第7章「05:00」

 夢を見た。細い管が刺さった真っ白な自分の腕を、ベッドの上でぼんやり見つめている夢。簡素な白い箱の中に閉じ込められて、俺はいつまでここにいるのだろうと考えていた。いっそのこと殺してくれれば。そんな思考が過って、蛍光灯のぶら下がる天井に視線を移した。

 蛍光灯を見つめていると、部屋の入り口から誰かが入ってくる音がする。少し高い靴音が部屋に響いて、自分の寝るベッドの前で止まった。

 顔を向けると、顔見知りの白衣の青年が立っていた。不思議とほっとして微笑むと、青年が俺に元気かどうか尋ねてくる。元気だよ、と返事をすると青年が優しく笑う。

 青年は近くにあった丸椅子をベッドの近くまで引きずってきて、それに座るといつものように外の世界の話を始めた。俺はそれを聞くのがすごく楽しかったんだ。彼が見聞きしてきた事を共有できるのが嬉しかった。俺は外の世界を知らないから。

「今度、水族館に行こう」

 青年が明るい声で言う。俺は一瞬目を丸くしてからすぐに頷いた。青年が約束だと俺の手を握る。手の温もりに、生きなければいけないなという気持ちになった。

 優しかった記憶の断片が、光に滲んで眩む。

「ナルサワ……っ!」

 意識の覚醒と共に、胸に強烈な痛みが走る。小さく呻いて身悶えしようとしたが、手足が拘束されていて思うように動けない。俺はどうやら、手術台のようなものに拘束されているようだった。

「おはよ。目、覚めちゃったんだ」

 天井の丸い照明がひどく眩しくて目を細めていると、靴音と共に視界に影が出来た。ナルサワだ。俺は拘束具が外れないかと試しに手足を動かした。だが、いくら抵抗しても拘束具が外れる気配はない。

「今の君じゃあそれは外せないさ。無駄な抵抗はしない方がいいよ」

「くっ、ナルサワ、やめろ……!」

「怖い? あはは、そんな顔しないで。君はもう一度、新しく生まれ変わるだけだよ。細胞組織に変化を促して、君の肉体を更にバージョンアップするんだ。そのバージョンアップに、記憶や心なんてものは必要ない。それだけさ」

 ナルサワの白い指先が俺の臍から鎖骨までを這い、頬を撫でた。温度の感じないその手は、ナルサワが人間ではない事を感じさせる。

「ミツカイ、大丈夫だよ。君が何を失っても、僕がいるからね」

 口調は優しいが、ナルサワの目は凍てつくように冷たかった。もう、既にナルサワは俺の記憶や心を消す気しかないという事を感じさせられて胸が苦しくなる。抵抗しようにも、胸の傷口が痛んで思うように力が出ない。

 ナルサワがそうっと俺の傍を離れ、すぐ近くに置いてある手術器具らしきものを漁り始めた。その背中から溢れ出る悲哀と狂気に、胸が締め付けられた。

 俺がナルサワの人生をめちゃくちゃにしてしまった。そう思うと、俺はもうナルサワの行動を拒むことは出来ないのではないかと感じる。俺は、きっと責任を取らなければいけない。ナルサワを、こんな風にしてしまった責任を。

「少し痛いかもしれないけど、我慢して」

 背を向けていたナルサワがこちらを振り返って笑った。手元には銀色に光るメスが握られている。俺は初めて、それを怖いと思った。このまま、記憶や心が消されてしまうことを恐ろしく感じたのだ。メスに脳みそを裂かれ、自分がまたバラバラになることを想像してゾッとする。

 ナルサワの持つ刃物が、俺の眼前に迫る。その鋭利な先端に嫌になる程釘付けになりながら息を呑んだ瞬間だった。

「やめてっ!」

 ナルサワの背後から、悲鳴が聞こえた。ナルサワと俺がハッとして、声の方へと視線を移す。

「ミナト……?」

 俺達の視線の先には、ミナトがいた。手術室の入り口のドアの前で、震えながら立っている。俺は声を出せず、その姿を呆然と見つめていた。

「まったく、どうやって逃げてきたんだこの子ネズミちゃんは」

 ナルサワが腰に手を当て、呆れたように小さくため息をつくのが聞こえた。それからすぐに、ミナトが意を決したように叫んだ。

「ミツカイ兄ちゃんを離せ!」

 ミナトが勢いよく走ってナルサワの身体に体当たりする。だが、ナルサワはびくともしない。身長差や力の差が全然違うのだ、無理もないだろう。それでもミナトはナルサワに必死に掴みかかり、俺の傍から離そうとする。

