第6話 あさましき物売り
宿に戻ると、先に帰っていたトミエが、髪を梳かしているところでした。
「君も罪な女だね」
「何がですか?」
うふふふ、と屈託のない笑みを浮かべるトミエに、魔性を見出すことはできませんでした。
それどころか、童女めいた無邪気さが溢れているのを見て、ヴァジニティの尊さを、改めて思い知るのでした。
この娘は、町の男達を弄んでいるのではなく、ただただ商売根性、一本でも多くのニンジンを売りたいという思いから、市場に出ているのです。
全ては私への懸想、愛情に由来する行為で、その健気さを思うと、胸中が罪悪感でいっぱいになりました。
私は、トミエが稼いだ金で飲んでいる。
己の不甲斐なさ、惨めさをまざまざと見せつけられたようで、たまらず膝をつきました。
「酒は、もうやめる。今日から真人間になる」
泣きながら詫びると、トミエは慈悲深い笑みを浮かべ、
「気にしなくていいのに。私が売っている商品は、元は勇者様が生やしたものでしょう。毎朝、ニンジン失格を音読する。これは立派な労働ですよ」
「でも、金を作っているのは君だ。それに比べて僕ときたら、君が持ってきた金を、酒に換えるだけの男じゃないか」
「そんなに申し訳なく思ってるなら、お願いしたい事があります」
「なんだい? 大長編がお望みかい? それとも滑稽小説かい? 言ってくれればどんな話でも書く」
「さっさと魔王を倒してください」
「……」
そういえば、私の仕事は、魔王を倒す事なのでした。
「思い出した。川端と戦わなければならないんだった」
「そうですよ。やっぱり忘れてたんですね」
「酒と女があると駄目だね、あっという間に退廃小説の世界に入り込んでしまう」
姿勢を崩し、トミエと向き合います。
「町を出た方がいいのかもしれない。このままここにいたら、僕はどこまでも堕落してゆく。この町の酒は美味すぎる」
「その前に、まともな鎧を買っておきましょう。いつまでその、ひらひらした服で冒険するつもりですか」
トミエに袖を引かれ、市場へと連れて行かれました。
露店の立ち並ぶ、活気に満ちた場所でした。誰もが明るく、お喋りなので、帰りたくなりました。
値切りとか、交渉とか、私の大嫌いな慣習が支配している空間なのです。まともに店主の目も見れないのに、いったいどうやって価格交渉をしろというのでしょうか? 私にできる駆け引きなど、土下座と狂言自殺以外に何も思いつきません。
「駄目だ。お酒を飲んじゃった」
「あれ……ついさっき禁酒宣言してませんでした?」
陽気で押しの強そうな人間に囲まれると、どうしても飲んでしまうのです。しらふでは話しかけられないのです。
「もう僕はおしまいだ。トミエにも見捨てられるんだ」
「そんなこと言って。飲んだなんて嘘なんでしょう? 芝居がお上手なんですネ」
「違うよ、本当に飲んだんだ。ほら、顔が赤いだろう」
「膝をついて誓ったのに、飲むはずないじゃないですか。冗談はよして」
一気に酔いが覚めました。
目の前の娘の、人を信ずる力の強さに、言葉も出ませんでした。
酒は、今度こそやめる。
いや、急にやめるのは無理だから、今日は普段の半分に抑えて、明日やめる。
……明日やめると文体に悪影響が出そうだから、明後日まで、二日かけて酒を抜くのがいいかもしれない。
どうだろう。やはりここは慎重に、一週間かけて断酒するべきかもしれぬ。
「今日はいつもより発作がひどいですね。ほらほら、もうじき目的の店が見えてきますよ」
トミエの指差す方向に、肩幅の広い、四十がらみの男が立っておりました。商品の後ろで、傲然と腕を組む姿は、商人というより将校に見えます。
「人魚に売るものはねえよ。あっち行きな」
男は、しっしっ、と手で追い払うような仕草をしました。
はて、これは何事かね。視線でトミエに問いかけると、
「困っちゃいますよね。私が亜人だってことを、誰かから教わったみたいで。こうなるともう、ものを売ってくれないんですよ、この国のひと達は」
けろりとした顔で言うのでした。
「勇者様は人間族だから、普通に買い物できると思いますよ。店主さーん、鋼の胸当て、Lサイズでお願いします。違います違います、私じゃなくって、こちらの紳士に」
店主は、やぶにらみの目で私を見て、
「いらっしゃいませえ!」
と声を張り上げました。
「本日、甲冑は大特価となっておりまして。お客様にはきっと青がお似合いですよ」
その豹変ぶりたるや、あさましいにもほどがありました。
しかも何を考えているのか、トミエまでにこにこと笑っているのです。
亜人は、人間とは結婚できない。亜人は、一人では家も借りられない。それがこの世界の常識であり、虐げられる側の、トミエですら受け入れている。
受け入れている? 違う、癒着しているのだ。日常的に傷つけられ、もはやその化膿が体の一部となり、どこからが膿でどこからが己の肉なのか、わからなくなっている。
痛みの自覚すらない者は、ただ苦しんでいる者より、はるかに悲惨に見えました。
「帰る」
「勇者様?」
くるりと背中を向け、十歩ほど歩いたところで、さきほどの店主が、卑猥な言葉を投げてくるのが聞こえました。
もはや相手にするのも馬鹿らしく、
「玉川上水」
と呪文を唱え、店主の足元に、噴水を作ってやりました。
いえ、あの水力ならば間欠泉と呼ぶのがふさわしいでしょう。
悲鳴、そして商品が舞い上がる音に耳を澄ませていると、トミエがまとわりついてきました。
「何を怒ってるんですか。お酒が足りないんですか?」
「……芸術家は、もともと弱い者の味方だったはずなんだ。弱者の友なんだ」
トミエよ、お前は悪くない。
この世界がいけないのだ。
醜い世界。
「美しくないので滅ぼそうと思う、か」
川端が暴れ狂う目的を、こんな形で理解するとは思ってもみませんでした。
あの男は大悪党です。私の生活に
しかし彼は、あくまで悪党なのであって、悪人ではありません。
むしろ客観的な視点で見ると、私より善人で、立派な人間でした。
あれは新人の発掘に勤しんだり、社会的な弱者に手を差し伸べたり、そういった活動に熱を上げていた、聖職者のような男なのです。
だから私は、あいつが苦手なのかもしれません。
憎くて憎くてたまらないのに、尊敬せざるを得ない。きらいなのに、敬意を抱いている。
これじゃまるで、頑固親父と勘当息子じゃないか。
「……なぜ芥川賞をくれなかったのですか」
私は、貴方に認めてほしかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます