第9話

 一人前の社員を目指して着実に実績を積み重ねていく同期の姿に玄凪は熱意を滾らせ、自らが依頼を熟す日々を夢想したのだとか。


 彼が朝起きて最初にするのはテレビリモコンの電源ボタンを押すこと。いつものニュース番組がやっている事はトイレへの道すがら耳で確認する。


 ニュース番組は今日も一部で全く同じネタを擦りながら進行していく。擦りネタの枠を使ってまで報道すべきニュースが無いのは、前向きに捉えれば平和、そうでなければ怠慢だろう。


 これまでであれば後ろ向きに捉えていた擦りネタの報道も、園恵に感化されて前向きな思考を身に付けようとし始めた玄凪には良いニュースに映る。


 中々捨てられなかった以前の彼女の歯ブラシを遂にゴミ箱へ放り込んで、仕事着のスーツに伸ばしかけた手を方向転換し、服装のコーディネートに慣れておらず四苦八苦、その末に謎めいた清々しさを引き連れ彼は家を出た。胸部に「JOB!」と書かれたTシャツを着て。


 先頭車両の前方のドア近くに位置取り極力人の波に飲まれないよう心掛ける、スーツという名の戦闘服を脱ぎ捨てた戦闘員は、何処となく自身へ向けられる視線の多さをも前向きに受け取る。


 注目を集めていた理由がTシャツにあったのだと彼が知ったのは会社へ到着してから。


 同期の仕事を見学した昨日の今日で深層まで変わったという事は無くとも、表面にはその兆しが現れつつあった。しかし玄凪の様に自信を持って生きようとしている者の脚を引っ張り、頭を叩いて奈落へ引き摺り込まんとする餓鬼が、この国には蔓延っている。


 玄凪も奴等の無差別な魔の手に掛かってしまい、Tシャツのデザインに拘泥していた。


園「私は良い服だと思うけどなぁ〜」


玄「そうですかね……はぁ」


園「――意気消沈の同輩くんに、見せたい物がありまーす」


 そう言って園恵が見せた携帯の画面には、和気藹々と夕食を囲む父と娘が映る。娘から夕食に一品リクエストがあっただけで、まるで祝い事かの様に豪華な料理を奮発した父親と、好物に勝る物なしと言わんばかりの勢いでリクエスト品のハンバーグにがっつく娘。


 この晩餐の映像は当日中にAirgunへ届けられていたが、それは園恵の気が気でない様子を見透かしていた娘による気遣いだった。


 目に見えて成果を実感出来るこの謝礼を受け取るのに、任務に直接当たったかどうかは関係無い。その謝礼は金にある対価という側面を持たないからこそ、金とは違い精神的価値を有した唯一無二の財産として社員達の心に刻まれる。


 依頼を熟したからと言って必ずしも今回の様に貰える訳ではないという点もまた、この財産の価値を押し上げる要因だろう。思わぬ癒しに玄凪の表情から煩いは吹き飛び、彼は仕事に対するやり甲斐をまた一つ見つけた。


