第4話
中庭の石庭は緩やかに造形を崩し、降る雨を甘んじて受け止めている。何故なら石庭は水を知らない。空から降り注ぐそれを生まれつき知らない石庭は、今日も崩された姿を誰かが整えに来るまで、されるがままだ。
居間への道すがら風流な庭を眺めて、普段よりその造形美を染み染み思っている自身と情景とを重ね合わせる颯太。一伝統以外の何物でもなかった石庭の良さに触れ、昔の人々が何故、手に入るのも容易な水を表現するのに本物ではなく砂や石を使ったのかを、自分なりに直感していた。
百合琳と母の話し声が襖から漏れ出る。未だに仕切奴は機嫌を損ねたままなのか、それとも雨音のせいで聞こえていないだけで、二人と会話しているのか――こうなると中の様子に聞き耳を立てたくなるのは、危険を避けようという人の性かもしれない。
中の三人に接近を勘付かれていない前提で、颯太は襖に耳を近づける。
百合琳の母「――に似て美人だものぉ…………してもいいと思う…………」
百「――…………そういう言い方する…………決めないととは思って…………」
瓦の遮音性も虚しく、縁側から鳴り渡る雨音と混ざり合って会話は途切れ途切れ。
颯太は心配される直前まで粘るつもりでいる。そんな彼に天が情けを掛けたのか、雨脚が弱まってくると居間の会話の全容が次第に見えてくる。
百合琳の母「――…………
仕「――颯太、だったか。あんな男は止めておけ。ひ弱な精神に金事情…………マシな男はごまんといる」
百「うーん……そっか、まだ三十一人だもんね…………」
盗み聞きの代価は愛を裏切る、知らぬが仏の真実だった。颯太は呆然と襖を、そしてその向こうの元恋人を見つめる。
真九は言う。これはチャンスだと。結婚する前に相手の思想を知れた事で、選択肢の幅が広がった。襖を開け問いただすも良し、聞かなかった事にして恋人に戻るも良し、襖ではなく玄関の扉を開け、新たな出会いを求めて歩き出すも良し。
真『――決定権は貴方にありますよ』
熟考の末に下された決断を、嘲笑うかの如く雨天はぶり返す。フロントガラスの縁へと退けられては小流を作る、平板極まる雨粒の無尽蔵たるや。
空席が一つ増えた車内に貫通する、打ち付ける雨音を誤魔化す様に、流行りの音楽の音量がまた一段階上げられる。
颯「今日はありがとうございました。正直言うと、こんな事になるなんて想像もしてなかったです」
先日まで結婚式の会場について話し合っていた相手も、今となっては過去の恋情。出番の来なかったプロポーズの指輪は鞄の中に入れたまま、奥手な男の初恋は急激な幕切れとなった。
自身の腑甲斐なさを悔やみ、ハンドルを握る手に力が入る。何の気なしに間に合わせの策としてAirgunへ依頼した事で、自らの画一的弱者ぶりを直視する機会を得た颯太。しかし、経験不足に加え思考する癖の無い彼にとって、その機会は手に余るものだった。
――口を吐く卑下はもしかしたら独り言になっているかもしれない。いっそそうであってくれた方が楽だ。
颯「――共通点が多くて……だから仲良くなれたと思ってるんです。もしかしたら弱者なのは、僕だけだったのかもですけど」
幼い頃から親の思考に沿って生きてきた百合琳と、Airgunを頼った自分――彼が今また一つ増えた共通点に感じるのは、国民性がもたらすほんの僅かで空虚な喜びのみ。これを同族嫌悪へと変え、孤独へ導いていくのは、真九達の仕事に含まれていない。
この一握りの喜びに平和を見い出そうとした国が、
真『今回は私の考えを伝え、それを踏まえて颯太さんに行動してもらいました。何かあるごとに、その考えが思考の一助となれば幸いです。これからも沢山の人の考えを取り入れ、思考の材料としていくうちに、自分の考えを明確に持てるようになる筈ですよ』
真九が一歩踏み込んだ発言をしたのは気紛れではなかった。当社の将来的な収益低下の可能性を高めてまで、彼が颯太の背中を押した理由――それはその場凌ぎを繰り返すのではなく、長期的に国民の道徳心改善を目指しているから。
もし真九達チームメンバー全員に共通する点があるとすれば、酷似した志しで入社してきた事だろう。人々を救っていてもいたちごっこだとして、抜本的な社会の改善を促す為に入社してきた七人からなるチームだ。
ただしこのスタンスは当社において限りなく少数派であり、そのせいもあって彼等は一チームに纏められている。
先輩社員達の仕事っぷりを見て回り、何れ引き受けた依頼を熟す場所を吟味する玄凪。彼は面接時、このままではいけないという世の中への想いが先行するあまり、何がいけないのかという問いに「とにかく何とかしないと」と返す始末だった。その責任感の強さが面接官へ伝わって今の彼があるのは言うまでもない。
ほんの少しのデッドスペースも捨て置かない会社の姿勢に感服し、自身と同じくスーツで出社している社員がいれば仲間意識を覚えて、就職したての若人は自国において突出した仕事環境に、逐一感嘆の溜め息を漏らしていた。
そうして玄凪が巡回するうちにまた一つ、何の変哲も無い倉庫を通り過ぎるところ。中から声かどうかすら判別に困る乏しい音が漏れてくる。それは彼を立ち止まらせるに十分な情報量を有していた。
空耳でない事を確認した玄凪は、自身を立ち止まらせたその音が記憶と合致するかを確かめる為、耳を澄ます。
この倉庫では今、マリンが依頼に当たっている。冷静沈着な彼女は今日も依頼人を罵り、悦ぶ相手を見て心底軽蔑の念を抱いていた。
人助けをして金を稼げる為、彼女は満更でもない働きぶりで櫂無局上位の稼ぎを得ている。
ドアノブを捻る勇気が出ない玄凪は、徐々に信憑できなくなってくる魅惑の音を一瞬たりとも聞き逃すまいとして、ドアに密着させた右耳を両手で囲った。
そして彼の左耳もまた同様に包まれ――
真「楽しそうな事やってるな(小声」
玄「ぅう、何ですか何ですかもう……!」
玄凪は背後に忍び寄る人の気配に気が付かない程、ドアの向こうの音源に神経を集中させていた。不意打ちに軽く苛立つも、ドアから耳を離している一分一秒を惜しみ、再び傾聴し始める。
何処からともなく反響してくる会話や歩行音の中に、彼を惹きつけたそれは消え去っていた。ほんの数秒気を取られた事を悔やみ、けれど諦めきれず反対の耳を当てようとした、その時。
廊下の空気を力強く吸い込む様にして開いた内開きのドア。玄凪は、その前で膝をついている自身の客観的状況を、瞬時に察した。
倉庫から姿を現したマリンが向ける、一仕事終えた直後の冷淡抜け切らぬ目に怖気付き、玄凪は無言で道を開ける。彼女が去り際に真九と交わしたほんの一言、その声質は無自覚に、玄凪の中で消えかけていた直感へ再び働きかけたのだった。
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