第6章「04:20」

 「ミツカイ君!」

 トウジの声が聞こえ、俺はゆっくりと重い瞼を上げた。ぼんやりとした視界のピントが次第に合い始めると、俺の顔を必死な顔で覗き込んでいるトウジがいる。

「……トウ、ジ」

「急に爆発音がしたと思ったら……一体何が……っ、いや、そんなのは後でいい! 早く家に戻ろう!」

 トウジが傷だらけの俺の身体を起こし、肩を貸してくれる。俺はトウジの肩に捕まって何とか立ち上がり力の入りきらない足で歩き始めた。ちらりと振り返れば、研究施設から黒い煙が上がり始めていた。あのまま放っておけば、いずれは全てが燃えてしまうだろう。

 トウジの力を借りて車のある場所まで戻ってくると、俺は車の後部座席で軽い止血や身体に刺さったガラスの破片を引き抜くなどの応急処置をした。

 ガラスの破片が刺さった傷の痛みはすぐに引いたものの、やはりオジカに刺された傷だけがどうしても深く痛んだ。血こそやっと止まったが、身体に刻み付けられた刺し跡が埋まる感覚がない。激痛が身体を殴りつけ、冷や汗が滲む。意識を保っているのが辛かった。

「……色々聞きたい事があるが……それよりも今は休んだ方がいいからな。家に着くまで、寝ていて良い」

 エンジンを掛けた車を急いで走らせ始めたトウジが、俺を気遣うようにルームミラーから視線を送ってくれる。俺はその言葉に甘えたい気持ちと、オジカから聞いた話をトウジに話したい気持ちとで揺れていた。俺の本当の過去を、知って欲しい気持ちがあった。けれど、話しをすることで、俺の存在を否定されてしまったらと考えると恐ろしい気持ちになった。俺の身体が多くの亡骸を基に作られているのだと知ったら、トウジはどう思うのだろうか? 俺を人殺しだと思うのではないか。そう思うと、口を開くことが出来なくなった。

 俺は休んでいるフリをして、目を閉じた。自分を守ることを選んでしまった罪悪感に押し潰されそうになるのを堪えて唇を噛む。俺は弱い。トウジやミナトに……俺の事を知られるのが、怖い。俺の所為で名も知らぬ人間や家族が犠牲になったという事実が、俺の心に圧し掛かる。これ以上、誰も俺の事など知らずにいて欲しい。俺に関わらずにいて欲しい。そう切に願い始めた時だった。いきなり車が甲高い音を立てて停止する。

「どうした?」

 目を開け、トウジを見る。トウジは「ミツカイ君、あれは……!」と前方を指さした。俺はトウジの指をさした方を見ると、そこには黒いワゴン車が数台道を塞ぐように止まっている。車の前には数人の黒いスーツの男達が立っており、俺はすぐにそれがKIΧの構成員であることを察した。

 俺達がじっと前方を睨んでいると、いきなり車のラジオがザザと雑音交じりに動き出した。

「……ミツカイ? 聞こえてる?」

 ラジオから流れてきたのは……ナルサワの声だ。俺とトウジは驚いてラジオに視線を向けた。トウジは俺に「誰だ?」と尋ねてくる。俺は「……組織の奴だ」とだけ答えて、ラジオを見つめる。

「黒い車、見えるでしょ? 乗って」

 ナルサワの声が車内に響く。トウジは小さな声で「……やめておけ、ミツカイ君」と俺を止める。するとナルサワが楽し気に「あはは!」と笑う声。

「一応さ、こっちにもミナト君っていう人質がいるんだけど?」

「ミ、ミナト……⁉」

 トウジがナルサワの言葉にぎょっとする。俺達が家を離れた隙に捕まえたのだろうか? だとしたら、急いでいたとはいえ家を離れてしまったのはあまりにも迂闊過ぎた。俺はラジオを見つめたままぐっと奥歯を噛んだ。

「僕は別に……今すぐに殺してもいいよ?」

「やめろ! ミナトには手を出すな!」

 トウジが悲痛な叫び声を上げる。俺はそんなトウジの様子に居ても立っても居られず、車のドアを勢い良く開けた。

「ミ、ミツカイ君……!」

 俺が出て行こうとしている事に気が付いたトウジが振り返る。その顔は、焦りと不安で歪んでいた。俺を精一杯助けてくれたトウジにこんな悲しい顔をさせてしまっている不甲斐なさを感じ、胸が痛む。これ以上トウジに悲しい思いをさせたくない。もちろんミナトにも。

