第13話 汚れっちまった悲しみに 今日もオーガの降りかかる
五分ほど歩くと、ハツコが足を止め、唸り声を発しました。
「グルルル……」
どうやら、前方の茂みを警戒しているようです。
トミエもただならぬ気配を感じ取ったらしく、銛を構えているのが見えました。
「いるのだね」
ついに、この時が来たのです。
私はこれから、変わり果てた鴎外先生と対峙することになる。
ええい、何を怖がってるんだ。相手はたかが医者じゃないか。それを言うなら自分はただのアル中だが、医者と病人の力関係は、いつだって病人の方が上なのだ。私は、医者の手を煩わせることに関しては、ほとんど天才とまで謳われたではないか。
よし、何も恐れる必要はない。
覚悟を決め、魔法の準備に入ります。
しばらくすると、茂みの奥から、ぬっと大男が姿を現しました。
「これが森鴎外なのかい」
「ええ、森オーガです!」
そこに立っていたのは、見るも無残なもののけでした。
体毛は一本もなく、肌は緑色で、金剛力士像の如く引き締まった体をした、大入道なのです。
おそらく、身の丈八尺以上。二メートル五十センチはあるでしょう。
服は、粗末な腰布の他に、何も着けておりませんでした。
「グゴオオオオォ! オンナァ! オンナの匂いィィィィ!」
だらだらとよだれを垂らしながら、森鴎外が吼えます。
色々と思い悩む事があったのでしょうが、肌を緑色に染め上げる、というのは初めて見る形の自暴自棄でした。もっと他に、ヤケ酒とか博打とか、後戻りできる形式の発散法はなかったのでしょうか。
また、医学知識を悪用して、自らを筋骨隆々の巨漢に改造するなど、あってはならないことです。
ドイツは長身が多いと聞きますから、留学中に身長をからかわれるいった、人には言えない苦労があったのかもしれませんが、だからといって二メートル五十センチはやりすぎでした。
ここまで来ると、どうにかして遺族に亡骸を届けたとしても、本人だとわかってもらえない恐れがあります。これは、当家の鴎外ではない。新種の妖怪として、博物館に届けよう。などと判断されてしまうのではないでしょうか。
森家の受難を思うと、この世の地獄としか言いようがありませんでした。
「オンナ! 寄こせェェェェェ!」
やがて森鴎外が、棍棒を振り回しながら突っ込んで来ました。
硬質な文体で知られる、大文豪の成れの果てが、この蛮行なのです。
私は、はらはらと落涙しながら、水魔法を唱えました。
「七里ヶ浜」
雪をかきわけ、水柱が炸裂します。
哀れ、森鴎外は高々と打ち上げられ、四肢をめちゃくちゃな方向によじり、何百メートルも離れた地点に落下しました。
あの高さでは、即死に違いありません。
「鴎外先生……」
同じ日本人を殺した虚しさに、涙が止まりませんでした。
私はもう、人殺しなのだ。
自分が何か、けがわらしいものになった気さえしてきます。
「この感覚こそが、汚れっちまった悲しみなのかな、中原」
雪が吹きすさぶ中、第二、第三の森鴎外が出現しました。四体目は、ひときわ大きな体格でした。
「ゴオオォォォ……グルルォォォ……オーガァァァァ……!」
「そ、そんな……」
トミエの顔が、みるみる青ざめていきます。
「どうしたんだい」
「その、私は少しだけオーガ語が聞き取れるんですけど、さっき勇者様が倒した個体は、下っ端だったらしくて。『やつは四天王の中でも最弱……』と嘲笑ってるみたいなんです』
森鴎外四天王の中で、最弱。
一人だけ、医師免許を持ってなかったとか、そういうことでしょうか。
試験に失敗したばかりに、野人仲間にも馬鹿にされてしまう。学閥のせちがらい上下関係を感じずにはいられませんでした。
他人事では、ないのです。
私は東大仏文科中退なので、東大卒業生の派閥から、半端者として扱われることが多々ありました。
そして森鴎外は東大医学部を出ているので、そういった意味でも先輩作家なのでした。
どうでもいいことですが、川端も東大文学部出身だったりします。でも、悔しいので先輩とは呼んであげません。
それよりも今は、鴎外四天王の始末です。
「玉川上水!」
襲い来る森鴎外を、水魔法で片っ端から蹴散らしていきます。
あるものは首をへし折られ、またある者は濁流に飲み込まれ、次々に命を落としました。
「流石です勇者様! 森オーガの討伐は、国軍でも手こずるんですよ! 勇者様の戦力は、単身で軍隊に匹敵しています!」
同胞殺しを誉められたって、何も嬉しくないのでした。
自分はもう、元には戻れないのだ。人として、大切なものを失くしてしまったのだ。
古来、兵士達が感じてきたむなしさ、侍が出家する心理とはこれだったのだと悟り、泣き崩れました。
森鴎外は、ひょっとしたら、墓石がご近所さんかもしれないのです。
そんな人を、私は手ずから虐殺したのです。
「一分で四体撃破。とんでもない魔力ですね。……あれっ。なんで凌辱された村娘みたいなノリで泣いてるんですか」
「僕はね、穢れた人間なんだ」
「返り血でも浴びました? うーん。綺麗に見えますけども」
森鴎外の死体を、ハツコが美味そうに齧ります。
これだから犬はきらいなのです。まったく、畜生道とはよく言ったものでした。
「とはいえ、今は僕も畜生か」
「勇者様は、さっきから何に落ち込んでるんですか?」
トミエに支えられながら、ふらふらと歩き続けます。
私がこういう、憂鬱めいた気分に囚われると、余計に女のひとが気にかけてくると知っていたのですが、もはや作り笑いを浮かべる気力もなく、黙ってうなだれておりました。
「ねえ、どうしてそんなに塞ぎ込んでるんです? 駄目、駄目なの。そんな顔されると私、何でもしてあげたくなっちゃう……」
夜になると、トミエは私の子供が欲しいと言ってきました。
「人魚って、どうやって人間の子供を産むんだい」
「簡単ですよ。まず私が卵を産んで、そこに勇者様が」
気分が悪くなったので、何もせずに眠りました。
翌朝、私が森鴎外の墓を作ろうと言い出すと、トミエは怪訝そうな顔で反対しました。
信じられぬ、なんて残酷な娘なのだ。
珍しく私もむきになって、二人、じっくりと話し合ってみたところ、あれは「森鴎外」ではなく「森オーガ」だと気付き、笑いました。
無知は、悲劇の同義語(シノニム)だとばかり思っていたのですが、ここにきて、喜劇のシノニムだと判明したようです。
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