第28話 修羅を知る者

 結局、一睡もできないまま朝が訪れました。

 犠牲者を出さぬよう、水量を調整しながら洪水を起こすのは、とても神経を使う作業で、眠る暇など無かったのです。

 だからといって、宿に戻るのは論外と言えました。あの馬鹿者の市民達も、そろそろ誰が水害の犯人なのか、気付いたに違いないのですから。

 こうとなっては逃げる他なく、重い足を引きずって、やっとの思いで歩き続けるのでした。

「僕はもうくたくただよ。少し休もうじゃないか」

「まだ六歩しか歩いてないですよ。真後ろにシラクスが見えるんですけど」

「嘘だろう。体感では、一時間は歩いたように感じるのだが」

「ハツコに乗って移動したらどうですか。休みながら動けますよ」

 ハツコに乗る、という言い回しからはどうしても在りし日の夫婦生活が思い起こされ、陰鬱な気分になってしまうのですが、他に妙案も無いため、しぶしぶ跨ってみることにしました。

「おや。おまえの毛は温かいのだね」

「わん!」

 意外にも、ハツコの乗り心地は良好でした。ふかふかとした毛皮は保温に優れ、からだを前に倒すと、まるで毛布を抱いているような気分になるのです。

「こりゃあいい。僕はしばらく、寝かせてもらうとするよ」

「どうぞごゆっくり。とりあえず、進路は東に固定しておきますね。妙なものを見つけたら、叩き起こしますから」

 何も叩かなくたっていいじゃないか、と心の片隅で抗議の声が上がったのですが、そんなことはない、どうせトミエが正しいのだ、間違っているのは私なのだ、とすぐに考え直し、

「それじゃあお願いしようかな。トミエがいると心強いね」

 などとおべっかを口にし、まぶたを閉じるのでした。

 半ば意識を失いかけていても、流れるようにお愛想を発揮するのは、もはや病的と言っていいのですが、トミエは、この病気をかわいく感じるようで、優しげな手つきで撫でてきます。

「まったく。勇者様は私がいないと駄目なんですから、……」

 貴方は、私がいないと駄目ね。

 いったい、これまでの人生で、何度この言葉を聞かされたでしょうか。正直に申し上げると、週一回は言われていた気がします。つまり、女がいようといまいと、私は常に駄目なのです。隙のない駄目さ加減なのです。

 にもかかわらず、私の世話を焼きたがる女は、途切れることなく現れるのでした。

 思えば、私と女達の関係は、幼少の頃から何も変わっていないのです。私は、すぐ上の姉と仲が良かったのですが、いつもおかしな冗談を言って、へんな顔を作って、笑わせてばかりいた記憶があります。そういうお道化を繰り返していると、だんだん侮られるようになってくるのですが、同時に、他の何よりも可愛がられるようになるのです。そうして、一番のお気に入りとなった私が、ふいに疲れた顔を見せると、気前よく手を差し伸べてくれるのでした。

 姉のご機嫌取りというのは、女を口説き落とす上で、最良の訓練になるのかもしれません。

 そんな、愚にもつかない、くだらないことを考えているうちに、うとうとしてきて、気絶するように眠りについたのでした。

 それから、かなりの時間をまどろんでいたようで、目を覚ます頃には、すっかり日が高くなっていました。

「勇者様、勇者様。起きてください、勇者様」

「何だい、酒でも見つかったのかい」

「いいえ、残念ながら」

 トミエの指は、前方にある、石造りの門をさしています。

「見えます? ほら、あそこで冒険者がたむろしてるでしょう」

「物騒だね。皆、武器を持ってるじゃないか。まるで駐屯地だ」

「実際、兵隊くずれも多いですからね。正規の給金だけじゃ食べていけなくて、ここでお小遣いを稼いでるんですよ」

「彼らは軍人なのかね」

「ええ。……さっき聞いてきたんですけど、東に進もうと思ったら、ここを通らなきゃいけないみたいです。ちょっと面倒になってきましたね。あの門、ダンジョンの入り口ですよ」

 トミエによると、極端に危険な土地は「ダンジョン」と呼ばれているらしく、政府によって立ち入りを禁止されているそうなのです。

 けれども、中に金銀財宝が眠っているとあっては、人々が放っておくはずがなく、荒くれ者達が集まっては、魔物を狩ったり、財宝を引っ張り出したりして、換金に励んでいるとのことでした。

「今の説明でわかりました?」

「うむ」

 政府に無断で、貴重品を取引する商業区画。

 つまり、ここは闇市なのです。

 進駐軍もいるようですし、まず間違いないでしょう。戦後の日本も、軍の統制下にあった物資を持ち出しては、金に換える輩が後を絶ちませんでした。あの世だろうと地獄だろうと、戦争と人間があれば、やることは同じなのです。

「いけそうですか? 無理そうなら、迂回ルートを探してみるのも手ですが」

「大丈夫。この手の取引なら、生前から経験がある」

「そうなんですか?」

「ああ。時計にお酒に、色々横流ししてもらったものだ」

「……優男に見えて、案外冒険してたんですね」

「あの時代を生きていれば、いやでも身についた芸だよ。僕の場合は、家も焼かれたからなあ」

 とにかく、物が足りなかったのです。配給を受け取るだけでは、何もかも不足していたのです。

「え。家を焼かれた?」

「よくあることさ」

「どういう状況ですかそれ」

「まず、三鷹の家を空襲で壊されてね。妻の実家に疎開したら、そっちも燃やされてしまったのだ。まあ、そんな状況でも執筆を続けたからこそ、人気が出たのかもしれないが」

 戦時下の小説家は、競争相手が少なかったのです。これもまた、怪我の功名に入るのでしょうか。

「家が燃えたのに、お話を書いてたんですか……?」

「むしろ、燃えたからこそ書き上げたんだよ。食い扶持を稼がなくてはならないからね」

 珍しく、トミエが気圧されているのがわかりました。

 遠巻きに私達を眺めていた冒険者も、「あいつやべえな。どこの修羅から来たんだよ……」と畏怖の目を向けてきます。

 そんなに恐れることかね、と何だかおかしくなるのを感じました。

 私は、修羅の世界からやって来たわけではありません。

 昭和二十年代の、敗戦直後の日本からやって来たのです。

 もっとも、これはそこいらの地獄より、よほど地獄めいた時代だったかもしれませんが。

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