「ミナトは必ず俺が助ける」

 俺はそう言い残し、トウジの返事も待たずに車の外に出た。

 車の外に出ると、俺は何の躊躇いもなく組織の男達のいる方向へと歩いていく。男達は俺が抵抗しないとわかっているのか、襲ってくる様子はない。俺が車の傍まで来ると、俺の為に道を開けるように並ぶ。その中の一人がワゴン車のドアを開けたので、俺はそのまま車の中に乗り込んだ。

 ワゴン車に乗るとすぐにドアが閉められ、あらかじめ運転席に乗っていた構成員が車にエンジンを掛ける。車はあっさりと走り出した。ミナトが無事かどうかを聞きたかったが、構成員達は基本的に言葉を奪われた傀儡に過ぎない。ただ与えられた命令をこなすだけの道具となり果てた存在には、質問というものは無意味なのである。俺はひたすら、走る車の中でミナトの無事を祈った。

 ……それから何時間と見慣れぬ土地を走り続けた後、車がゆるやかに停止する。車のドアが音を立てて開くと、ふわりとしょっぱいような、生臭いような嗅いだことのない不思議な匂いが鼻を掠めた。車から降りてみると、独特な匂い共に遠くから砂が流れてぶつかるような轟音が聞こえる。

 顔を上げると、俺の前にはクリーム色の大きな建物がそびえ立っている。そして建物のバックは、俺が見た事のない景色が広がっていた。

 あれは、海というやつだろうか。ナルサワが……いつかに本か写真で俺に見せてくれた気がする。途方もなく広がる白んだ空と海の光景に思わず呆然とした。ここは一体何処だ? てっきり、俺のいた組織のアジトに再び戻るのかと思っていたが、そうではなかったようだ。

 俺が辺りの様子を窺っていると、建物の方から構成員とは違う真っ青なコーチジャケットを着た男が歩いてくる。

「お待ちしておりました、ミツカイ様」

 男は丁寧にお辞儀をしてから微笑んだ。こいつは構成員なのだろうか。俺が警戒心を抱きながら黙り込んでいると、コーチジャケットの男は「こちらへどうぞ」と俺を誘導するようにして建物に向かって歩いていく。戻るという選択肢はないから、俺は男に従って建物に一緒に歩いていく。

 建物内に入ってしばらくすると、明かりが落ちて薄暗い空間が広がり始める。広い室内の至る所に大きな水槽がいくつもあり、その中で色とりどりの魚が悠々自適に泳ぎ回っていた。まるで、水中に潜り込んだような錯覚しそうになる。途中、何度か男と同じような恰好をした人間とすれ違う。彼らは皆、にこやかに俺に笑いかけて「いらっしゃいませ」と丁寧に頭を下げた。

 男と共に水槽の展示された空間を進んでいくと、見てきた中で一番に大きな水槽の前に辿り着いた。俺の身長を優に超える圧巻な水槽に気を取られていると、男が「ミツカイ様、お座りください」と俺に声を掛ける。俺が男の方に顔を向けると、水槽の前に白い長椅子がぽつんと置かれていた。ここに座れ、ということらしい。俺は言われるがまま、長椅子に腰かけた。

「しばしお待ちください」

 男は優しく微笑むと、それだけ言って何処かへと消えていった。俺は男が消えた後、ぼんやりと広大な水槽を見上げた。一体、どのくらいの魚がこの水槽の中を泳いでいるのか。どの魚も、きっと俺の知らない名前のものばかりなのだろう……なんて、そんな事を考えている余裕などない筈なのに、どうでもいい事ばかりが頭を過る。何故だか分からないが、不思議とこの空間にいると気分が落ち着いてくる。

 しばらく水槽を見上げていると、ふいに俺の左隣に誰かが座った気配がした。もっとも、誰かなんてもうすぐにわかってしまっていたのだが。

「……ナルサワ」

 俺は隣を見た。俺の隣に座ったナルサワは、水槽の方を見つめたまま柔らかい口調で言う。

「水族館。昔、行きたいって話してたんだ。君と二人でさ」

 水槽の青白い光に照らされたナルサワは、俺に向かって小さく笑った。俺は静かに「……そうなのか」と返す。きっとナルサワの脳内には、俺の知らない俺がいるのだろう。ナルサワは、ゆっくりと水槽の方に視線を移した。

