第35話 ハツコ、吠える
「やっぱり、こういう時は犬が頼りになりますよ」
どうもトミエは、ハツコに警察犬の役割を期待しているようでした。
私には、とてもあの犬が役に立つとは思えなかったのですが、面と向かって抗議できるほどの強さは持ち合わせておらず、黙って従うことにしました。
ハツコは、宿の前に繋いであります。何せ、一晩も放っておいたわけですから、今頃は暇を持て余しているに違いなく、仕事を与えるのは良いアイディアかもしれない、と考え直したのですが、いざ再会してみると、獣の本性に愕然とさせられました。
「ガウウウ! グルルルルゥ!」
この駄犬ときたら、私達が来るまでの間、ひたすら柱をかじっていたようで、穴だらけにしているのです。木造家屋に、いったい何の怨みがあるのでしょうか。警察犬どころか、どちらかというとこれは図体のでかいシロアリではないか、と目をそらしたくなります。
「大丈夫。匂いでわかるはずなんです」
「夢中で僕の尻を嗅いでるじゃないか。こいつは、利口な犬ではないんだよ」
「何事もトライですよ。さあハツコ、内通者を見つけてくるネー。相手は魔王の関係者! 理解できましたか?」
「わん!」
「イエス! 前の飼い主の、残り香を辿ればいいんですよ!」
ハツコは後ろ足で立つと、私のからだにしがみつき、肩のあたりを嗅ぎ始めました。何が気に入ったのやら、ふんふんと鼻息を荒くしています。
「これは君、期待薄だよ」
「……いやらしい犬デース」
犬にまでおもてになるんですね、と皮肉なのか賞賛なのか、見極めの難しい言葉をちょうだいしました。
「腹が減って、馬鹿になってるのかもしれない」
ものは試しにと、グリモワールを使って餌を生み出し、腹いっぱい食べさせてみたのですが、残念ながら、食後も私のからだを嗅ぎ回る始末なので、どうやらハツコは発情期らしいという結論に至りました。
「やっぱりね、恋はチャンスなんかじゃないんだよ。これは意思なのさ。自ら狂いにいく、という意思」
やむを得ず、聞き込みで調査を進めることにしました。
「どこにいるんでしょうねえ、内通者は」
「僕が同じ立場だったら、一人暮らしは避けるね。そういう輩は、すぐに当局から睨まれてしまうのだ。夫婦や親子を偽装した方が疑われにくいし、それもできないようなら、知人の家に居候するだろう」
「ずいぶん、犯罪者の心理に詳しいんですね」
左翼活動家時代の、経験談なのです。
当時、既に妻帯者だった私は、自宅を同志のアジトにされたことが何度かありました。結婚しているというだけで、世間は警戒を緩めるのです。
「幸福な家庭。賑やかな共同生活。そういう場所に紛れ込んでいるはずなのだ」
「マダムは一人暮らしでしたね。じゃあ、もう一人の女が怪しい」
「君も拘るね」
トミエにせがまれて、マリーなる婦人の元を訪ねてみたのですが、こちらも侘びしい単身者だった上、亜人差別が甚だしく、川端に手を貸すとは思えませんでした。
「この調子で一件ずつ訪ねていては、きりがないよ」
「根本的に人手が足りないんですよね」
トミエは、ヒラメンティウスを頼ってはどうか、と提案してきました。
「他に知り合いもいないですし」
異論はありませんでした。
私は、昨日のバアに顔を出すと、ヒラメンティウスに声をかけました。朝っぱらから飲んだくれているらしく、人の良さそうな顔が、真っ赤に染まっています。
「実はね、……」
事情を話すと、快く了承してくれました。
「任せてくれ。パーティーの奴らに頼んで、怪しい家をかたっぱしから当たらせてみよう」
「恩に着るよ」
「気にしないでくれ。ダザイさんのおかげでここに来れたんだしな。それより、少し飲んでいかないか。俺の奢りだ」
「いや、外にトミエを待たせてあるから」
けれども、目の前にグラスを差し出されると、もう駄目なのでした。
まずは景気づけの一杯、スパイ確保を願っての二杯、特に理由は無いけど三杯。
嗚呼、どうしてこう、昼間から飲むビイルは美味しいのでしょうか。普段は下等な酒なのに、この時間帯に飲むと、妙に解放せられたような軽さを感じるのです(多分それは、責任感を放り投げることによって得られる、やぶれかぶれな軽さであって、後々トミエに叱られるのが確定しているがゆえの、捨て身の解放感なのですが、この際考えないことにします)それから、四杯目を飲み干し、ほろ酔い気分で滑稽話を口にすると、あっという間に場が盛り上がりました。
当然、笑い声は店外にも届いたはずです。これはやってしまったかな、と覚悟を決めていると、案の定、青筋を立てたトミエが、ずんずんと乗り込んで来たのでした。
「油断も隙もない! ノーノー、駄目ですよヒラメンティウスさん。このひとにお酒を与えないでください。あらゆる誘惑に弱いんですから」
「ごめん。だって、ダザイさんと飲むと楽しいんだよ。座談の上手いひとだからさ……」
「同意しますけど、状況をわきまえてくださいネー」
後ろから羽交い絞めにされ、ずるずると店の外に引きずり出されます。
トミエの怒りが伝わったのか、ハツコは牙をむき出しにして吠え立ててきました。
「わん! わうう! グルルルルゥ……!」
「おお、こわいこわい。尋常な唸り方ではないねえ。うちの家内だったら、安楽死を検討するやかましさだよ」
家内という言葉に、トミエが食いつきました。
「奥さん、怖い方だったんですか?」
「現実的なだけさ。僕を見ていればわかるだろうが、ロマンチストな女は引きずられてしまうからね。冷静なひとでなければ、僕の妻は務まらないよ」
「なんとなくわかります」
「トミエもぜひそうなってほしい。だからね、実はさっきの、力づくで飲み屋から引きずり出すというのは、良い判断だったよ。妻を彷彿とさせる逞しさがあった」
「あれで正解だったんですか」
やったあ、とトミエは喜びます。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます