第25話 マアメイド

 宿に上がると、さっそく日記の精読に入りました。

「どうですか?」

「うーむ」

 はじめの数ページは、何の問題もなく、するすると読めたのですが、十ページ目を過ぎたあたりから、引っかかる箇所が増えてきました。

 私はずっと、トミエを人間と変わらない存在とみなしていたのですが、どうもそれは間違いだったようで、人と人魚の間には、厚い壁が立ちはだかっていたようです。

「君の日記は難しいね。心理描写と言えばいいのか、それとも生態描写と言うべきか、とにかく難解な表現が多い」

「おやー? 勇者様にむき出しの女心は難しすぎましたかネー?」

「女心ではなく、魚心に頭を悩ませているのだ。『勇者様のことを考えると、夜な夜な無精卵を産んじゃうの』という文章がさっぱり理解できなくてね。これは人魚の世界だと、ロマンチックな行為なのかい」

「オーウシット! そんな恥ずかしいこと、大きな声で言わないでくだサーイ!」

 ばしばしと肩を叩かれます。

 どうやら、海洋生物にとっては特別な意味を持つ表現だったようです。

 他にも、浮き袋が破裂しそうなほどの恋心とか、エラ結核を患った半魚人がサナトリウム海域で療養するだとか、ヒレのある生き物でなければ共感できない表現が乱立しており、陸棲動物に過ぎない私では、トミエの心情を把握し切れないのでした。

「この、執拗に続く無精卵の描写は、文学的にどう位置付ければいいのだろうか。僕の目にはイクラの調理過程に見えるのだが」

「もう。わざと言わせようとしてるんですか? 勇者様ったら、好色にもほどがありますヨー!」

「どちらかというと食欲をそそられる表現なのだが、なるほど、人魚の世界ではそういう表現なのだね」

 これ以上の解読は無理と悟り、晩酌に移ることにしました。

 コカトリス鍋をつまみに、ビイルを頂きます。

 やはり、鶏肉は鍋に限ります。やたらと小皿を並べて、チビチビつまむような食べ方は、好きではありません。書生風に、ガツガツと飲み食いするのが一番なのです。

「ああ、いいなあ。あとはかやきがあれば言うことがないのになぁ」

「かやき?」

「貝焼きの東北訛りさ。大きな、ホタテの貝殻をね、鍋代わりにするんだ。旬の野菜や、豆腐なんかを入れて、出汁と一緒にコトコトと煮込む。寒い日は無性にこれが欲しくなる」

 でも、そうそう巨大ホタテなんて見つからないからね、と笑っていると、ふいにトミエが目を輝かせました。

「任せてくださーい! ホタテなら心当たりがありマース!」

 言って、どこかへ立ち去ったかと思うと、大きな貝殻を二つも抱えて戻って来ました。

「凄いじゃないか。どこで見つけたんだい」

「見つけるも何も、最初から身に着けてたんデース。人魚と言えば、貝殻の胸当てですからネー!」

「つまりこれは、君の肌着なんだね」

 残念ながら、調理器具としては不適格でした。

「ホワイ? どうして返却してきますか?」

「たとえば君は、僕がふんどしを外して、これでおむすびを握りなよ、と言ったら受け取るのかい。熱心な女性ファンでも嫌がると思う」

 人間と人魚は、衛生感覚さえもズレているのでした。

 本物の富栄だったら、こんなサバイバルな価値観で動かないのに、と急に悲しくなってきて、食欲も失せ、ふて寝するように床につきました。

 嗚呼、私はどうしてこうなのでしょう。生きている女に愛されるほど、死んだ女が恋しくなるのです。手元にあるうちは、何もかもつまらなく見えるのに、いざ手放してしまうと、あれほどのものはない、と思えてくるのです。

 死にたい、死んでしまいたい、そんなことを喚いているうちにうとうとしてきて、いつの間にか眠ってしまいました。

 朝になると、やっぱり新作が書きたいから死ぬのはよそう、という気分で目を覚ましました。

 執筆意欲もありますが、段々トミエもふてぶてしくなってきて、私が落ち込んでも慌てなくなってきたのが大きいと感じます。昨晩など、「また死にたいって言ってる。かわいいデース。明日は何食べます?」と余裕の表情でした。

 正直なことを申し上げると、私は周りに心配してほしくて死ぬ死ぬと騒いでいる節があるので、あっけらかんとした態度を取られると、逆に死ぬ気が失せるのです。寂しがりやは、かまいすぎても死ぬし、かまわなすぎても死ぬのです。その点、トミエの「まーた発作が始まったわ」という態度は、最良の対応と言えるのでした。この次元に到達できたのは、妻に続いて二人目です。トミエは、お守りの才能があります。掘り出し物と言えます。

 本物の富栄は、私に引きずられて、一緒に死にたがるようなところがあったので、これはこれで悪くないかもしれない、とろくでもないことを考えながら、机に向かいました。

 洋風の宿なので、書き物机と椅子が用意されているのですが、これはたいへんありがたいことでした。私は、へんに下肢の長いところがあって、座布団に座るのが苦手なのです。足の置き場に困るというか、窮屈というか、とにかく体に合わないようで、つい、片膝を立ててしまうのです。ずっとそんな座り方をしてきたせいか、体重が片側にばかりかかって、左腿の方が太くなってしまったほどでした。

「さて」

 腕まくりをすると、昨夜放り投げた、日記の解読を再開します。

 これは脱線ではありません。魔王退治にも関わってくることなのです。

 というのも、そろそろ旅費が付きようとしているのです。川端を追跡しようにも、無一文ではさすがに無謀ですから、まずは金策に取り掛からなければならないのでした。

 そして悲しいことに、ニンジンやすき焼き程度では、ちっとも儲からないのです。シラクスの市は、山の幸に恵まれているせいか、肉と野菜は値崩れを起こしているのでした。そうなると、小説を出版するか、新しいグリモワールを作って、より利益の出る商品を生み出すしかないのですが、印刷所が見当たらない以上、後者に傾くのは自然な成り行きでした。

 幸い、トミエの日記は磯臭い文体なので、これを元にした魔導書を書けば、魔法で海産物を作れるかもしれません。魚介類は高値で取引されているので、悪くない計画だと思うのですが、周り道をしている感は否めず、どこかに近道はないだろうか、と途方に暮れていると、

「旦那、旦那」

 窓の向こうから、押し殺したような声が聞こえてきました。

 はて、こんな朝っぱらから来客とは何事だろうか。ひょっとして酒でもくれるのかしら、と期待しながら窓を開けると、犬の顔と目が合いました。

 コボルトでした。

「旦那! 実は」

 閉めました。

 どうして明るいうちから犬の面を見なきゃいけないんだ、と布団を被り、ガタガタ震えていると、次第に私を呼ぶ声が大きくなりました。

「開けてください。貴方にとっても、損な話ではないのです」

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