてお土産じゃないの?」


 久しぶりに朝のバルコニーで勢揃いした彼等。旅行中の記念写真は逐一通話アプリを介して共有されていた。留守番組の予想を上回る土産の量は、カジノで運良く勝てたからこそ。


龍「おい真九、お前そんな安っぽいバッジに金払ったのか?」


真「いや、これは向こうにいる時に珍しくタダで貰ってさ。『もし要らなかったら道端にでも捨ててくれ』とか言われたから、持ち帰ってきたんだよ。――園恵の土産に、丁度良かったしな」


 遅めの新人研修に参加する為の許可証として渡された缶バッジを、園恵はぶっきら棒にポケットへ仕舞った。頼んだ物とそうでない物とが入り混じる土産の量は、それだけ彼女の想像を優に超えていたという事だろう。


 彼女への土産に食品が一切含まれていないのは、食品では却って負担を掛けてしまうのではとの満の判断と、園恵自身がお土産リストに食品を一つも記載していなかったから。


 衣服やアクセサリー、そして摩訶不思議な置物――社員旅行に行った五人はそれぞれの感性で彼女への土産を用意したのだった。


 一人で運ぶには些か難儀な土産達。それを彼女は満に手伝ってもらい、ロッカーまで運ぶ。


 社員旅行の期間中、二人は通話アプリで話し合っていた。この国で朝を迎える頃に向こうは日の入りを過ぎたくらいの時間となるが、たとえ食事中に電話が来ても、満は決してその話題を彼女の前で出さなかった。


 園恵の前で食事の話題を口にする事はいつの間にかチーム内でタブーと化していた。当然というべきか、誰の目から見ても今の園恵は健康とは言い難い状態だった。それを更に害してしまいかねない話題である事は皆十分に把握している。


 園恵が実家で休養している時、辛うじて経口による栄養摂取を行っている彼女を酷く心配した両親は、直ぐ様入院するよう彼女を説得していた。しかし彼女は逃げた。自分に防弾チョッキをくれなかった親を怨むかの様に。自分に本物の銃の恐ろしさを教えてくれなかった親を呪うかの様に。


 そうして逃げた先で彼女は傷口に塩を塗り続け、痛覚を麻痺させる事でその傷を克服する道を選んだ。克服する進行度としてはとても急激に段階を踏んでいるが、傷の痛みに慣れようというこの考え自体は有り触れたものである。

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