「……何をしたって、どうにもならないよ? 少年。諦めた方が良い」

 ナルサワが平坦な声でミナトに話しかける。俺も、本当はそう思っていた。早く俺の事を諦めて逃げて欲しいと。だがミナトはそれに対して「嫌だ!」と強く拒絶した。

「諦めるもんか! 僕が……今度は僕がミツカイ兄ちゃんのヒーローになりたいんだ! だから絶対諦めない!」

 ミナトの叫んだ言葉。それが頭を強く殴りつけたような衝撃を生んで、俺は目を瞠る。ミナトが命がけで俺のヒーローになろうとしているという事実が強く胸に響いて、身体中の血を沸騰させた。

「ヒーロー、ねえ。あははは、そんなの…………許さないよ。ミツカイの味方は、僕だけでいい」

「うっ……⁉」

 ナルサワの言葉とほぼ同時に、ミナトの様子がおかしくなる。ふらつき、その場に倒れるミナトをどうしたのかと注視すると、ミナトの足元に一匹の小さな蛇が巻き付いていた。まさか、あの蛇に噛みつかれたのではないか? 背筋をゾッとしたものが駆け抜ける。

「君も実験台にしてあげるよ。……僕みたいな失敗作になるだろうけどね。」

 ナルサワが倒れたミナトに手を伸ばす。心臓の鼓動が、どんどん早くなった。

 ミナトを、助けなければ。俺をヒーローにしてくれたミナトを。この身体がどうなったって構わない。死んだって良い。だから早く!

 身体に思い切り力を入れた。力を入れるほど胸の傷口が開き、血が服に滲んでいく。だが痛みに泣き叫んでいる暇もない。今優先すべきことは、ミナトを助けることだ。

「ぐ、あぁああ!」

 血を滾らせ、肉体を変化させるイメージをする。脳裏に浮かんだイメージ通り、みるみるうちに俺の身体が漆黒の皮膚に包まれ肉体が移り変わっていく。

 今なら壊せる。俺は力の限りを尽くして拘束具を引きちぎった。手首の痛みも、胸の傷口が開いた痛みも気にならない。それよりも優先することがあった。俺は手術台から転がり落ちるようにして下りると、ナルサワとミナトの元へと走る。

「ミナトに手を出すなーーッ!」

 俺はそう怒鳴り、振り返ったナルサワの頬に拳を打ち込んだ。ナルサワはふいの攻撃に対処する暇もなかったように俺の拳を受け、その場に倒れ込む。その隙に、俺はすぐにミナトを抱えて手術室の入り口へ向かった。振り返ることは、出来なかった。

 手術室を出ると、俺はとにかく走り回って出口を探した。暗い廊下には、先ほどまでいた水族館の淡い光や温かさはない。ただ不気味なほどに静かで薄暗い。何処となく、KIΧのアジトのような雰囲気を感じさせた。

「う、う……」

 俺が出口を探している最中、ミナトが小さく呻いた。顔を覗き込むと、ミナトの額には汗が滲み、口元からは苦しげな息を吐いている。やはり、ミナトに毒か何かを仕込んだのかもしれない。早く安全な場所に連れて行き看病しなければミナトの命が危ない。

 俺は目に入ったドアを片っ端から開けて出口を探した。構成員に出くわす危険な行為だと分かっていたが、場所が何処だか分からない故に仕方なかった。だが、不思議な事にどの部屋を開けても構成員の一人も見当たらない。ただ血生臭い部屋がいくつかあるだけで、誰かがいる気配がないのだ。

 俺はそれを疑問に思いながらも、最後に見つけた鉄製の重いドアを開いた。ドアの向こうには螺旋状に続く階段があり、俺はそれを登ることに決める。飛行できれば一番よかったのだが、今は飛行する力がもう残っていない。

 階段を一歩一歩踏みしめる度に身体がじんわりとした痛みに包まれる。けれど、痛みに構っている暇はないと歯を食いしばってただ階段を登った。薄暗い螺旋階段は永遠に続いているようにも感じて、息苦しさと焦燥感を掻き立てる。それでも希望はあると信じて、俺はひたすら足を動かした。

 それからどれくらいの時間登ったかわからない。気づくと一枚の簡素なドアが現れ、俺はそれをゆっくりと開けた。

 ドアを開けた瞬間、新鮮で冷めた空気が頬を掠める。そして、あの独特な塩気のある匂い。暗がりから抜け出た俺の視界には、何処へ続いているのか分からない海が見えていた。こんな状況でなければ、陽の光で煌めく海の美しさに素直に感動できていただろう。

 ドアから続くコンクリートの階段を下り、すぐ近くの物陰にミナトを隠すように横たえる。俺はミナトの胸に耳を当て、ミナトがまだ生きているかを確認した。心臓が脈打つ音が耳に届くと、小さく安堵する。だが、まだ油断は出来ない。

 俺は祈る様に、苦し気な顔のミナトの小さな手を握る。か細いが、まだ温かさの残るその手の感触を忘れたくないと思った。

「ミナト……生きていて、くれ」

 ぽつりと呟いた言葉が、さざ波の音で掻き消されていく。このまま祈っていてもミナトは救えない。わかっているつもりだ。例え命が尽きたとしても、ミナトだけは救わなければ。

「その子は死ぬよ、ミツカイ」

 さざ波の音に紛れて、声がした。俺はすぐに声の方に振り返る。

「ナルサワ……」

 陽の光に照らされて、ナルサワが佇んでいた。口の端から血を流し、憔悴したような顔で、俺を見下ろしている。俺は立ち上がると、ナルサワを真っ直ぐ見つめた。するとナルサワはくしゃりと顔を歪め、唇を噛んで俯いた。

「なんでわかってくれないの。僕は、君の事が……大切なのに……」

 震えるナルサワの姿が、白い鱗が浮かび上がる魑魅魍魎へと変化する。ナルサワが俺の前で変化したのは、初めてだった。真っ白な……神の使いともいえるような歪なその姿を、ただ悲しい程に美しいと思った。

「俺だって……お前が、大切だ」

「……嘘つき」

 会話はそこで途切れた。二人の間の沈黙が、朝の冷たい空気と共に流れていく。陽の光が、無情に俺達を照らしていた。 

 数秒、数分。音もなくナルサワが俺に殴りかかってくる。俺はその拳を甘んじて受け入れた。頬にめり込んだナルサワの拳によって口の中が切れ、唇の端から血が零れる。鈍い痛みにふらつきながら、俺も拳を繰り出した。ナルサワはそれを避け、俺の腹へと膝を打ち入れる。かは、と息苦しさに血を吐けば、白い砂の上に黒い液体が飛び散って滲んだ。だが、俺は倒れない。否、倒れる訳にはいかないとひたすらナルサワの攻撃に耐えた。

 ……そこからは、酷い戦いだった。おびただしい黒色の血をまき散らしながら、俺もナルサワも傷だらけになった。ナルサワが俺を傷つけた分、俺もナルサワを傷つけた。ただひたすらに傷つけあうだけの時間が流れる事を、苦痛に感じる暇もない程に。

 戦闘は、俺の方が不利だった。傷口が開ききった身体では、避けられる攻撃も上手く避けられない。攻撃を繰り出す度に肉体が悲鳴を上げ、痛みに脳が麻痺していく。

 朦朧とする意識。一瞬の隙が命取りになり、俺はナルサワに引き倒される。起き上がる前に、ナルサワが俺の身体に乗り上がった。馬乗りになってすぐ、ナルサワの手が俺の首に巻きつく。容赦なく絞められる首元を掻き毟ろうと、ナルサワの力が緩まることはない。