 この映像にどんな価値を見出だすかは見る者によって異なる。尤も前線に身を置く櫂無局の職員であれば、やり甲斐を感じる二大財産として報酬と後日談が挙がる。


 そして同一の映像を情報の一部として取り扱う者がいるのも事実だ。それが上層部の者達である。


 一人の社員が同映像の確認を終えた端末で社長室への入室許可を得る。


東 西心せいしん「入りますよー。――今年も良い時期になりましたな。どんなですか? 丸一年掛けて育てたお子さん方は」


社長「ええ、いい子達でした。素直で実直――彼等は新しい家族の一員ですよ」


西「――それほんまですか? 上の一匹餌食うてませんやん」


 降り注ぐ餌に水槽内を所狭しと泳ぎ回る観賞魚の群れ。その中の一匹が餌になどまるで興味を示さず、頭上から降る小粒を鬱陶しげにしていた。


 死神の色白な手に捕まった事を自覚して暴れても、そこは既に水の外。ぶっきら棒にその魚を机上へ投げやった社長に対し、片付ける立場の秘書を慮った西心から愚痴が飛ぶ。


社長「――昨年も秘書をはじめ、多くの家族から協力を得て、この水槽は美しく調和していましたね。今年はどうなるのでしょうか。私は、汚れた水槽を見たくありませんよ」


西「えーえー分かってますて。あーあと、その魚経費ちゃいますからね。おらんくなった分私費ですよ」


 今年も社員が入社した為彼は社長の意向を探りに社長室を訪れた。


 水槽を成す生物は毎年同種で固定され、捕食など起きない水槽の世界を社長は寵愛しており、かと思えば偶にこうして魚を掴み取り撥ね除ける乱暴っぷりも覗かせる。


 創立以来、汚れている所を見たくないという社長の意向にそい続けてきた水槽だが、それは家族社員の協力があってこそ。机上の魚が後腐れ無く消滅していくならまだしも、自力で水槽へ戻るどころかその場で腐り果て屍となってまで妨害を望むならば、屍を放置し積み上げるなど社長にとっては論外である。


 たった一匹の魚へ目くじらを立てる社長の姿に、西心も初めは少なからず失望していた。Airgunの前評判とは百八十度違い、他企業と何ら変わらない統制具合を垣間見た最初の日の衝撃を、彼は忘れてはいない。


 櫂無局属する営業課の事務方トップとして働き始めて二十年。その節目に舞い込んだ社長からの信託に、彼の心はおどっていた。


――一角ドーム――


 快晴に恵まれたトラックで躍動する我が子をカメラに収めようと、多方から保護者が駆け付け客席を埋める。陸上競技を部活動とする高校生達が県代表の座を勝ち取るべく、現下続々と集結していた。


 そこへマイクロバスにぎゅうぎゅう詰めでやってきたのは県内平均並みの平凡校――田波たば学園。


 他の学校の大型バスに萎縮するのはいつものこと。決して高望みをしない県大会出場という目標を部として掲げ、それが達成された彼等は今、半ば消化試合の感覚で会場へと到着した。


 覇気に欠ける一行。引率する監督はマンガや携帯ゲーム機の持ち込みを承認しておらず、他に自制心を養う機会が用意されている訳でもない。天舞驪の様に気付ける者は最早ごく稀だ。


 そんなありふれた学校の部活動であるこの一行には、全国レベルの逸材がいる。三橋みつはし 佐凛さりんは一年生の時、当時のインターハイでの百メートル走の全国記録を一秒近く更新して一躍時の人となった。


 次世代の短距離走エースとの呼び声が高かった彼女だが、その後は目立った成果を上げられず、記録が伸びるどころか全く走れなくなった期間すらあり、いつしか人々の記憶からも忘れ去られていった。


 今日彼女が一角ドームへ足を運んだのは、高校最後のインターハイに快走の記憶を残したかったから。


 遡ること約四ヵ月前。トラックから離れて久しい彼女は年始を家族と過ごしていた。毎年似通った特別番組が放送されるなかテレビに映された年始名物のニューイヤーマラソンは、種目こそ違えどその道に挫折した女子高生の目には眩しく、選手の走りは輝きに満ちていた。


 この時彼女に再燃した童心の炎は、迷う間に消え失せてしまいそうな程儚いものであったが、それを自覚し絶やすまいとしてAirgunの仕事初めまで鈍った身体を叩き起こすなど努力を続けた。


 技と体は自力で改善出来ても、心は一筋縄ではいかない。心一つ乱れた為に一級の技体までもが音を立てて崩れるのは、この世界の女子アスリートには良くある事だ。


 佐凛は復帰する上で避けては通れない考え方の変革を、Airgunの熱血漢へ依頼した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る