「オジカから全部聞いたんでしょ?」

「……ああ。」

「僕の事、嫌いになった?」

 ナルサワの問いかけに、俺はしばし黙り込んだ。ナルサワはそんな俺を笑って「正直な男だねえ、君って奴は」と呟いた。

「まあ……君は、僕の事を死んでも許してくれないだろうね。僕は本当の君も、君の家族も殺したんだ。当然の結果だと思ってるよ」

 平然とした態度のナルサワからは、何の心情の変化も読めてこない。否、読ませようとしない。どんなにその横顔を見つめても、ナルサワは表情を崩さずにいる。それが、俺には酷く苦しかった。

「……お前が俺の研究の犠牲になったと、聞いた。お前が目を失ったのも、俺の所為だと。……憎まれるのは、俺の方だ」

 本当は、ナルサワの方こそ俺の事を死んでも許さないと思っているのではないかと思った。ナルサワの肉体で実験をしたのはカミシロ博士であるが、そもそも俺さえいなければナルサワは巻き込まれることはなかった筈だ。ナルサワを苦しめたのはむしろ俺の方で、ナルサワはずっと俺を憎んでいたんじゃないだろうか。

「あは……何を勘違いしているのさ、ミツカイ。僕が、カミシロ博士の実験台に無理矢理されたと思ってるのかい?それは違うよ。僕は、自分から進んで実験を受けたんだ。彼の研究に興味があったし、それになにより……君を、救いたかったから」

 ナルサワが俺を真面目な顔で見つめてくる。俺は何も言えず、ただ食い入るようにナルサワを見つめ返した。

「君を救って、二人で新しい世界に行きたかったんだ。KIΧの作る、争いのない世界。そこに……君を連れて行きたかった」

 ナルサワが俺から視線を逸らして目を伏せる。切なげな横顔を見ていると「少し、僕の話をしていい?」とナルサワが言った。

「僕の父さんと母さん、すごく仲が悪かったんだよ。いっつも喧嘩ばかりして……僕の事なんて知らん振りでさ。それが辛かったし、争う二人をとても醜く感じてた。だから、KIΧの行動理念にすごく共感できたんだ。KIΧによって世界が統一されたら……誰も、価値観の違いや感情の噛み合わなさに苦しまなくて済む。そんな世界に、君と行きたくて……僕は実験に参加した。君を救う為なら、肉体の一部が壊れてしまおうと何だろうと構わなかった」

 ナルサワの熱の籠った口ぶりに、俺は「どうして俺の為に、そこまで……」と疑問を投げかけた。ナルサワは俯いたまま、独り言を呟くように言葉を零す。

「……君が、僕の初めての友達だったから。君だけが僕に優しくしてくれたから。僕を救ってくれたから。だから……僕が君を救わなくちゃいけなかった。君の家族を殺してでも」

 ナルサワは、まるで自分に自分の言葉を言い聞かせているようだった。その様子を見て、俺の胸がズキリと痛む。きっとナルサワは気づいていないんだろう。本当に救うべきは自分自身であることに。

「……ナルサワ、一緒に組織を抜けよう」

 俺は追い詰められたような表情のナルサワに向けて言った。ナルサワは俯いたまま何も言わない。俺は構わず話を続けることにした。 

「お前は……俺を必死に救おうとしてくれた。自分を、犠牲にしてでも。なら今度は俺がお前を救いたいんだ」

「僕を救う……?」

 ナルサワがゆっくり顔を上げる。俺はしっかりと頷いた。

「……お前が組織の理念に深く共感しているのはわかる。だが、思っている事や感じている事が違うからこそ、希望が生まれるのも本当の事なんだ。絶望ばかりが、生まれる訳ではない。俺は……ナルサワにそれを知って欲しい」