「死ね……死んでよ……! もう、死んで……!」

 ナルサワが息も絶え絶えに零す言葉は切実で、悲しみの色が滲んでいる。真っ赤に染まり始めた視界の中で、ナルサワが泣いているように感じた。涙こそ落ちてこないが、きっとナルサワの心は悲しみで包まれているのだろう。力を込めた指先が、呪詛を吐く唇が、震えている。俺が、きっとナルサワを悲しませている。そしてその悲しみを拭えるのは、俺だけなのだ。

 俺はナルサワの手首を掴んでいた自らの手をそうっとナルサワの目元へと持っていく。壊れ物に触れるように、ナルサワの見えない涙を拭うようにしてひび割れた目元をなぞった。

「……っ!」

 ナルサワがびくっと肩を揺らす。首を絞めている力が緩み、ほんの少しだけ息がしやすくなった。言うなら、今だ。俺は血の味が広がる口元を動かして囁く。

「……ナルサワ、あり……がとう……」

 俺を救おうと必死に手を伸ばすナルサワに、言わなければならないと思った。やり方は間違っていたけれど、誰も彼もが俺を救おうと必死に藻掻いていた。ナルサワだってそうだ。俺の為に人体実験を受け、元の肉体を失った。俺の為だと家族を殺し、大きな罪を背負った。全てが、俺の事を考えた上での行動なのだ。その深く歪んだ愛情に、俺は言葉を返すべきだと思った。俺を愛してくれた彼に、感謝の言葉を。

「……やめて、よ……。ありがとうなんて……言わないで……。そんなの……言われる筋合いなんか……僕には……」

 俺の掠れた言葉が届いたのか、ナルサワが唇を戦慄かせる。そして、ずるずると俺の首から引き戻した手で顔を覆い、苦し気に肩を震わせた。そのナルサワの姿は、自らの罪に苦しんでいるようにも見えた。

「……ナル、サワ。俺が、一緒にいてやる……から……だから、もう……泣くな……」

 お前の罪や受けた傷は、俺が一緒に抱える。オジカから全てを知らされた時から、そう決めていた。ナルサワは俺の言葉を聞いて、覆っていた顔をゆっくりと上げる。そこには、変化の解かれたいつものナルサワがいた。俺も同じように、漆黒の鎧を解く。もう二人の間に、傷つけあう意思はなかった。

「本当に、一緒に……いてくれるの? 僕が……こんな奴でも……」

「……当たり前、だ。……友達、なんだろう? 俺と、お前は……」

 俺が微笑むと、ナルサワが顔を歪ませる。嬉しいのだか、悲しいのだか分からない顔だった。でもわからなくてよかった。わからないところも、愛おしいと思う。

 暫くお互いを見つめ合うと、ナルサワが俺の身体の上から退いて砂の上に座った。俺も起き上がって、静かにナルサワの隣に座る。

「……ミナト君には、君の血を飲ませると良い。そしたらきっと……回復するから」

 ナルサワがぽつりと言った。俺はそれを聞いて「……わかった」と小さく頷く。海の方を見つめるナルサワの表情は、何処か穏やかに感じられた。俺はその横顔を見つめていると、ナルサワが俺の視線に気づいたようにこちらを向く。

「ミツカイ……僕のお願い、聞いてくれる?」

「……なんだ」

 ナルサワは俺の方に身体を向けると、静かに左手を俺の方に差し出した。

「僕を、君の未来に一緒に連れていって」

 薬指にはめられた制御装置が太陽に照らされてきらりと光る。俺はナルサワが何をして欲しいのか、自分が何をすべきなのかを感じ取った。躊躇うことは出来ない。俺は喚く自分の感情を押し殺して、ナルサワの白い手を取る。それからもう片方の手で、ナルサワの薬指にはめられた制御装置をゆっくりと引き抜いていく。

