第37話

満「カミラに怪我が無くて良かったね」


イ「この程度じゃ怪我なんかしないわ。それにほら、まだ終わってないから目を逸らしちゃ勿体無いわよ」


 カミラは通話しながら二人の方を向いていた。それが満には既に気を緩めた様に映り、散った筈の残党がカミラの死角からナイフ片手に飛び出してきたのを見て、思わず目を瞑ってしまった。


 カミラの戦闘術の真骨頂は武術に於ける気を真髄とした我流だ。体捌きは踊り子の様に軽快で、拳を振るえば筋骨隆々な男であろうと捻じ伏せてきた格闘術である。


 彼女が最も長く向き合い磨き上げてきたこの戦闘術も、普段は護身用武器や制圧術で済んでしまう為、出番が無い。そこで姉妹は引ったくり犯を利用する事にした。イェッテは敵を前に箍が外れたカミラのファンで、我流拳法で躍る彼女を間近に見る事が出来る。


 そしてカミラは、殺傷能力が高い我流拳法を使った理由として、生命の危機が差し迫った際の正当防衛を演出出来る。多対一で敵がナイフを所持していたというだけでも十分なのだが、それでも回数が重なれば警官に疑われてしまうのは目に見えていた。そこで彼女は少量でも自らの血を流してからその拳法を解禁する事に。


 いつしかその拳法の封印と同じく故意にしていた解禁は、痛みと血の支配へと赴いていた。


 掌底打ちで一人膝から崩れるのはまだ序の口。ナイフでの突きを仰け反って交わせば両足を跳ね、その勢いで頭蓋を両側から蹴り挟む。背中から落ちそうになったところへ勝機と見て突っ込む者あらば、嘲笑うかの様に踏み止まって今度は上体を跳ね、彼女は宙でも舞い躍る。


 彼女が一度跳ねてから次に跳ねるまでの地に足を着いている時間は次第に短くなり、それが限界まできた時、最小限の着地時間で跳ね最大級の変則攻撃を多発する、享楽の踊り子がその本性を現す――これが現実となるには今回の相手では役不足だった。


 それもそのはず。計画の元に動いている本業の集団ならいざ知らず、相手は注目や小銭稼ぎ目的で偶々居合わせた少年少女である。況してや逃走者が出てしまった中で、カミラに我流拳法を使わせた彼等はストレス発散相手としてマシだったと言えよう。


 ただ飽く迄マシという程度。彼女は落ちているナイフを拾い、残党の残りが潜んでいないかの安全確認を済ませると、未だに小便の上で座り込むおもちゃに目をつけた。


 このまま警官が来るまで生かしてもらえる――少年の儚い期待は数字に目が眩んだ自分に対する後悔、そしてピクリとも動かなくなった仲間を前にした戦慄へと変わっていた。


 その一挙手一投足にすっかり怯え切っている少年。カミラがナイフを持った手を手首だけくいっと上げて見せようものなら、頭を抱えてそれを覚悟する。


 流石にここまで無防備では正当防衛という名目上、手を出せない。カミラは潔く諦めると振り返り、ナイフを捨てた。


 死を覚悟した少年は自身から遠ざかる足音にゆっくりと瞼を開ける。


――あ、ああ、よかよか。サツにげ――……


 その時、張り詰めている緊張が緩む瞬間を待っていたかの様に、捨てられたナイフは少年の顔を掠め、空から落ちてきた。それが頭に突き刺さらなかった幸運を泡と共に噛み締めて、少年は仲間達と救急車で運ばれていった。


イ「うん、ざっと全力の四十パーセントってところかしら。数が少なかったものねー。でも良かったわ、今日は笑ってくれて。――さ、後はパパに任せましょう」


 怪演に興じてカミラが発散するストレスは、仕事だけでなく姉の振る舞いでも溜まっていた。それを知っていながら悪怯れる素振り一つ無く明るく開き直るイェッテと、透かさず嫌みで対抗するカミラ。


 何より予想外の光景とそれを常とする二人に、満は驚きを隠せない。それだけでなく彼女は、カミラが嬉々として武闘に躍る姿に陶酔すら覚えていた。


 後始末は警察が上手くやってくれると分かっている姉妹は、これがヘアセット前で良かったなどと冗談めかす。「パパに任せる」という言葉の真意を満から問われてもイェッテははぐらかして、次なる目的地へと手招きするのだった。


 この時間にサラリーマンが帰宅出来る事も優良企業である事の証。家族がいる社員を明け方まで仕事で拘束しては、瞬く間に悪評が広まってしまう。


 家族との夕食を楽しみに帰宅するサラリーマンに混じって玄凪も帰路についた。


 独り身の寂しさを紛らわす為に酒のつまみは景気良く。食事のテーブルだけでも賑わせておかなければ、家鳴りに隙間風――まるで悪霊と晩酌しているみたいだとして、彼は仕事が入った日、特に奮発した。


 酒が回ってくると不意に、その日暮らしをしている自身が貧寒に思えて涙を零すのはしょっちゅうだった。減ったつまみが虚無となり余計に胸鎖を締め付けてきて、それに耐えられない彼はいつも晩酌の途中でシャワーを浴びる。


 近頃の彼は浴槽にたっぷりと張られた温かいお湯に浸かって疲れを癒した昔の自分を懐かしんだ事自体、懐かしむ様になって来ていた。一人で飲めばうん十日は平気で保つ量に全身を浸けるだけ浸けて、毎日それを入れ替えていた少年時代の贅沢。それに比べれば食品を食べ切るくらい訳無い筈なのだ。その品々が最後の一口へ近づく程に彼が箸を鈍らせたのは、産まれた時から贅沢に身を置く中で贅沢の基準が下がったのも一因だろう。


 彼は酔いが覚め切る程シャワーを浴びては折角飲んだ酒も勿体無いと、一度洗髪洗身をせず浴室を出る。それらは晩酌が終わってから入り直した際にするのだが、面倒だと思いながら毎日そうする彼は、決して当たり前だとは思っていない。


 この季節に特別な運動をした訳でもないのだ。洗わないまま寝る選択肢もある。その程度の自由さえも失い画一的となった生活からの脱却には、一人暮らしをするだけでは至らなかった。


 玄凪は自分が傷つく事で周囲の人が変化し環境が変わっていく保証があるなら、我を通してでも傷つく覚悟は持っていた。しかしそんな保証は何処にも無い。


 この仕事に向いてないのかもしれない――彼はそんな事を思いながらドライヤー片手に鏡の中の自分を見つめた。着信がありスリープが解除された携帯端末を鏡越しに確認する。電話でないという事は火急でないのと同義。


 だからといって受信した内容が必ずしも迷惑メールとは限らないのもまた事実。


園『皆さんお久しぶりです。この度はご迷惑をお掛けしてすみませんでした。また来週から働けるのでよろしくお願いします』


 玄凪は通話アプリへ投稿されたその言葉が園恵のものである事を疑ってはいない。顔文字や絵文字を一つも使わずに畏まった文章を認したためるのは園恵らしくないなどと言ってしまえば、それは彼女の個性でもある新たな一面を否定する事に繋がる。


 園恵が復帰すると分かってからは酒が水の様に流し込まれていった。それまでの彼は一杯で止めるつもりでいたせいで二杯目の肴は有り合わせとなったが、二杯目の方が気持ち良く酔えた為そんな事はどうでもよかった。

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