 俺は長椅子に投げ出されたナルサワの手を握った。ナルサワに、伝わって欲しかった。俺の感じた絶望と希望を。俺がお前の罪ごと抱えたいと思っている事を。

 ナルサワは数度瞬きをしてから、目を細めて静かに笑った。

「……相変わらず、優しいね。君は」

 ナルサワは、俺の手を握り返すことはなかった。それがナルサワの答えなのだと知る。胸の内に、一つ穴が空いた気がした。

「さて、お話はこれくらいにしようか」

 ナルサワは俺の手から自分の手をするりと引き抜き、ゆっくり立ち上がった。俺は感情を隠さず、悲しみに満ちた瞳でナルサワを見上げる。だがナルサワは変わらない。瞳が揺れる事もなく、真っ直ぐな目で俺を射抜く。

「KIΧの理想は、僕の理想だ。それは変わらないよ。僕はそれを追い求め続ける気でいる。例え……君を傷つけることになっても」

 清々しい程澄んだ紫の瞳に、俺は顔を顰めた。ナルサワは単に洗脳されているからとかではなく、本当に心からKIΧに心酔し敬意を抱いているのだ。きっともう、ナルサワには何を言っても届かない。それでも……と俺がナルサワに手を伸ばそうとした時だった。突然首元に何かが巻き付き俺の首を急激に絞め上げる。

「……ぐっ⁉」

 息苦しさに藻掻くと、それが人の腕であることに気が付く。誰かは分からないが、ナルサワの配下が俺を捕えようとしているのだ。俺は咄嗟に前屈みになってから素早く相手の脇下を潜り抜ける。体勢を崩した相手の顔を見ると、それは先ほど俺を案内した青いコーチジャケットの男だった。男の瞳は白く濁っており、先ほどの笑顔は欠片も残っていない。こいつはもう人間ではないと思ってからすぐ、男が再び俺に襲い掛かってくる。黒いスーツの構成員達とは違い、どうやら戦闘能力が低い事が動きから分かった。

 攻撃の隙をついて、素早く男の脇腹に蹴りを入れる。蹴りを入れてみると、男の身体に何か違和感がある事に気づく。俺がその違和感に気を取られていると、男が掴みかかってきた。すぐにその腕を引き剥して男を背負って投げ落とした時、男の軽すぎる身体にまた違和感を覚えた。こいつは一体?

 俺は動かなくなった男の腕を掴んだ。すると、ぐしゃりと紙風船が潰れるかの如く男の腕が潰れる。そのまま男の身体はどんどんとしぼんでいき、くしゃくしゃの何かになり果てた。俺がその「何か」に目を凝らすと、それは白く連なった鱗の皮。もしかして、これは蛇の脱皮した皮のようなものなのだろうか。

「もう、失敗作め。やっぱり耐久性が足りないな」

「これは……なんだ?」

「異種混入型構成員の量産モデルさ。まだ試作段階でね、僕と同じ蛇の細胞を移植してみたけど……駄目だったみたい」

 眉を吊り下げて頬を掻くナルサワに対して、俺は複雑な気持ちになった。俺が今まで攫った人間や殺した人間は、全てこんな風に実験道具にされてしまったんだろうと考えると、自分のやってきた事の取り返しのつかなさを感じた。

「ナルサワ、もうこんな事は……!」

「あはは、まだそんな事言ってるの? ……やめられる訳ないじゃないか。僕はとっくに、悪魔に魂を売ってるんだよ」

 ナルサワが言ったのと同時に、床に落ちたコーチジャケットの中から何かが飛び出し俺の首元に食らいついてきた。それが蛇だと気づいたときには既に遅く、長くしなやかな胴体が俺の首元を絞め上げた。咄嗟に蛇を首から引き剥そうとしたが、それよりも早く身体に異変が起こる。初めて組織から逃げ出そうとした時に感じたあの痺れだ。それも、あの時よりももっと強く、全身を痛みが駆け抜けていく。気道を塞がれた息苦しさと強烈な痺れに心臓が激しく脈打ち、身体から力が抜けてその場に頽れた。

「前回の結果も踏まえて、毒を改良したんだ。傷を負った君にはよく効くと思うよ」

 ナルサワの声が遠くなる。霞む視界の中で、無数の青い影が蠢いて俺を囲んだ。その中に、ナルサワの真っ白な白衣が見える。ナルサワの方へと手を伸ばそうとしても、指一本動かない。

「おやすみ、ミツカイ。いい夢を」

 柔らかい声と共に、届かない思いが意識の水底に消えていった。

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