「……ありがと。最後まで、わがまま言ってごめん」

「…………お前のわがままくらい、慣れてるさ」

 ナルサワがくしゃりと顔を歪めて笑う。俺も、一緒に笑った。こんな風に二人で笑える時間がもっとあればよかったと、手に持ったナルサワの制御装置を見て思う。

「ミツカイ、ぼ、く……」

 言葉が途切れ、ナルサワの身体がふらりと揺れた。そのまま倒れそうになるのをすぐに支えてやると、ナルサワが俺の肩に顔を埋めて弱々しくしがみついてくる。

「沢山、傷つけて……ごめん、ね。僕のこと……許さない、で……」

 息苦しそうな声に胸が締め付けられる。堪らず、俺はナルサワを掻き抱いた。

「お前の罪は、俺が忘れない。だから……安心しろ」

 声が震えそうになるのを抑え込んで、優しくナルサワに言う。するとナルサワは、ゆっくりと息を吐いて小さな声で呟いた。

「……またね、みつかい……」

 掻き抱いていた肉体がみるみるうちに厚みを失い、俺の胸の内で溶けていく。ナルサワの肉体が融解し、黒々とした液体になって身体に纏わりつこうと、構わなかった。ナルサワが生きていた事を、最後まで感じていたかった。

 そうして数分も経たないうちにナルサワの肉体は完全に消滅し、最期に残されたのは銀色に光る小さな制御装置。俺はそれを手の内に握り締め、震える唇を噛みしめた。

 ナルサワにとってはこれが最善の「救い」だったのだと自分に言い聞かせる。それでも、もっと別の方法もあったのではないかという後悔がじわりと滲んで、俺の身体から滴り落ちた。

 俺は制御装置を胸ポケットにしまってから立ち上がり、ミナトの元へと向かった。ミナトは変わらず苦し気な顔で横たわったままだ。もう、これ以上後悔を重ねたくない。

 近くに落ちていた空き瓶を拾い、岩に叩きつけてそれを割った。割れ落ちた瓶の破片を手に取り、手の平に突き刺して傷をつける。鋭い痛みが走ったのも束の間、手の平からぷつりと黒い液体が溢れ出た。すぐさまそれをミナトの小さく開いた口の中に注ぎ込む。ミナトが俺の血を嚥下したのを確認すると、俺は深くため息をついた。

 再び俺がミナトを抱えあげようとした時、ふいに遠くから誰かが自分を呼ぶ声が聞こえた。声の方を見ると、浜辺を人が走ってくるのが見えた。

「トウジ……!」

 トウジが来たのだ。きっと、あの後なんとかしてここまで辿り着いたのだろう。俺は気持ちが明るくなるのを感じた。

「ミナト! ミツカイ君!」

 俺達の元に辿り着いたトウジは、額にびっしょりと汗を滲ませていた。ずっと俺達を探し回っていたのかもしれない。俺達を見つけて安心した様子のトウジだったが、ミナトの様子を見てすぐに表情を曇らせる。

「……すぐにミナトを病院に連れて行ってやってくれ。今ならまだ、助かるはずだ」

「き、君はどうするんだ」

「俺は……行く場所がある」

 それだけ言って、ミナトとトウジに背を向けて歩き出した。トウジが焦ったように俺の名前を呼ぶ。俺は振り返り、トウジを見た。トウジの顔を見ると、これまでの事が少しだけ蘇る。俺に優しい言葉を掛けてくれたトウジとミナト。この二人には、幸せになって欲しい。

「トウジ……迷惑をかけて、すまなかった。それと……ミナトに言っておいてくれ。俺をヒーローにしてくれて……ありがとう、と」

 口元に、笑みを作る。トウジが何か言いたげな顔をしたが、俺は見て見ぬふりをして再び歩き出した。トウジは、それ以上俺には何も言わなかった。俺の決意を悟ったのだろう。

 砂場に足を取られながら重い身体を引きずるのが苦痛だ。だが、俺にはまだやり残したことがある。これ以上、俺やナルサワのような人間を増やさないための……命懸けの戦いが。

 今の俺の使命は、悲しみの連鎖を止める事だけだ。もう誰の命も手放したくない。この痛みを、誰にもわかって欲しくない。分からせてたまるものかと拳を握り締める。

 朝日の温もりに背を押され、俺は戦いを始めるための闘志を静かに燃やし始めた。

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ミツカイウタイテ ころもやぎ @koromo_5656

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