第7話 魔王、川端康成
市場での一件以来、私の精神状態は、転げ落ちるように悪化しました。
この世界の山河、私を勇者呼ばわりしていた人々、それら全てが、いかがわしいものに思えてきたのです。
村長が私にトミエを寄こしてきたのも、亜人という被差別階級の娘であったからではないか、これは好意ではなく、異邦人に対する蔑視からきた行ないなのだ、と思えてきて、何もかも馬鹿らしくなりました。
また、生前から患っていた肺病もいよいよ具合が悪くなり、息をするのも苦しく、一日のほとんどをベッドの上で過ごすようになりました。
トミエは何を勘違いしているのか、自分の不手際で私の機嫌を損ねたと考えているらしく、やたらとおろおろして、こちらの顔色ばかりうかがってきます。
そして、その卑屈さがハツコを思い出させ、余計に気分が悪くなるのでした。
ハツコは、私の最初の妻です。(本当の名は
姦通が露見したあとのハツコは、まったく惨めなもので、へんにおろおろして、私の一挙一動に気を遣うようになりました。あんまり可哀そうなので、水上温泉で心中してみたのですが、二人とも生き延びてしまい、離縁と至りました。
まさしく不貞の妻だったわけですが、割れ鍋に綴じ蓋、私のような男にはふさわしかろうと思っていたのも事実で、こうして思い返してみると、案外悪い女ではなかったのかもしれない、何もかも私がいけなかったのかもしれない、と悔やむ気持ちが湧いてくるのでした。
「勇者様……どうしてこうなっちゃったんですか。私のせいですか? 私のせいで、鎧が買えなかったからですか?」
「いいから、そのおどおどをやめてくれ。破綻した夫婦生活を思い出すのだ」
もう、耐えられませんでした。
死んだ方がいい、死ぬのが正解なんだ。
入水自殺ができない体でも、方法はいくつかあります。
夜になると、トミエが泣き疲れ、寝息を立て始めたので、そっと宿を抜け出しました。
明かりは必要ありませんでした。
雪が月の光を反射し、足元を照らしてくれたからです。
冬が見せた思いがけない優しさは、故郷の津軽を思い起こさせ、涙がぽろぽろとあふれ出てきました。
私は、宿の裏手に回り込むと、そこに植えてあった木に、帯を結びつけました。それから、人の頭が通るくらいの輪を作って、首を吊りました。
念のため言っておきますが、ちゃんと遺書は用意してあります。
枕の下に、トミエ宛の手紙をしまってあるのです。
『トミ様、誰よりもお前を愛しておりました』
そう書いてあります。
妻にも、似たような遺書を残した覚えがあります。
それと愛人にも、誰よりも愛していると言った覚えがあります。
女性に優しい言葉をかけるのは、マナアだと思っております。死ねばいいのに、と罵られているような気がしますが、私もそれに同意します。どうか死なせてください。死にたいんです。
なのに、中々息が止まらないのは、どういうことでしょうか。
昔、鎌倉の山中で首吊り未遂をした時は、あっという間に息苦しくなったものですが。
【太宰治は気道確保のスキルを習得した!】
……また、これでした。
枝の上でプラプラと揺れながら、己の非運を呪います。
「なぜ死ねないのだ……」
その時、カラリと音が鳴りました。
下駄の音でした。
「――久しいね、太宰君。しかし、再会するなり自殺未遂とは、実に貴方らしい」
腕を振り回し、ぶら下がったまま回転して、声のした方へと向き直ります。
そこにいたのは、ミミズクのような男でした。
ぎろりと目が大きく、しかも羽織姿なものですから、どこか妖術師めいた印象があるのですが、かつては美童だったのではないかという気配も感じられる、独特の風貌でした。
男は、じっとこちらを見上げたまま、微動だにしません。
「川端康成……」
妙なもので、記憶の中にある姿より、ずっと若々しく見えました。
「……」
「……」
「……」
「……」
川端はひどく無口な性分で、放っておけば何時間でも黙っている男です。
このままでらちが明かないので、私の方から話しかけることにしました。
「あの、今日はどういったご用件でしょうか」
川端はゆっくりと口を開きます。
「老けましたね、太宰君」
「そりゃあ、三十八ですから。あちこちにガタの来る年齢です」
「……!」
川端の目が、カッと見開かれました。
「貴方は、私の十歳下だと記憶している」
「はあ、その通りですが」
私は明治四十二年生まれ。川端は明治三十二年生まれ。それがどうしたというのでしょうか。
「私は今年、四十三歳になった」
ぶら下がったまま、首を傾げます。
私と川端の年齢が、五歳差に縮んでいる?
「そうなると、貴方は戦時中に亡くなった計算になるのですが」
「その通りだが。覚えておらんのかね」
おかしな話です。私の知っている川端康成は、無事、戦火を生き延びたのですから。
狐につままれたような思いで、目の前の男を見つめます。
「貴方はいったい、どこの川端康成なんですか?」
「……この世界は、時間の流れがおかしいのかもしれない。嫌なものだね。醜いだけならまだしも、まともに時も刻めないとは」
川端の声には、侮蔑の色がありました。よほどここの景色が気にくわないようです。
「醜い。だから滅ぼすのですか」
右手を上げ、川端はぐるりと周囲を指し示します。
「この国を見なさい。もみじもない。五重塔もない。四季もはっきりしていない。なんと一年の半分以上が冬なのだ。トンネルを抜けると国土の十割が雪国であった。これはやりすぎだ。せめて二割に抑えてほしい。ここで執筆活動をしていたら、伊豆の踊子が伊豆のエスキモーになっていただろう。おまけに住民の民度は低く、亜人を、弱者を痛めつけている。あと、中々金を貸してくれない。日本人なら、ぢっと睨めば誰でも金を出してくれたのに。こんな世界は駄目だ。一度全てを更地にして、京都に作り替えるしかないのです」
寡黙な川端にしては珍しい、長ったらしい愚痴から、金銭関係のせつなさを嗅ぎ取りました。
どうやらこの男は、死んでも借金癖が直らなかったようです。
「私は、亜人が安心して住める国を作る。そのためにも、人間族から土地を奪う必要があるのだ」
ミノムシのように揺れながら、質問をぶつけます。
「なぜ僕の居場所がわかったのですか」
「近々、この町に総攻撃を仕掛けるつもりでいる。ゆえに敵情視察をしていました」
「総大将自ら?」
「一般人は魔王の顔など知らない。第一、誰に見つかったとしても私は負けんよ。……三日ほど、自分の足で街を見て回った。すると市場で、あの水魔法騒ぎが起こった。気になって様子を見に行ったら、君を見つけた。あれから一件一件宿を回って、ようやくここにたどり着いた」
頭上から、女の悲鳴が上がりました。おそらくトミエが目を覚まし、遺書に気付いたのでしょう。
ダダダダ、と階段を駆け下りる音も聞こえてきます。
「太宰君」
「何ですか。じきにうるさくなるので、用事があるなら早めに済ませてくれると助かります」
「私の元に来なさい」
一瞬、何を言われているのかわかりませんでした。
「貴方は魔法の才能がお有りなようだ。私の下で働きなさい」
「魔王の手下となって、暴れ狂えと言うのですか」
「……貴方は、何か勘違いしている。私は、人殺しは一切やらない。少々荒っぽい立ち退き運動を繰り返しているだけだ。そうとも、人間が持っている財産や権利を、亜人に分け与えているに過ぎない。再分配、平等化というやつだ。貴方がかつてのめり込んでいた、マルキシズムと何が違うというのか」
私が黙っていると、川端はさらに言葉を重ねました。
「無論、ただでとは言わない。私の配下になるというなら、世界の半分をくれてやろう。私は東半分を京都にするから、貴方は西半分を青森にするといい」
「土地などいりません。僕は地主の息子なんです。生まれた時から持っていたものに、どうして執着できましょうか」
「わかった。なら――」
元々大きな目を、さらに大きくして、川端は言います。
「芥川賞をあげよう」
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